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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(六〇)

 イエス様は私たちにとって「過ぎ越しの小羊」です。

 「私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです」(Ⅰコリント五・七)。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」(Ⅱコリント五・二一)。

 イエス・キリストは、本来私が死ぬべき場所において身代りとなって死んで下さいました。仮にあなたが道を歩いていてトラックにはねられそうになった時、脇から男の人が飛び出して来て、あなたを突き飛ばすようにしてトラックの暴走から守ってくれたとします。あなたはどうするでしょうか。

 「私のきれいな洋服を汚しちゃって。こんなとこ、すりむいちゃって。」と言って怒るでしょうか。そんなことはしません。「私の命の恩人です。」と言って感謝するでしょう。

 イエス様は私の身代わりとして犠牲となり、死んで下さいました。
 「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです」(ローマ三・二四)。


【贖罪(あがない)】

 何のよい行いもなく、功績もない状態にあって神様の恵みによってキリスト・イエスの贖いにより、神の前に義とされることです。

【贖(あがな)い】

 それは「買い戻す」という意味です。私たちは自分の力で生きるとか、神様を信じないで生きられると思いがちですが、実態はあなたの意志が言っているのではなく、この世を支配している悪魔があなたの心に働いて、あなたを罪の奴隷として自由奔放の生活、快楽を求めさせているのです。

 「神様を知らない」という人は、もっとも惨めな存在です。

 なぜならば、心の自由がなく、良いことをしようとしても良いことができません。いつも自分の欲望、自分のわがままな願いの奴隷となっているからです。そんな状態のあなたを、イエス様は神の国へ迎え入れるために十字架上で血を流して下さったのです。

 イエス・キリストの汚れのない血は、父なる神様の御前に注がれ、私たちは罪の汚れから解放されるのです。


「神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです」(ローマ三・二五)。

 「ローマ人への手紙」における大きな三つの言葉を心にとどめようではありませんか。

  【犠牲(ぎせい)】
  【贖(あがな)い】
  【供(そな)え物(もの)】

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ローマ人への手紙(五九)

 「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」ローマ五章八節


 私たちは力のない者、弱い者で、希望のない者であり、絶望の状態にありました。「私は深い泥沼に沈み足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています」(詩篇六九・二)。


「昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。セラ」(詩篇三二・四)。

こんな状態にあった私たちです。そして私がなお罪人で、「イエス様なんか信じない。聖書も読まない。何もしない。」という不信仰な状態の時に「キリストは罪人である私のためにも死んで下さった」のです。

この場所を読むと、私は「本当に自分は神様の一方的な憐みによって生かされているんだなあ。」とつくづく思い、「生涯、主にお仕えしたい(献身(けんしん))、証(あか)ししたい。」と思うのです。

 小学六年生の夏、川の中で溺れかけました。太平洋戦争が終わる五ヶ月前の三月九日、東京大空襲があり、焼夷弾が落ち、我が家が焼ける寸前、火の中で守られました。

米飛行機の機関銃掃射の中を逃げ惑った時も助かりました。アメリカで伝道中に黒人に殺されそうになった時や、船が大しけで揺れて沈みそうになった時も、様々な苦しみの中にあって神様はいつも守って下さいました。

一九八八年、両目の出血で二年以内に失明すると言われました。アメリカで手術の道が開かれましたが、五年もてば良いと言われました。今も目は守られています。その二年後、前立腺ガンで入院しました。

手術無しで、祈りで癒やされました。神様は信じる者を決してお見捨てにならない、ということを実体験として味わってきているのです。

 私たちが神様を愛したから神様が救って下さったのではないのです。「キリスト教は大嫌いだ。」と言っていた私が神様によって救われたのです。まさに神様の一方的な愛と憐れみのゆえです。

もちろん、今でも私は弱い人間で、罪を犯して負けることがあります。でも、負けても、つまづいても、私には帰る場所があり、受け入れて下さる神様がおられるのです。

 空を飛ぶ鳥は夕暮れが迫ってくると、ねぐらに向かって帰ってゆきます。私たちは自分の休む場所、霊魂の憩いの場を、イエス・キリストの中に見出すことができるのですから、何と幸せなことでしょう。

 イエス・キリストは私たちの身代わりとなって下さったのです。旧約聖書の出エジプト記を読みますと、エジプトで奴隷の状態にあったイスラエルの人々が、神様の裁きの御使いが来る時に家の入り口のかもいの所に血を塗りました(出エジプト記一二・七、一三)。

そして裁きの御使いたちは、かもいに血が塗ってある家は通り過ぎ、神の裁きが過ぎ越したと記録されています。これが「過ぎ越しの祭り」の起こりです。(続く)

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ローマ人への手紙(五八)

 神様を呼び求め、神様の憐みによって私達は救いをいただきます。救いの方法は大変簡単です。

 お腹の空いた赤ちゃんは「オギャー、オギャー。」と泣きます。赤ちゃんが泣くのは、お腹が空いているか、おしめが濡れているかのどちらかだとか。赤ちゃんが泣くとお母さんが来て、おっぱいをくれます。

 私たちは神様の前に「オギャー。」ではなくて「神様、助けて下さい。」と叫びを上げればいいのです。


 信仰のない人たちでも、救われた瞬間から神様は祈りを聞いて下さる、というのが聖書学者の解説です。

 救いに関しては、私たちがイエス様を信じるかどうかという最大の決心をする時に、その心に神様が働かれ、聖霊の働きによって私たちが神様を呼び求めるという形にして下さるのです。


 もともと人間は、アダム以来の罪のために神様を選ぶことができません。ただ、救いを求める時だけ聖霊の強い働きかけで、私たちは自分の意志が変えられて神様を呼び求めるのです。

 そして、そこから私たちは毎日毎日、今度は常識でも自分の努力でもなくて、信仰によって生かされていくのです。


 クリスチャン生活とは、献金をし、お祈りをし、聖書を読み、教会で奉仕をすることで成長すると考えるなら、それは大きな間違いです。

 信仰生活の成長の鍵は、どれだけ私たちが神様との正しい関係にあって、神様を喜び神様により頼むか、信仰を働かせるか、なのです。


 私たちはイエス様を信じる信仰によって神様に罪を赦され、神様の子どもと認められるのです。信仰によって最後まで進んで行きます。

 信仰というのは目に見えません。しかし、信仰の働きの結果を見ることはできます。信仰は、私たちが自分の考えよりも神様を信じることによって、因習(いんしゅう)や、いわゆる「宗教」を超えてイエス・キリストに依存することなのです。


 夜、真っ暗な一階の部屋から二階にいる子供に「そこから飛び降りて来なさい。お父さんが、しっかりと受け止めるから。」と言ったとします。親からは子供が見えますが、子供から親は見えない、という状況だとします。

 たいていの子供は父親が「降りておいで。飛べるよ。」と言うと、無鉄砲に飛び降りますね。子供は、必ず受け止めてもらえると信じるのです。クリスチャンの信仰も同じです。見えなくても、神様が必ず受け止めて下さる、という信仰によって飛び込むと考えたら、理解しやすいでしょう。


 私たちが以前、弱かった時に、神様は私たちを愛して下さいました。素晴らしい神様の愛によって、今まで乞食をしないで生活できたのです。(続く)

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ローマ人への手紙(五七)

 「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。」          ローマ書五章六節

 慰めに満ちた聖句です。私たちは才能があるから救われたのでも、仕事が良くできるから救われたのでもありません。頭がいいからとか、音楽ができるから救われたのでもありません。

 聖書の記述を借りるならば、神様は、本当に無きに等しい者、塵のような者であっても、私たちを救い上げてくださったとあります。神様はその愛を注いで下さるために、私たちを引き上げて下さったのです。


 しかし、実に多くの日本人が、「もし、私が何かの宗教を選ぶとするなら、仏教かキリスト教かイスラム教かそれとも他の宗教か。まあどちらかと言うと私は、キリスト教だと思いますね。」と言います。

 これはいかにも傲慢な、人間的な考え方だと思います。キリストは「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」(ヨハネ一五・一六)と仰いました。


 「あなたは神様を礼拝するために自分の意志で来た。」と言うでしょう。しかし、あなたが神様を礼拝するようになったのは、あなたの力でも才能でもないのです。あなたが人一倍善人だから神様があなたを救ったのでもありません。

 むしろ、教会に集まっている人は、日本社会でも一番良くない人間の集まり、と書くとあなたは怒るでしょうか。私もまた、パウロと同じように「私は罪人の頭(かしら)です。」と告白して神様の御前に立ちます。

 皆さんもそれぞれが、「私は罪人の頭です。イエス様の憐みがなければ、滅びの中に滅んでいる存在です。私がまだ弱かった時に、神様を求めなかった時に、神様に逆らっている時に、あるいは耶蘇教(やそきょう)だとか、色々な悪口を言っていたような時に、私もイエス様によって救われたのです。何一つ誇るところがありません。」という思いで、パウロと同じように神様の御前に立つのではないでしょうか。


 私は生まれつきクリスチャンだ、という人は絶対にいません。親がクリスチャンだから自分もクリスチャンだ、ということは絶対にありえないことなのです。あくまでも、自分の意志で神様を求めるのです。

 ヨハネ一・一三を見ると「この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」と書かれています。ただ、神様の憐みによってイエス様を信じるようにされた(される)のです。

 私たちはクリスチャンになろうと思って一生懸命に聖書を読むでしょう。しかし、クリスチャンになろうと思っていくら聖書を勉強しても、自分の力によってクリスチャンにはなれないのです。(続く)

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ローマ人への手紙(五六)

 「神様。自分はどうしてもお客を開拓する事ができません。仕事をもっと拡張したいと思うので知恵を与えて下さい。」とあなたは祈るでしょうか。信仰を働かせる、とはこういうことなのです。

 ジョージ少年が斧を使ったように、皆さんは神様からいただいた信仰、イエス・キリストの十字架を信仰によって受け止めたならば、その信仰を働かせればよいのです。神様があなたを祝福なさろうとする事を、自分で味わってほしいのです。


 もし、皆さんと私との違いが少しでもあるならば、私は救われてから毎日毎日信仰を働かせて、信仰によって神様から祝福をいただいている点でしょう。

 信仰によって、父親が「絶対、日本では牧師になっては食べていけないぞ。」と言ったにも関わらず、私たちは食べることが出来ているのです。

 ジョージ・ミューラーという有名な孤児院の創始者がいました。彼は二千人もの孤児の世話をしました。彼は毎日祈りました。お昼ご飯が何もない、パンがない。でもジョージ・ミューラー先生は、お手伝いさんに言いました。

 「テーブルにプレートをセットして下さい。」
 「でも先生、私たちはパン1切れもないんです。」
 「いいから、セットして下さい。」

 テーブルをセットする、ということは神様が必ず与えてくださる、という信仰なのです。そしてお昼時間が来ます。向こうの方から馬車の音が聞こえ、パン屋さんがたくさんのパンを運んで来て、その食卓を満たした、と伝記に書かれています。これが信仰を働かした結果なのです。

 クリスチャン生活の成長の一つは何かというならば、どれほど皆さんが個人の生活の中で、お金、結婚、職場、健康、学習のこと、何であれ神様に与えられた信仰を働かせるか、ということです。

 そうするならば確かに神様が私を救って下さった、私と神様との間は喧嘩状態ではなくて、神様との平和があるのだ、という確信が生まれるのです。

 「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。

 そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。

 それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ五・一~五)。 (続く)

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