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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(四九)

 仮に皆さんが学校で表彰されるとして、校長先生が表彰状を持ち、教頭先生が脇でプレゼントを持って「○○さん、前に来てください。」と言われると、あなたは堂々と前へ進んで行くのではないでしょうか。

 恥ずかしがって頭に何かかぶって行く必要はありません。私たちはイエス様を信じることによって、もう罪を隠そうとする必要がないのです。神様の御前に顔を真っ直ぐに向けて、立つことができます。何故なら、神様は私たちの罪汚れを一切思い出すことはしないとおっしゃるからです。

 「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」(ヘブル一〇・一七)。イエス様を信じることによって、私たちは、神様の前に、一度も罪を犯したことがないと認められるのです。

 「信仰による義認(ぎにん)」「神との平和」そして「恵みの御座(みざ)に近づく」ことができます。さらに、〈神の栄光を望む〉ということです。この世の中の願い、望みは罪の世界の快楽ですが、クリスチャンにとっての希望とは「栄光の望み」です。

 全能の神様=主イエス・キリストの御前(みまえ)に私たちは一つの家族として、豊かな祝福にあずかることができるのです。永遠の喜びが待ち受けています。

 皆さんは、何かの持病を持っていらっしゃいますか。五〇~六〇才になると何らかの病気を持つようになるそうです。今、日本で大変大きな問題となっているのが、小学生をはじめペットに至るまで、糖尿病が大変多いということです。ペットが食べ過ぎで太っているなら、糖尿病になっているかもしれません。

 私たちも随分前から糖尿病の予備軍だと言われていました。私が前立腺がんで入院した時、糖尿病の検査に引っかかり、一週間余り糖尿病食を食べましたが、不味かったです。パンが一切れ、バターが少し、野菜の煮っころがしが少々。おまけに味気もなく、こんなもので命が保てるのか、と思うくらい粗末でした。

 最近の糖尿病食は驚くぐらい豪華になって、目先も変わっていて三〇品目位揃っているとか。見た目もきれいだし充分満足できるように作られていて、随分成長したなあと思えるそうです。

 糖尿病になると、よく「玉ねぎを食べなさい」と言われます。玉ねぎは犬や猫には絶対与えてはいけない、血液を溶かすから、と言われます。しかし、人間にとっては玉ねぎは大変健康に良く、特に糖尿病には良いそうです。玉ねぎは食べた後ににおいが出るし、お腹がゴロゴロすることがあり、嫌いな人達もいるようですね。糖尿病食を続けていくと段々わかってくるのですが、体が軽くなります。動きがべったんべったんからスゥーと歩けるようになり、坂道を歩く時にハァハァとやっていたのが息切れしなくなるのです。糖尿病食は馬鹿にできないな、と思った次第です。(続く)

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ローマ人への手紙(四八)

旧約聖書を見ると、イスラエル三代目の王様ソロモンはたくさんの側妻を抱えました。

これは日本でもありますが、周辺の国々と領土争いをしないようにと政略結婚をし、その結果、いろいろな出身地の女性の偶像や神々をソロモンは迎えてしまったのです。

神様はソロモンに知恵を与えて下さいました。けれども、ソロモンの不信仰と不従順の罪の故に、ソロモンの死後イスラエルは二つに分裂したのです。

一方はイスラエル王国で、ヤロブアムがリードをとり、一方はユダ王国として、レハブアムがリードをとりました。

イスラエル王国、サマリヤ地方のヤロブアムはイスラエルの人々がエルサレムに礼拝に行ったのでは彼らの心は自分から離れてしまうと考えて、イスラエル王国内に偶像崇拝の場所を作ったのです。その時、神様は一人の預言者をお遣わしになり、ヤロブアムの罪を指摘させた時に、ヤロブアムは大変怒りました。

しかし、神様は彼の手を引っ込めることができないようになさったため、ヤロブアムは預言者にこう言いました。
「どうか、あなたの神、【主】にお願いして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手は元に戻るでしょう。」(Ⅰ列王一三・六)。「あなたの神様にお願いして、私の手を元に戻して下さい。」という意味です。

私達は人生の問題があると、教会に来て牧師あるいは、宣教師、信仰の先輩に「どうぞ私のために祈って下さい。」と言います。しかし、聖書の約束は、マリヤや牧師や宣教師を通さずに、あなたが直接父なる神様にお願いすることができるとあります。牧会をしていると時々「先生。私のためにこういうことを祈って下さい。」と言われ、その時すぐ祈らないと、むかっときて後で私のことを非難する人たちがいます。

・・・しかし、祈りというのは誰かに強制されてするものではないと思うのです。私はその人の話を聞いている時、すでに祈りを始めます。口に出さなくても神様に祈りながらお話を聞いているのです。人間は弱いので、特別に牧師がひざまずいて手を置いて祈らなければ祈ってくれないと思うかも知れません。

しかし、そうではないのです。私たちは中間に仲介役のマリヤや牧師を必要としません。直接、父なる神様にお願いし、お
話ができるのです。これが信仰により、今立つところの恵みに入ることができる、ということなのです。

皆さんが、目を閉じて「神様、父なる神様。」とお祈りすると、神様は「わかっている。あなたの言いたいことを言いなさい。」と、私たちが言葉を発する前に聞いて下さるのです。
「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」
イザヤ六五・二四

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ローマ人への手紙(四七)

 チャールズ・ソロモン博士は、有名な飛行機会社のカウンセラーをなさっていました。けれども、この先生自身が、心理学でカウンセリングを勉強したのにノイローゼになってしまいました。

 人間が作ったカウンセリングでは人を救うことはできないと、その後、先生は一生懸命にローマ書を勉強したそうです。人間は聖書の御言葉によってカウンセリングを受けなければならない、ということに気がついたと言われました。

 ソロモン先生と私とは非常に似た経歴をたどっていました。人間が作り出した心理学や精神分析、哲学、あるいは様々な人間の知恵による産物は、決して人間を救う力はない、と分りました。「いつも、誰かに見られている。いつか自分に裁きが来るぞ」という恐怖感は、例えようのない恐ろしい状況でした。心に安らぎがないのです。

 いつか裁きが来るという不安がありました。こうして逃げまどっている時に、神様は聖書の御言葉を通して、私の罪・汚れも、「イエス・キリストを信じるならば赦(ゆる)される」という約束をお示し下さったのです。

 若い頃、私もお酒を飲む席に連なったり、親戚の者に教わってダンスや麻雀をやったり、いろいろな遊びをやらされました。(自分からそれをやるということは、あまりなかったのですが)。

 世間一般の人と同じにやってみるかということで、誘われて入ったのです。しかし、決して心に安らぎはなく、いつも神様を恐れ、いつか自分の全(すべ)てが明らかになってしまう、いつか自分の正体がばれるぞという不安がありました。それを隠そう、隠そうとしている時は、不安と恐れだけで、安心感はありませんでした。

 私は神様に全てを明け渡し、「神様。あなたは私の欠点も、こうした心の中の欲望も、全てご存知です。もう神様に逆らうことをやめます。どうかイエス・キリストの十字架の血によって、洗い清めて下さい。私の力と努力では、神様の愛と恵みを受ける資格がありません。まったくお手あげです。神様に完全に降伏します。」とお祈りをしました。その時に、怒涛のような波に流された思いがしたのです。

 そして、静かな神様の赦しの御声(みこえ)を伺ったのです。その時から私の人生は変わりました。私は今、神様の赦しをいただいて、この聖書を学び、自分の人生を築いてゆくのだ、ということを決心したのです。それまで、あれこれ捜し求めて人生の土台を築こうとしていたのですが、最後は神様の御約束の言葉以外に立つべきところがないとわかったのです。それ以来、もう五〇年を越えましたが、本当に神様により頼んで良かったなあと思っています。

 「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
              ローマ五・八(続く)

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ローマ人への手紙(四六)

 「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。」   ローマ書五章六、七節

 私は、熱心な仏教徒である父親に育てられました。父は幼い時に両親と死別し、その後お寺で育てられたということもあり、非常に厳格な家庭でした。絶対に嘘をついてはいけない、という修身道徳のお手本みたいな父で、躾が厳しかったのです。そういう中にあって私は聖書を読み、「私は違う。このローマ書三章の言っていることは違う。私じゃない。」と抵抗しながら聖書を読んだのでした。


 聖書の中には「ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。 次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。一人もいない』」(ローマ書三章九~一〇節)と書いてあります。

 正しい者は一人もいない、この世に正しい者は誰一人いないのだ、ということに愕然としました。私は、他人の前ではクラスの委員長や学級委員として偉そうなことを言っているが、自分一人になった時、一体何を考え、何をしているんだろうか、と思いました。

 思春期から青年期、これは世界中どこの若者でもそうでしょうが、異性に興味が湧くものです。戦後の混乱の中、好色文学が沢山増えてきて、そういう物を読みあさったこともありました。しかし、心の安らぎはなく、喜びのない人生でした。他の人の顔を見ることが恥ずかしいような、何か自分がいつも悪いことをしているような感じがしていたのです。


 そして、次にたどったのは心理学の勉強でした。東大教授の書いた心理学の本や有名な作家の書いた本を読みあさりました。心理学を勉強すれば、何か土台を見つけられるのではと思ったからです。

 思春期の性に対する関心や、世の中の様々な快楽を追い求める思いがありました。外側から見るならば学校のクラス委員をやっている「立派な人間」であるが、心の中は乱れに乱れている腐れきった者だと自覚していました。そして恥ずかしくて人前に出ることができませんでした。

 心理学を勉強すれば、この迷いから逃れることができるかもしれないと思って、一生懸命、心理学の本を読んで勉強しました。そして心理学を通して、異性に対する興味というのは誰もが持つことだということ、また、そうした興味というものは正しいルートに乗せなくてはいけない、ということがわかったのでした。

 と同時に、自分の関心がそういう方に向かないようにするには、どうしたら良いのか、スポーツに打ち込むとか勉強に打ち込むとか、人生の目的を持ってそれに打ち込むのだ、ということも、心理学から教えられました。しかし、そういう「学問」というものは決して人間を変える力はなかったのです。(続く)

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ローマ人への手紙(四五)

 「このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」              ローマ五章ニ節

 太平洋戦争が終わるまで、私たちは「教育勅語」や「修身」という勉強をさせられました。日本の教育制度の中で「こうすれば正直者はだいたい生活ができますよ。」という倫理観や道徳観の勉強がありました。

 けれども、敗戦によって、私たちは自分たちがこの生活の中で充分幸せになれるんだ、という土台が足元から崩れてしまったのでした。戦争が起きた時には、日本はいつも「神風によって救われた」という伝説的なことを聞かされてきたのに、日本がなぜ負けたのか、なぜアメリカが勝ったのか、ということをとても知りたかったのに、わかりませんでした。

 アメリカが日本を占領した時に、日本人の婦女子を暴行したり殺したということはあまり聞かず、むしろ、あちらこちらで聖書を配る宣教師の姿が見うけられました。また、「ケア」という物資が配給されたりしました。確かに、日本人が教えたことと本当のアメリカとは違うんだなあ、ということがわかったのです。

 その頃、学校に行くと先生に「何ページから何ページまで筆を取って、全部黒く消しなさい。」と言われ、民主主義に反する教科書の内容は全部黒塗りにさせられました。学校の先生たちは、自分たちが教えてきたことが全く悪かったということで、先生自身が教える力を失ってしまったのです。

 そういう時代にあって、私は聖書を手にしたのでした。人生の依(よ)るべきところは何か。有名な文学小説を読み、また人生の指針を得ようと、いろいろな思想の本を読みあさりました。けれども、そこには何一つ自分の魂を変革する力がなかったのです。

 とうとう、私は英語の勉強をしながら、このローマ書を皮切りに聖書を何度か読み始めました。マタイ伝では名前の羅列から始まって「何だこれは・・・。わからない! こんなおもしろくないもの。」とほうり投げたこともありました。しかし、ある時、ローマ書の記述が私の心をそっくりそのまま表わしていることに気がついたのでした。

 私がローマ書を勉強したのは、法律の勉強をするために通信教育を受けていた時でした。法律の勉強をしている最中に聖書の学びをしながら、私にとって法律よりも聖書の方が大事だということがだんだんと分かってきたのです。(続く)

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