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習志野バプテスト教会の週報

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ローマ人への手紙(二七)

現在、聖書の基本的な教理、中心的な聖書の教えとその骨組みを学ぶために週報で、「ローマ人への手紙」の勉強をしています。最近、よく小泉内閣が「骨太の改革」と言いますが、実は、「ローマ人への手紙」は聖書の中で「骨太のキリスト教」、真理の核心になる部分です。

 「ローマ人への手紙」は、特にローマに住んでいたローマの軍人や市民を念頭に書かれました。彼らは、実利主義者で、今すぐ役にたつ、勉強したらすぐに役に立つという(文化的)な背景をもっていました。言ってみればインスタント食品をレンジで温めればすぐ食べられるというような考え方をしていた民族であったようです。

 使徒パウロは、ローマ人達に本当の聖書の教え、基本的な神様の救いとはどういうものかを手短にその骨格を紹介しようと「ローマ人への手紙」を書いたのです。

 「ローマ人への手紙」の中には三つの大きなテーマがあります。第一は義、正義の義です。羊という字の下に我と書きます。昔、中国で、猟師が山に狩りに行き、獲物を撃って捕らえようとした時、羊が飛び出してきてその動物を助けたということから、羊は(自分が犠牲となって他を救う)ということで義の文字ができたといいます。これは浪花節(なにわぶし)の一節ですが、羊は確かにそのようなもののようです。

 羊の下に大きいと書くとどうでしょうか。やせ細った羊より、太った羊のほうが美味(美しい)という字になります。漢字にはそれなりの意味があるのですね。

 これをクリスチャンの立場から考えてみましょう。バプテスマのヨハネはイエス様を指さして「見よ。これぞ世の罪を除く神の子羊」と言いました。神様がご用意くださった羊、子羊であるイエス・キリストという意味です。

 イエス様は、ご自分の命を十字架において人類救済のために犠牲として死んでくださいました。そういう意味からみるならば、まさに義という文字は、クリスチャンにとってかけがえのない、素晴らしい文字ではないでしょうか。イエス様の救いをこれほど端的に表す文字はありません。羊、すなわち神様がご用意くださった羊はイエス様です。

 旧約聖書のイザヤ書五三章六節に、「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った」とあります。神様はこの迷った羊のためにイエス様がご自分の命を犠牲にして、羊を神のもとに連れ帰るという教えです。二重、三重の意味で、私たちは聖書の教え、イエス・キリストの十字架上の身代わりの死を深く考えなければならないでしょう。(つづく)

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ローマ人への手紙(二六)

 「神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥(なだ)めのささげ物として公(おおやけ)に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。

 すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。それでは、私たちの誇(ほこ)りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。

 いいえ、信仰の律法によってです。人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人(いほうじん)の神でもあるのではないでしょうか。そうです。異邦人の神でもあります。神が唯一なら、そうです。

 神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです。それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。」  ローマ三・二五~三一 

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒一六・三一)とありますので、あなたが神様を信じているなら、周りの人たちに「あかし」を続けましょう。

 人間は一人で生きるものではありません。他の人たちに影響を与え、自分もまた影響されていきます。使徒パウロはそのことをここで教えているのです。何の良い行いも無くして神様の一方的な恵み、哀れみによってイエス・キリストの身代わりの死によって神様に受け入れられるのです。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(伝道の書一二・一)と聖書に書かれています。どうか一人一人、イエス・キリストの所に立ち帰ってください。

 「愚(おろ)か者は心の中で『神はいない』と言う。彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。」詩篇五三・一

 「この世の中に神なんかいない」という人が多くいます。聖書にも「神はいない」と書かれてます。しかし、「愚か者は心の中で」そのように言う、と聖書は教えているのです。イエス・キリストをあなたの心にお迎えしましょう。(続く)

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教会創立五五周年にあたって(三)

ある宣教大会での丸山先生のメッセージから

 最後に信仰約束献金について説明します。私達の教会では毎年一月に無記名で、教会員は海外宣教のために信仰約束献金額を記帳します。会計も役員も、教会員のところに行って、「信仰約束献金で約束した分がまだ捧げられていません。早く捧げて下さい」とは決して催促をしません。信仰約束献金は、クリスチャン個人と神様との信仰に基づく約束だからです。それゆえに、無記名で記帳をして頂きます。神様のお力と、世界宣教に与(あずか)る恵みをそれぞれが経験します。

 パウロは次のように述べています。「このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示
してきたのです」(使徒行伝二〇・三五)。世界宣教のための信仰約束献金は、その一つの実践だと思います。

 「それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝(ひざ)をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」ピリピ二・一〇~一一

 「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は」イザヤ五二・七

 主イエス・キリストのために心が燃やされて、お仕えしていけるように祈りましょう。私たちのヴィジョンが更に大きくされ、失われた状態にある数多くの人々の叫び声をきくことができますように。そしてイエス・キリストの福音を全世界にのべ伝えることが出来るように、主にあってご奉仕を継続していこうではありませんか。

 アジア・インディペンデンツ・バプテスト・バイブル宣教大会の記録。

第一回大会、一九七八年、日本。
②一九七九年、韓国。
③一九八一年、台湾。
④一九八五年、フィリピン。
⑤一九八九年、シンガポール。
⑥一九九一年、日本。
⑦一九九二年、フィリピン。
⑧一九九三年、韓国。
⑨一九九五年、日本。
⑩一九九六年、フィリピン。
⑪一九九八年、韓国。
⑫二〇〇一年、フィリピン。
⑬二〇〇四年(環太平洋根本主義バプテスト大会❶と合同開催)、日本。
⑭❷二〇〇七年、シンガポール。
⑮❸二〇〇九年、セブ。
⑯❹二〇一一年、グアム島。
⑰❺二〇一三年、セブとマニラ。
⑱❻二〇一五年、シンガポール。
⑲❼二〇一七年、セブ

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教会創立五五周年にあたって(二)

ある宣教大会での丸山先生のメッセージから(続き)

 二〇〇五年、ミャンマーのヤンゴンで、カノン神学大学(Canon Theological College)が開校しました(現地責任者はデイヴィッド・スム牧師、名誉校長は丸山牧師。二〇一九年二月に第一一回卒業式を迎えます)。

 主にお仕えする者として、私達は、主のお言葉をよく学ばなければなりません。そして、伝道の心を忘れてはなりません。自制、愛の中の献身も不可欠です。私達は鳥が広く見渡すような目をもって、物事を見ることが必要です。ヴィジョンをしっかりと持ちましょう。私達は御言葉の一部ではなく、重要な教え全てをのべ伝えなければなりません。宣教は私達の言葉を通してなされます。宣教のために、御言葉を正しく学ばなければならないのです。

 「イエスは再び彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣(つか)わされたように、わたしもあなたがたを遣わします』」ヨハネ二〇・二一

 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨(のぞ)むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」          使徒行伝一・八

 主がお遣わしになった弟子達の伝道報告が使徒行伝に記されています。報告①二章四一~四七節、②六章七節、③九章三一節、④一二章二四節、⑤一六章五節、⑥一九章二〇節、⑦二八章三〇~三一節。

 使徒行伝に記されているパウロの三つの説教(ユダヤ人への説教、異邦人への説教、信者への説教)を学ぶならば、多くのことを教えられます。

 私がボブ・ジョウンズ大学の評議員に選ばれた理由をジョウンズ2世博士に伺ったことがあります。「いつも、かわらずに、御言葉にたっているから」と先生はおっしゃいました。ゆるぎない確信(コンヴィクション)を保とうではありませんか。更に、説教者はどんなに忙しくても、自分自身の魂の必要を満たすために、神様の御言葉を学ぶ時間が必要です。

 近年、神様の愛のみを強調し、神様の聖さや罪の悔い改めについてはあまり語らない説教者が増えているようです。パウロは「ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証ししてきたのです」(使徒二〇・二一)と述べています。信仰と悔い改めはコインの表と裏の関係にあり、切り離して考えることは出来ません。私達が主イエスに対する信仰をもち、罪を悔い改める時に、物事の考え方、生き方が変えられていきます。(続く)

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ローマ人への手紙(二五)

 「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」
ロマ書三章二三~二四節

 自分が、よい行いや多額の献金をしたからというのでも、ボランティア活動をしたからでもない。神様の一方的な哀れみの中に、イエス・キリストが私たちの罪、汚れを背負って十字架にかかられ身代わりとして死んで下さったのである。

 私達があるがままで、イエス様にすがり、イエス様を心にお迎えするならば、神様は私達に「新しい良心」、「新しい尺度」を与えて下さる。神様は新しい規律で私たちの心をご支配下さり、神様の喜ばれる人生を歩む事ができる様にして下さるということである。
本来私は十字架につけられて死ななければいけない悪い人間、罪深い人間であるにも関わらず、「かわいそうな人間だ。私は彼を救い上げよう」という、神様の哀れみにより救われ、罪、汚れを洗い清めていただいたのである。神様の愛である。愛とは、何でもかんでも良いですよというのではない。

 自分達が「神様ごめんなさい」とあやまる時、神さまの愛と赦(ゆる)しが与えられるのである。愛するということは、赦しも入るのである。愛は余分なものを排斥する。牧師宅の犬はこのよい例であろう。飼い主とその家族以外には猛烈にほえ、他の人の言うことを聞かない。本来おとなしいはずのシェットランド・シープドックだが牧師夫妻と松山夫妻の四人のいうことしか聞かないのだ。四人には忠実に従うが他人は一切うけつけないのである。

 以前、牧師がタイ国を訪問した時、五分で行ける所にタクシーで一時間もかかった上、大金を支払わされた。タイで伝道している宣教師に話すと、東京でも同じだという答えが返ってきた。東京でも外国人が乗ったら大抵、一方通行だ、なんだかんだといって遠回りをされる、と。宣教師が言うには、当時のタイには字の読めない人たち、自分の名前も書けない人たちが多くいた。しかし、そういう人たちの中に行って「人間は皆、罪人です。神さまから遠く離れている罪人です。」と言うと、「そうです。よくわかります。私たちは罪人です。」と答えたというのだ。一番仏教の強い国、タイの人達でさえ罪とは何かをよくわかっている。この人達に必要なのは、正しい礼拝の対象、創造主なる神様である。(続く)

 ◎ 暗誦聖句 ローマ人への手紙四章二五節B

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