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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(四一)

 パウロは「神が私たちとともにおられる」(マタイ一・二三)という真理をローマ人への手紙においては「神様との平和」と表現しました。神様は、いつも私たちと共にいて下さいます。どんな時であっても、寂しい夜道を歩く時にも、辛い人生の重荷を抱える時でも、「神が私たちとともにおられる」のです。さらにすばらしい聖書のお約束がローマ書にあります。

 「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ八・三一)。世界中の誰も、神様を信じるあなたを打ち負かす事はできません。真っ暗なトンネルに入っていたとしても、神様を信じて、神様に従っていくならばどんなむずかしい問題も必ず解決の道が開けているのです。

 「高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ八・三九)。時々、私はお母さんに抱かれている小さい子どもを「おじちゃんの所においで」とからかいます。はじめは「ウーン」とか言っていて私が無理矢理お母さんから引き離そうとすると「イヤッ!」と、お母さんにしがみついてしまうのです。同じように、誰も私たちを神様の愛から引き離すことはできません。

 子どもの場合でも自分の手でしがみつきます。私たちクリスチャンは、神様を信じればちゃんと神様が押さえて下さるのです。誰も、私たちを神様から引き離す事はできません。こんな素晴らしい神様の約束、平和の約束が与えられたのですから、賛美をしないではいられないと思うのです。

 かつて、アメリカの有名な伝道者ドワイト・ムーディという人がいました。彼は伝道集会の時に、いつもアイラ・サンキーという独唱者を伴って行きました。その頃、たくさん賛美歌を作った盲目の女性ファニー・クロスビーという人もいました。彼女は七一歳の高齢でしたが、ムーディ先生の集会に行って、その時ムーディ先生から讃美の証を頼まれ、短い時間で賛美を作り、みんなの前で証をしたそうです。会堂を埋め尽くした会衆は、彼女の賛美に涙したとのことです。

 それは、神様が私たち一人一人を愛して下さり、どのような悩み、苦しみの時にもいつもいて下さる、神様の安らぎを約束した歌でした。総合聖歌六八九番「いつかは『さらば』と」です。ムーディ先生は、しばしば、伝道集会や他の集会の時に、聖歌隊にこの歌をはじめに歌ってもらい、会衆にはおりかえしの部分、「み顔を拝して我は告げまつらん。恵みにわが身も贖(あがな)われたりと。」という部分を歌ってもらったということです。(続く)

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ローマ人への手紙(四〇)

 旧約聖書に出てくるダニエルという人物は、朝、昼、夕と一日に三回、神様に向かって祈りをささげました。私たちは、回数、時間の長さではなく、いつも神様と親しい交わりをいただき、神様とお話をするということが大事なのです。

 私たちも六〇歳を超えると、段々と記憶力が衰えてきます。私のもともとの職業は英会話の指導で、もう五〇年以上、英会話を教えてきました。それが、年をとるに従って口が重くなり、言いたい言葉が出てこなくなりました。そのために毎日三〇分、声に出して英語の本を読み、絶えず表現の向上に努(つと)めています。

 もし、皆さんが学校で勉強をなさっているならば、特別に時間がとれないという時には、習っている外国語で祈ると一石二鳥で、記憶をリフレッシュし、神様とお話ができます。私は歩きながらでも、英語を口にして神様に祈ります。絶えず神様と交わりを持つようになり、神様の祝福を感謝することができるのです。

 「神様との平和」、それは修道院に入ってしまうとか、人生に何のトラブルもないという生き方ではありません。神様との平和は、第一に、神様との正しい関係ができることです。二番目に、私たちは最早(もはや)、神様と遠く離れていないという聖書を通しての確信です。

 最近の若い人たちがうらやましいです。今から五〇年前にEメールというものがあったなら、多分、私は夢中になってそれを使ったことでしょう。今では、Eメールと聞くと身震いし、Eメールが何か獣(けもの)に見えます。世界中に同じ文章が瞬時に届いてしまうのです。私にはEメールよりも、ADSLよりももっと速い通信方法がありますが・・・。

 神様に祈り始めると、神様はちゃんと聞いてくださいます。こんな速い方法はありません。いちいちボタンを押さなくてもよく、「神様・・・。」と祈り始めるなら、ちゃんと神様は聞いてくださるし、お答えもすぐにいただけます。

 先週もいくつか嫌な事がありました。牧師の世界には皆さんに言うことのできない、嫌なことや辛い事があります。当然、皆さんにも、会社や、事業を営んでいれば事業の中で言うことのできないトラブルがあるでしょう。でも、それをずっと持ち越すのではなく、神様に祈りで訴え、神様に解決をお願いし、そして、神様から力を頂くのです。私たちは神様との平和を土台として祝福を頂きます。神様との平和、それは、イエス様が御誕生になった時の御使いの言葉(マタイ一・二三)を私たちに思い起こさせます。「『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である」。(続く)

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ローマ人への手紙(三九)

 いさかい、争いというのは辛いものです。そばにいるだけでピリピリして、「相手は何を考えているか。どういったら相手は自分のことを理解してくれるだろうか。」と悩むのです。

 「神様との平和」とは、いつも神様と仲良しでいるということです。仲が良ければ、お願いしやすいものです。皆さんはご主人に「今日の牧師の話は堅苦しくて肩凝っちゃった。教会から帰ったらちょっと肩もんで下さいよ。」とは、絶対言わないでしょうね。

 会衆と説教者との間には壁があるのです。牧師には、「今日は難しかったから、もう少し易しくして下さい。」とか、あるいは「今日は楽しかった。」とか「長い間の疑問が解けた。」とか、何か言ってもらいたいです。私でも、時々、家内の肩をもみます。先日も、「ああ、肩凝っちゃった。」と言うので、それじゃあ、とチョチョッとほんの一〇分位でしたが肩もみをしてあげました。私たちは仲が良ければ、争いがなければ、普通だったら頼めないことも頼めるものです。

 イエス様を通して私たちは、全てのものをお造りになった創造主の神様に、何でもお願いすることができます。たとえば、疲れた時には「神様。私は疲れました。休息を下さい。」寝る前にそうお願いします。そうすると、体の筋肉の疲れが癒されます。

 今晩、寝る前に「神様、私はもう本当に疲れました。肩は凝り、足はパンパンに張っています。水虫もかゆくて大変です。」何でもいいのです。「神様。どうか私を癒して下さい。」と祈って寝るなら、必ずそのお答えがあります。不眠症に悩む人であっても、必ずその悩みは解決します。神様はイエス様のお名前を通して、「何でも私に求めなさい。」とおっしゃるのです。

 「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい」(ヨハネ一六・二四)。「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ七・七)。これが、「神様を愛する者の特権」です。それまで逃げまどっていた者が、今度は神様に何でもお願いができ、お話ができる、これが「神様との平和」なのです。

 「義と認められる」ということは、神様の司法的な行為です。神様との正しい関係に立ち、立場が変化した「義人(ぎじん)」は、無罪と宣言され、義であることを明らかに認められた人です。
 
神様は、人類に対して神様ご自身のご性質を明らかになさいました。私たちが十字架を見上げる時に、自分の力、自分の功績(こうせき)は全くない、ということを知るのです。こうして私たちは、イエス様を通して神様との間の平和をいただき、どんなことでも神様にお願いし、嬉しい時も、悲しく辛い時も神様に訴えかけることができるのです。(つづく)

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ローマ人への手紙(三八)

 人間は自転車と同じで、止まっていると倒れてしまいますから、一生懸命こがなければいけません。多少下手でも、こいでいれば走っていきます。本当に上手になると少しぐらい止まってもじっとしていますが、たいていは止まれば倒れます。ですから、それまでは夢中になって自転車をこぐように、私は人生を走ってきました。

 でも、イエス様を心にお迎えした時に、まったくイエス様におゆだねして、通常の走り方をしないでもすむようになったのです。なぜならば、イエス様が私の罰を受けて下さったからです。そして、これまで怖(こわ)い怖いと思って神様に背を向けていた私が、今度は神様の方に向かって「神様、ありがとうございます。」という親しい交わりを与えられるようになりました。その確信となったのが、ローマ五章一、二節の聖句です。

 私達は自分の良い行ないで、一方、ユダヤ人は割礼(かつれい)を受け、律法を守るとか儀式や戒律を守ることによって神様にご褒美をいただこうとして、失敗しました。割礼を受ける者も、割礼を受けない者も、神様に受け入れていただくためには、ただ一つ、「信仰」しかありません。

 神様がご用意下さった救いの方法である、イエス・キリストを心にお迎えするという信仰によって、初めて神様に受け入れていただくことができるのです。私達は神様に「あなたは無罪放免ですよ。罪を一度も犯したことがないと同じように認めますよ。」と言われるために、何をするべきでしょうか。献金でしょうか。

 「これまで献金は一〇〇円やっていたけれど、思い切って一万円にしよう。」そうではないのです。イエス様がご覧になっていた時に、貧しいやもめがレプタ二枚をささげました。レプタは当時のお金の最小単位(一レプタ=約三九円)で、そんなわずかな献金を、恥ずかしそうにしてささげたその未亡人は神様に大変大きな祝福を頂いたのです。神様が見ていらっしゃるのは、私達の献金の額ではなく、私達の心がどれほど神様に向いているか、神様をお喜ばせするか、です。

「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」       ローマ五章一節

 夫婦が、ちょっとした争いからお互いに口もききたくない、顔も見たくない、「お前なんか出て行け!」「出て行きますよ。」と、お互いにケンカしてツノ突き合わせている時には、結婚するんじゃなかったと思うでしょう。別の女性と、あるいは別の男性と結婚すればよかったと思うのではないでしょうか。「神様との平和」、何というすばらしい安らぎに満ちた御言葉でありましょうか。(つづく)

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ローマ人への手紙(三七)

 日々の生活において、何かを恐れ、逃げるということは大変不幸な人生だろうと思います。

 小さい時から何か悪いことをすると、すぐ親や周りの人に「そんなことをするとバチが当たるよ。」と脅かされた覚えはないでしょうか。ご飯粒をお茶碗の端っこにつけたままで「ごちそうさま」と飛び出そうとすると「待ちなさい!ご飯粒をちゃんと食べなさい。そんなに粗末にするとバチが当たるよ。」と怒られたものです。

 とにかく、「罰(ばち)が当たる、バチが当たる」と言われてきました。当然これは、日本人が考える神々で、偶像の神々にバツを受けるということなのです。こうした日本人の宗教感覚がさすものは、バチが当たる怖い存在の神々、あるいは亡くなった人たちの霊です。「仏様を粗末にするとバチが当たるよ。」と言われて、仏壇に手を合わさせられる。

 いつも人間の感覚は、「恐れ」「おののき」そして「何とかして罰(ばち)があたらないように・・・。」というものです。私もいろんな形で、葬儀のお手伝いをさせて頂きますが、日本人は、この「罰(ばち)」、「汚(けが)れ」という観念からなかなか抜けられません。

 仮に、ここが六畳間の部屋だとします。そして、ここに今、息を引き取ったばかりの遺体が置かれているとします。その部屋が日本人の家庭では一番大事な居間、リビングだとすると、大抵そこには神棚があり、別室には仏壇があります。まず葬儀屋さんが来ると、「半紙はないですか。」と尋ねます。半紙をどうするのかと思って見ていると、神棚に紙を張り、神様たちがこの汚れを見ないように、というわけです。

 不思議に思うのは、汚れ汚れと言いながら人間はその汚れたものに手を合せて拝み、全く理に反することをしているのです。汚れたものを神様に見せてはいけないと言って半紙を張り、「神様、見ないでね。」とやっていて、自分達はこっちで手を合せて拝むという、こうした矛盾したものが日本人の「神」に対する考え方なのです。

 私は聖書を読んで本当に感謝したことは、こうした恐怖、不安から解放されるということでした。いつも悪いことをすると、「バチが当たる。」あるいは、「そんな人生を送っていると、何か必ず後(あと)で後悔するような罰(ばち)が来るぞ。」というようなことを言われて、まわりをキョロキョロ見回しながら、自分は本当に安全だろうかと過ごしてきたのです。そういう状態は非常に不安でした。イエス様を心にお迎えするまで、私の人生は真正面にずっと突き進んでいなければならないと考えていたのです。

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