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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(一二五

 毎年九月から一〇月にかけて、日本中でお祭りがあります。神輿をかつぎ、お神酒を一緒に飲むとか、様ざまな民間宗教の行事が見られます。いくら人間の側で、そういう風に神様に喜ばれようとしても、神様は「あなたたちのやっていることは見当違いだ。私はあなたたちの犠牲を喜ばない。」「まず私に聞きなさい。」とおっしゃいます。


これは旧約時代も同じでした。イスラエルの人々は自分たちの形式、あるいはお祭り儀式を通して神様に喜ばれようとしたのです。「あなたがたが手を伸べ広げて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを多くしても聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ」(イザヤ一・一五)。「あなたたちの心が私に向いていない限り、そうした儀式はかえって忌まわしいものである」と神様はおっしゃいます。


 ローマ書七章には、「自分が欲する善を行わないで、自分が憎むことを行っている」とあります。やってはならないことをやってしまう罪(sins of commision)と、やるべきことをやらない罪(sins of omission)の両面を七章で見ることができるのです。


 「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ八・一)。イエス・キリストを信じる人は、この地上の生活で時に倒れ、時には誘惑に負けてしまうことがあっても、決して死に定められることがない、というのです。永遠の罰を受けることはなくなった、と神様が保証してくださるのです。


私は青年時代、この世の流れに染まり、人間の持っている欲望の虜となっていました。それを考える度に「生きていても仕方がない。死んでしまいたい。」という思いが強くありました。特に一〇代半ばには自殺願望が強くありました。「自分は穢れた人間であり、また欲望の奴隷である。」と大変苦しんだのです。色々な宗教を求めましたが、本当の魂の平安をもつことができませんでした。


 青年時代の私の願望は「金持ちになり、有名になり、そして美しい女性と結婚したい。」でした。一番手っ取り早い出世の道は弁護士だろうと思ったのです。弁護士はお金儲けができ、有名にもなれ、力を持つことができ、社会の悪と戦う事ができる、と考えたのです。


 しかし、若い時の欲望は一つずつ砕かれていきました。大学に二年通って法律の勉強をする中に、法律には抜け穴(・・・)が沢山あり、弁護士が必ず金持ちになれるわけではなく、また、偉いわけでもないことに気づきました。自分で計画を立て、人生についてあれこれ考えたのですが、私の人生は大変惨めで、いつも不安がつきまとったのです。失敗をしたら困る、負けたら困る、という「被害者意識」が強く働き、私の心には平安も喜びもありませんでした。 (続く)

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ローマ人への手紙(一二四)

 当然、人間はこうした心の戦いを経験します。また、いくら努力してもなかなか止(や)められない「陰口を言う」「人の噂をする」ということがあります。妬みの感情、口の災いというものは多くの人びとが、私を含めて経験するところであると思われます。


 私たちは、自分の意思ではどうすることもできない、外部からの刺激に対して、この肉の体に反応してしまう弱さを持つ、罪の法則があるようです。罪の力は、私たちの理性も道徳観も全て踏みにじってしまい、悪いことをやってしまうという発展につながることがあるようです。


 新聞を開いて三面記事を見るのが恐い、うっとうしいと思うような、忌まわしい事件が毎日のように報道されています。しかも、それは、かつては考えられなかったような、消防士が火をつけてまわって「火事だ。」と言って最初に消しに行くとか、警察官が女性を暴行したり、あるいは学校の先生が子供を暴行したりと、これまで模範的だと思われた人たちが次々と悪い事をやって、新聞ざた(・・)になる時代です。


 では、そういう人たちを私たちは責めることができるでしょうか。警察官、消防士、学校の先生たちは、あなたと違う体や感情を持っているのでしょうか。そうではありません。誰もが同じ体を持ち、同じ社会の中で生活しています。裁判官であろうと、警察官であろうと、理性的にあるいは職業柄、欲望を押さえているに過ぎないのです。

一度箍(たが)を外すと、とたんに悪いことをしだすことが多くあります。たとえば、それまで模範的だった警察官が暴力団の顧問(こもん)になったりすることがあります。私たちは、こうした「罪の法則」「肉の体」に力を及ぼす「悪の力」、善を求めていても善をすることができない人間の弱さ、というもの見聞きする時代です。まさに歴史が示す通りです。


 七章を見ると、神様がお与え下さったこの「聖書のおきて」、すなわち旧約聖書の律法は、地上の私たち人間にとって守りきることができないとあります(ローマ七章一五~二四節)。律法を守ることによっては、誰一人神様に正しいと認められません。


 では、律法の働きは何でしょうか。それは人間に罪を示して、神様の助けを呼び求めるようにする「養育係」であると使徒パウロは書いています。自分の力や自分の知恵でやることのできないところを、神様がイエス・キリストというお方をこの世にお遣(つか)わし下さって、イエス様が私たちの身代わりとなって下さったことを、ここで知ることができます。

「肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。肉のうちにある者は神を喜ばせることができません」(ローマ八・五、八)。(続く)

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ローマ人への手紙(一二三)

 私たちは通常の健康状態であれば、動けば疲れるし、お腹も空いてきます。食欲は神様に与えられた人間の機能の一つです。一生懸命仕事をし、あるいは活動して夜が来ます。あたりが静かになってくると、当然人間の脳は休むように働いてきて、私たちは休息をとります。これもまた、自然の欲求です。


 そして、また、それぞれ「種の保存」というかたちで、神様は男性が女性を愛し、女性が男性を愛する、という自然の感情を与えていらっしゃいます。ですから、皆さんが誰かを好きになる、愛するということは、神様の摂理(・・)の内でしょう。人間の欲望や性欲も決してそれ自体が罪ではありません。それらがなければ子孫を残すことができないからです。神様はそれぞれに、必要な人間の体としての働きと機能、そしてまた、種の保存ということで、ちゃんとご計画を持っていらっしゃるのです。問題は、間違った方法で自分の体の欲望を達成しようとするところにあります。


 使徒パウロはコリント人への手紙の中で、そのことを細かく教えています。ローマ書七章を見ていくと、あの偉大な伝道者、ユダヤ人だけでなく異邦人に福音を述べ伝えた使徒パウロでさえ、実は日々の生活の中で、旅の疲れや身心の求めに対して、たいへん弱かったということがわかります。彼は「私が欲する善は、それをすることができない。自分がしたくないと思うことをやってしまう。」と書いています。肉の体には一つの法則があり、人間が肉の力に負けやすい者だということを七章で書いているのです。


 心では神様を求めます。「本当に一生懸命、聖書を読もう。お祈りしよう。奉仕をしよう。捧げていこう。」と思っても、現実の世界では私たちは、足踏みをしてしまうのです。


 人間の社会には様々な誘惑があり、寝ていても起きていても、絶えず私たちの心に浮かんでくる妄想や欲望があります。自分が楽をしたい、働かないでお金持ちになりたいなど、様々な肉の思いがわいてきます。
 男女を問わず、ねたみ(・・・)の感情というものは、多分、生きている間、続いていく感情の一つではないでしょうか。「妬む」という字は面白いですね。女の心が石のように固(かた)くなるというのです。この妬みの感情は、女性だけの苦しみではなく、男性にも起こってきます。
同じ職場の同期でありながら、一人はどんどん係長から課長、部長にと昇進していくのに、「同期入社だのに、どうして自分は置いてきぼりを食うのだろうか。」と。女性より男性の妬みの方が強く、はるかに陰湿であると言われます。        (続く)

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 ローマ人への手紙(一二二) 

 私たちはどんな時であっても、神様の御言葉に聞き従いたいと願うものの、朝から晩まで、生まれてからずっと、神様に召される時まで、信仰の高い峰を歩き続けるということは、まず不可能でしょう。ある時は熱心に神様を呼び求め、祈り、お仕えし、次の瞬間には、あの偉大な預言者と言われたエリヤが陥ったと同じように、大きな成功の後、「神様、もう私は、命を取り上げていただきたいです。」と弱音をはく状態が来ます。信仰生活は私たちの喜怒哀楽(うれしい、かなしい、さびしい)という感情に左右されてはいけないのです。信仰はあくまで「事実」「真実」「信仰」というものが一線に並びます。


 落語家の話を五分あるいは一〇分、三千円だ五千円だと払って聞いて「ああ、楽しかった。」と思ったところで、自分の人生は変わるでしょうか。その時に「わあ~っ!」と笑っても皆さんの人生を根本から変えることはできませんね。


 しかし、聖書を読み、神様のお言葉を一つでも心にしっかり受け止め、これは全知全能の神様の御約束であると信じて、それに従って行動するならば、私たちの人生は全く違った生き方へと変えられてゆくのです。


 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ三・一六)。

「イエス様をこの世にお遣(つか)わしくださったほどに、私を愛してくださった。」という一言を聞くことは、「誰も私を愛してくれないし、考えてもくれない。私は世界中六三億人も人間がいる中で、一人ぼっちだ。」と嘆く人たちに大きな影響を与えます。「人間や全ての物をお造りくださった創造主なる神様が、こんなちっぽけな私をも愛してくださっているのだ。」ということを実感するならば、これまで皆を呪い、あるいはうらやみ、自分は孤独だと嘆いていた生活は変わっていくのです。


 「信仰の力」は、神様のお約束の言葉にのっとった行動にあります。神様に全てを委ねきった生活というものが、私たちの人生を変えてゆきます。くどいようですが、人間は誰もが人間性を持っています。


 「人間の体」には健康な姿の中に、誰もがもつ基本的な感情とか、欲望というものがあります。お腹が空けばジャン・バルジャン(「罪と罰」の主人公)ならずとも、私たちはパンを手に取って食べたくなります。ジャン・バルジャンは、貧しい故にひとかけ(・・・・)ら(・)のパンを盗んで一生、警察官に追われる身となった、という小説があります。             (続く)

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ローマ人への手紙(一二一)

 アメリカは建国時代、初代大統領をはじめ人々は、信仰を基盤として「In God we trust.(我ら神に信頼す)」と言う文字を、コインに刻みました。そういう素晴らしい建国の歴史をもつ国が、物が豊富になり、経済的に裕福になるにつれて、神様を忘れ、自分たちの勝手放題の国に堕落してしまいました。


 教会関係のニュースを見ると、現在アメリカでインターネットを使ったビジネスが盛んであるようです。しかし、その六割が実はポルノを売るサイトだと言います。パソコンは大変に便利ですが、悪魔の道具にもなりえます。仕事中、あるいは、自分の家で、ボタン一つでポルノを簡単に見ることができる恐ろしい時代です。神様が一回だけでなく、繰り返し警告をお与えになるのは、イスラエルの歴史をみて学ぶところです。


 私たちはマスコミを通して様々な議論を聞きます。多くがヒューマニズムの考え方、あるいは同情心、または聖書の断片的な言葉の引用です。テレビの討論や、新聞の投書を見る時、私たちはクリスチャンとして、どう考えるべきでしょうか。一番問題なのは日本人の議論に、神様をないがしろ(・・・・・)にした、あるいは抜き(・・)にした議論が非常に多いことだと思います。「神様のご計画」「神様のみ言葉」「神様を礼拝する」というものが、全くないのです。


 ある人が、テレビで「私は宗教を勉強している。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教、様々な宗教を勉強している。神様は皆、同じだから。」と言うのを聞いて、これが多くの人の考え方だなあ、と思いました。


 あの世界的に有名なビリー・グラハム伝道者でさえ「神様はキリスト教だけでなくして、他の宗教の人達も救う。」と言うようになった時代です。明らかにこれは、聖書の正しい教えからはみ出して(・・・・・)しまった考え方です。


 神様をないがしろにし、神様を抜きにして、人間の同情心に訴えたり、または感情に訴えるメッセージが世界中で聞かれます。そういう中に、私たちはどんな時であっても、神様の御言葉に聞き従い、神様の御言葉が「はい。」と教えるならば、どんなに自分の立場が悪くなるとも「はい。」と言わなくてはなりません。

神様が「いいえ。」とおっしゃる時には、どのように自分の利益が目先にぶら下がっていても、「いいえ。」と言わなくてはならないのです。これがクリスチャンの本当の意味での信仰であり、また、信仰の父、アブラハムが私たちに示した信仰者の歩みではないか

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