FC2ブログ

習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(五三)

 私が教会に行き出すと、父は大変反対しました。「うちは仏教の家なんだから、絶対クリスチャンになっちゃいけない。教会なんか行くな!」大変きつく教会行きを止められたのです。

 そこで私はその頃、戦争が終わってから英会話を勉強したいということで、教会へ行くとただで宣教師が英語を教えてくれるから、とそれを口実にして教会に行ったのです。

 初めは、英会話の勉強に行ったわけでしたが、やがて、その事がきっかけとなって、聖書を読み始める事となりました。

 ある日、家にいて英語の聖書を練習しながら読んでいました。全く英語の分からない父親が「お前、クリスチャンになったのか。」と言ったのです。
 「へぇっ?」こっちがびっくりしました。

 「お前の読んでいるのは、どうも耶蘇教(やそきょう)の教えらしい。」と言うわけで、「絶対、クリスチャンになっちゃいけない。うちは仏教徒なんだから、クリスチャンになっちゃいけない。」と。

 その後、私は神様を信じ、救いをいただきました。そして、もう毎日のように聖書を読みながら、また仕事を続けたわけでしたが、ある時、父親が厳しい顔をして言ったのです。

「お前、クリスチャンになったのか。」
「はい。」
「しょうがない。なったものはしょうがないけど、絶対、牧師にはなるなよ。牧師になったら日本で食べていけないから。」と。

 でも神様は日々必要な物をお与え下さり、私達は路頭に迷う事もなく毎日必要な物を神様から与えられて生活することができているのです。

 あなたの人生は、あなたのお父さん、お母さんではなくて、あなた自身で、自分でコースを決めるのです。自分でどういう人生をおくりたいのか、自分の心でしっかり祈って神様から与えられる道を進むことが大事だと思います。

 私達はよく「もう、しょうがない。親が学校へ行けと言ったから行ったんだ。親が医者になれと言ったから医者の勉強をしたんだ。学校の先生がこう言ったからそうしたんだ。」と言って、いつも誰かのせいにする国民性があるのかもしれません。
 誰かの責任にしたいのでしょう。そしてなかなか自分で選んだ道、という風にして自分でその実を刈り取ろうとしないのではないでしょうか。

 日本人の口癖の一つだと思うのですが、非常に気になる表現があります。「みんながやっている。」「皆が言っている。」という表現です。本当に「みんな」が言っているのでしょうか。本当に皆がやっているのでしょうか。ここには落とし穴があり、また心理学的に興味深い面があるようです。(続く)

PageTop

ローマ人への手紙(五二)

 何年か前に、神様からいただいている祝福を簡単なリポートにまとめて、10名程にEメールで送信しました。

 目の手術以後、自分ではEメールをしませんが、今回は本当にびっくりしました。昼間に送って翌日には私の手元に返事が来たのです。それも、アメリカからです。なかなかEメールも捨てたもんじゃないなと思いました。「いいメールでした!」

 私たちがいただいている祝福がまた別のところで祝福を呼び起こし、連鎖反応を起こしているようで本当に感謝なことです。

 その返事の中に、結婚を反対され10数年間行き来のなかったご主人の両親が、教会に来会されたという神様の大きな憐れみの証しがありました。

 神様を信じて祈る時に、私たちが刈り取るのは絶望ではなくて希望であり、豊かな祝福があるということを覚えます。


 ローマ五章は大変素晴らしい聖句がたくさん記されていて、とても短期間では学びきれないほど多くの御言葉の奥義が隠されています。
 
【神との平和を持っています】
 「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」(ローマ五・一)。

  日本に育って、生活をしていて当然日本人が小さい時から持ってきた日本人の独特な感覚と言うか、人生の捉え方というものは身に染みていることでしょう。


 私達は何か人生に悪い事が起こる、躓(つまづ)きが起こると「先祖の祟りである」と、小さい時から言われてきました。「先祖を粗末にしたからあなたにこういう祟りが来たんだ。」と。或いは不幸の経験があると、「運命だ」。このように諦めという事が強調されてきました。

 私も子供の頃から、くり返しこうした仏教的な諦めの教え、さらに人生の様々な問題に直面する時にいつも「先祖の霊を大事にしないからだ。」ということで、それこそ「恐怖観念」を植え付けられてきました。

 熱心な仏教徒であった父に対して、私はなかなか逆う事が出来ませんでしたけれども、戦争に敗けた時に、「仏教には私が頼るべき力がない。」と感じたのです。

 また、日本人が「大和魂」だとか「神道(しんとう)」、「日本は神の国である。」と考えていたことも単なる幻に過ぎなかったと思いました。

 そして私は「自分の生き方は自分で選びたい。こうした因習であるとか、或いは日本人の義理・人情の世界とか、仏教・神道の世界ではなく、自分で納得のいく生き方を求めていきたい」と決心したのです。 (続く)

PageTop

ローマ人への手紙(五一)

 「『これらの日の後に、わたしが彼らと結ぶ契約はこうである。ー主のことばー わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにこれを書き記す』と言った後で、『わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない』 と言われるからです。」
ヘブル一〇・一六~一七

 あなたをこの地上に生かして下さり、あなたを造(つく)り、日々支えて下さっている神様が、「これから決してあなたの罪けがれを、思い出すことはしない。あなたを義と認めている。だから生涯イエス・キリストの十字架のところに立ちなさい。イエス・キリストと共に人生を歩んで行きなさい。神と共に生きていくなら、わたしはあなたを私の愛する子どもとして、家族の一員として支え導く、栄光の望みをもって進んで行きなさい。」とおっしゃるのです。

 「見よ、その時代が来るー【主】のことばー。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだー【主】のことばー。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
エレミヤ三一・三一、三四

 「神様との平和」。それは良心の呵責(かしゃく)、良心(りょうしん)の咎(とが)めから解放されることであり、神様の裁(さば)きから解放されることです。自由にこの地上の生涯を喜ぶことであり、誰からも後ろ指(ゆび)を指されることなく、本当に神様の子どもとして堂々と、自分の道を邁進(まいしん)できる生涯(しょうがい)なのです。

 どうしても抜け出すことができない悪い習慣を持つ方(かた)がいるかもしれません。また、捨てることができない娯楽があるかもしれません。しかし、イエス・キリストを見上(みあ)げることによって、一つ一つ、惜しむことなく捨てることができるようにされるのです。

 私たちは弱く、時(とき)には倒(たお)れ、つまずき、神様から目をそらしがちです。しかし、神様は聖書の約束通りに、私たち一人一人を励(はげ)まし、たとえ七回転(ころ)んでも八回立ち上がることができるように支えて下さいます。確かな御言葉の上に人生の土台を築いてゆきましょう。

 「正しい人は七度(たび)倒れても、また起き上がり、悪(あ)しき者はわざわいでつまずくからだ。」箴言二四・一六
(続く)

PageTop

ローマ人への手紙(五〇)

 最近の糖尿病のビデオを見ると、糖尿病食ほど素晴らしい食事はないと医者が言います。実際に自分でやってみて、なるほど健康に効果があると思います。

 私たちが人生の様々な苦しみ、苦い経験をする時は、言わば糖尿病の宣告を受けるのと同じかもしれません。

「あー、これまで楽しんでいたあれやこれや、お酒も飲めなくなるし、タバコも吸えなくなる。ダンスにも行けなくなる。あれもいけない、これもいけない。そんな窮屈な生活は嫌だなあ。」と。ところが、神様の下さる霊のまことの乳である神様の御言葉(みことば)を慕い求めていくと、これまで自分が飢え渇くように求めていたものが欲しくなくなってくるのです。不思議だなぁと思います。

 一ヶ月位そういう食事をしていると、それまで欲しくて欲しくてたまらなかったものが、もういらなくなるのです。たとえばチョコレートなど。

 神様の下さる霊のまことの乳を慕い求めていくなら、私たちは太り過ぎず、栄養過多になり過ぎず、しかも健康体でいることができるのです。本当に不思議なことだ。私たちは、追いかけてくるという神の呪い、裁きを恐れることがなくなるのです。

 本当に神様は私の罪・けがれを赦(ゆる)して下さり、いつでも神様に向かって、声を上げるならば神様と親しい交わりが出来るのです。神様と私とは、敵の関係ではなく親子の関係になるということが分かってきます。

 ある方をカウンセリングした時のことは、今でも印象深く残っています。彼は「私は戦争中、中国で、何も悪いことをしていない村人が逃げ惑うのを、自分の手で殺しました。そのことを知られたくないと思って、神はいない、神はいない、と思っていたのです。自分の罪をいつも隠そうとして、神はいないと言って神を認めようとしなかったのです。」と言ったのです。

 その日、私は聖書を通してイザヤ書の中から〝たとえその罪が緋(ひ)のように紅くても雪のように白くされる。〟ということをお話ししました。この人は、その聖句を通して、本当にイエス様の前にひざまずいて、救い主と信じました。神様は、私たちが罪を言いあらわすならばその罪を赦して下さり、東が西と絶対交わることがないように罪を遠くにして下さるのです。

 「 東が西から遠く離れているように主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される」 詩篇一〇三・一二
                    (続く)

PageTop

ローマ人への手紙(四九)

 仮に皆さんが学校で表彰されるとして、校長先生が表彰状を持ち、教頭先生が脇でプレゼントを持って「○○さん、前に来てください。」と言われると、あなたは堂々と前へ進んで行くのではないでしょうか。

 恥ずかしがって頭に何かかぶって行く必要はありません。私たちはイエス様を信じることによって、もう罪を隠そうとする必要がないのです。神様の御前に顔を真っ直ぐに向けて、立つことができます。何故なら、神様は私たちの罪汚れを一切思い出すことはしないとおっしゃるからです。

 「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」(ヘブル一〇・一七)。イエス様を信じることによって、私たちは、神様の前に、一度も罪を犯したことがないと認められるのです。

 「信仰による義認(ぎにん)」「神との平和」そして「恵みの御座(みざ)に近づく」ことができます。さらに、〈神の栄光を望む〉ということです。この世の中の願い、望みは罪の世界の快楽ですが、クリスチャンにとっての希望とは「栄光の望み」です。

 全能の神様=主イエス・キリストの御前(みまえ)に私たちは一つの家族として、豊かな祝福にあずかることができるのです。永遠の喜びが待ち受けています。

 皆さんは、何かの持病を持っていらっしゃいますか。五〇~六〇才になると何らかの病気を持つようになるそうです。今、日本で大変大きな問題となっているのが、小学生をはじめペットに至るまで、糖尿病が大変多いということです。ペットが食べ過ぎで太っているなら、糖尿病になっているかもしれません。

 私たちも随分前から糖尿病の予備軍だと言われていました。私が前立腺がんで入院した時、糖尿病の検査に引っかかり、一週間余り糖尿病食を食べましたが、不味かったです。パンが一切れ、バターが少し、野菜の煮っころがしが少々。おまけに味気もなく、こんなもので命が保てるのか、と思うくらい粗末でした。

 最近の糖尿病食は驚くぐらい豪華になって、目先も変わっていて三〇品目位揃っているとか。見た目もきれいだし充分満足できるように作られていて、随分成長したなあと思えるそうです。

 糖尿病になると、よく「玉ねぎを食べなさい」と言われます。玉ねぎは犬や猫には絶対与えてはいけない、血液を溶かすから、と言われます。しかし、人間にとっては玉ねぎは大変健康に良く、特に糖尿病には良いそうです。玉ねぎは食べた後ににおいが出るし、お腹がゴロゴロすることがあり、嫌いな人達もいるようですね。糖尿病食を続けていくと段々わかってくるのですが、体が軽くなります。動きがべったんべったんからスゥーと歩けるようになり、坂道を歩く時にハァハァとやっていたのが息切れしなくなるのです。糖尿病食は馬鹿にできないな、と思った次第です。(続く)

PageTop