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習志野バプテスト教会の週報

輝かしい未来へ(三)

 使(し)徒(と)パウロは、前のものに向(む)かって前(ぜん)進(しん)しようと言いました。教会が先のものに向かって手を伸(の)ばし、その目的に達しようとするのでなければ、その教会は、それで終わりです。去(きよ)年(ねん)、皆さんが持っていた宣教のヴィジョンは来(らい)年(ねん)には通(つう)用(よう)しないのです。来年は更に大きなヴィジョンになっていなければなりません。去年、最(さい)善(ぜん)だと思っていた救(きゆう)霊(れい)の働(はたら)きも、もっと大きな広い世界で、救霊をしなければならないのです。皆さん、新しい夢(ゆめ)を持(も)たなければなりません。新しい計画を建てなければなりません。しかも、それらは過(か)去(こ)の経(けい)験(けん)よりも大きなものでなければなりません。

ですから、使徒パウロは目(め)当(あ)てに向かって進みなさい、ゴールに向かって、背(せ)を伸(の)ばし、突(つ)っ走(はし)ろうではないか、と言ったのです。なぜなら、常に前(ぜん)進(しん)する信者に豊(ゆた)かな祝福が与えられるからです。

 主イエス様がお迎(むか)えに来(き)てくださるその日を目当てに進もうではありませんか。ただ漫然(まんぜん)と未来に目を注(そそ)ぐのではなく、未来に目を注ぎつつ、なお今、この地上における日々の働きにも励(はげ)もうではありませんか。

 皆さんが、習志野バプテスト教会を通して働いているその影(えい)響(きよう)力(りよく)は、皆さんの想(そう)像(ぞう)をはるかに越(こ)えて、遠(とお)くまで及(およ)んでいるのです。天に携(たずさ)えあげられる時に、私たちがこの地上でなした数(かず)々(かず)の証(あかし)が、どんなに大きな働きとなっていたかを見ることができるはずです。

 どうか、あなたの最(さい)善(ぜん)を神様に献(ささ)げてください。過(か)去(こ)に、神様がどれほど大きな御(み)業(わざ)をなしてくださったかを思い起(お)こしましょう。そして、忠(ちゆう)実(じつ)な僕(しもべ)であり続(つづ)けようではありませんか。ここにいらっしゃるお一(ひと)人(り)お一人が、今(いま)、新(あら)たな決(けつ)意(い)を持(も)つときではないでしょうか。私たちが、神様に新しい献(けん)身(しん)をする時(とき)だと思います。皆さんの家(か)庭(てい)を、皆さんご自(じ)身(しん)を、そして皆さんの教会を、神様に献(ささ)げようではありませんか。 (教会創立二五周年記念集会にてインネス博士を通していただいたメッセージ終わり。)

 私たちが聖(せい)霊(れい)に満(み)たされ、聖霊の導(みちび)きに従(したが)うとき、イエス・キリストの復(ふつ)活(かつ)の証(しよう)人(にん)として用(もち)いられます。「…聖霊があなたがたの上に臨(のぞ)まれるとき、あなたがたは力(ちから)を受(う)けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果(は)てにまで、わたしの証(しよう)人(にん)となります」(使徒一・八)。私たちが聖(せい)霊(れい)に満(み)たされて証(あかし)を続(つづ)けていくならば、教会は必(かなら)ず祝(しゆく)福(ふく)されます。「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全(ぜん)地(ち)にわたり築(きず)き上げられて平(へい)安(あん)を保(たも)ち、主(しゆ)を恐(おそ)れかしこみ、聖霊に励(はげ)まされて前(ぜん)進(しん)し続(つづ)けたので、信者の数(かず)がふえて行った」(使徒九・三一)。

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ローマ人への手紙(二〇)

 「というのは、不義によって真理を阻(はば)んでいる人々のあらゆる不敬虔(ふけいけん)と不義に対して、神の怒りが天から啓示(けいじ)されているからです。」   ローマ一章一八節

 クリスチャンではない日本人は「キリスト教は愛の宗教である」と言い、クリスチャンも愛を強調します。なのにどうして神様の怒りや神の裁きを語るのか、と疑問に感じるのは自然といえるかもしれません。多くの人は、何でも受け入れるのが愛だと考えるようです。

 私たちはもう少し「愛とは何か、神様の怒りとは何か」を聖書を通して考えてみる必要があります。

 日本人に「どういう信仰を選ぶか」と質問すると「もし信じるならばキリスト教が良い。でも厳しいから、なんでもOKという仏教がよい」との答えが本音(ほんね)のようです。日本人は「仏教徒」が多いです。仏教はもともと無神論であり、神はいないと考えます。無神論とあきらめを強調します。仏教は「何でも良いからいらっしゃい」と暖かく包み、観音様は愛の女神と強調する人もいます。

 一方、日本には歴史の中で「キリスト教徒迫害」という事実があります。飛騨(ひだ)高山(たかやま)には隠(かく)れキリシタンの墓があります。隠れキリシタンは日本の幕府がキリストを信じる人々を迫害したため、天井裏に信じる書物を隠したり、墓石の上には観音様を書いて、そのおでこに十字架、地面の下の方にマリア何々と、洗礼名を書いた墓石もあります。実際そこに行ってみて、日本の民族的な歴史、血みどろの戦いがあったことを知り、身の引き締まる思いがしました。

 「愛」はすべて何でもよいというものではありません。仮に母親が自分の赤ちゃんを盗まれた時、むこうで世話をしてくれるからいいわと考えるでしょうか。

 半狂乱になり、子どもを探し、自分が血を流す事があっても、いとわないでしょう。愛は愛する者を失うことをおそれるし、奪い返そうと戦うものです。もし、学校で「親をうやまわなくてもよい。自分の好き勝手なことをして生きてよい」と教えられたら、私たちはその学校から子どもを連れ戻すに違いないです。愛は愛するものを守ろうとし、間違ったものから奪い返そうとします。

 神様は何でもかんでも罰を与え、さばきを与えるお方では決してありません。神様の真理の言葉を曲げ、神様以外の物に自分達の人生をゆだねようとすることに対して、怒りをお持ちになるのです。全て邪(よこしま)な事をしようとするもの、まがった事をやる者達に対して神の怒りがあらわされるのです。(続く)

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ローマ人への手紙(十九)

 「というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。神について知りうることは、彼らの間で明らかです。

 神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。」ローマ一・一八~二三

 皆さんは、東京の象徴である東京タワーに一度は登った事があるでしょう。日本人は、一度は富士山に登るべきだが、二度登るのはバカだと言います。富士山は汚く、ごみだらけで、石ころがゴロゴロしているからです。五合目からは歩きにくく、上の方には木も緑もなく美しくありません。東京タワーと富士山の共通点は天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)を祭(まつ)るということでしょう。人間は高い所に社(やしろ)や、お参(まい)りをする所を造るのが好きです。高いほど天に近いからです。創世記にはバベルの塔を造って神の祭りをしようとしたことが記されています。人間が神の高さにまで到達しようとしたのです。

 世界で最先端をゆく文明国で、建物を建てる技に優れた日本の一番高い所には神々を祭るという信仰が未(いま)だにあるとは、大変不思議なことです。アメリカの調査では「あなたは神を信じますか」との質問にアメリカ人の九〇%の人が「はい」と答え、日本においても六〇%の人が「神を信じる」と答えたとのことです。

 日本人の場合、クリスチャンが信じる神様ではなく、仏様、亡くなった人など、色々な神々を信じています。自分達の知らない霊の世界、また世界の創造主の存在について考える事は重要なことですが、めんどうくさがって、あるいは恐れて、勉強しようとしない人が大変多いです。アメリカの有名な統計会社によれば、科学者の三五%が聖書の創世記の記述を信じると答えています。また、アメリカの科学者達の三分の一以上が創造主である神様を信じていると、『タイム』という雑誌に紹介されました。

 ところで私達は日常生活において本当に神様を信じているでしょうか。あやふやな考えで神様を信じていないでしょうか。日曜日だけ、困ったときだけの「かみさま」に変形していないでしょうか。あなたの信仰生活を観察したら、本当の神様がわかるでしょうか。(続く)

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ローマ人への手紙(十八)

人間の罪は、生命(いのち)の源(みなもと)である真の神様がいらっしゃるのに、そのことを認めないことです。神様は私たちに自然界を通して真の神、創造主がいらっしゃることを教えていらっしゃる。
 「天は神の栄光を語り告げ大空は御手のわざを告げ知らせる。」詩篇一九篇一節

 すべての人は、天の星、太陽を見つめて、創造主がいらっしゃることを知ることができます。色いろな品種のある花を例にとっても、人は繊細(せんさい)なものを作れません。生の花にしか、蜂はこないのです。人間は神が創造なさったものを見て、作っています。神様は自然界を通して、ご自分の存在を表わしておられます。

 「彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心(りようしん)も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。」  ローマ二章一五節

 すべての人間は心のうちに良心が与えられています。
しかし、すべての民族が同じ基準で良心を持っているわけではありません。日本人には日本の社会に、外国人には外国の規律において良心があります。インドネシヤで伝道した宣教師が、「現地の人は、二つ持っている人から一つもらうことは当然と考えるため、お手伝いさんが色々なものをだまって持ち帰ってしまう」と教えてくれました。彼らは良心の痛みを感じないのです。良心は、教えられた社会の基盤にしたがって痛みを覚えるからです。「神様はいないぞ」と育てられていると、神様のことを聞いても無感動であり、無関心です。心の痛みも感じないことでしょう。

 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」  伝道之書一二章一節

 どの社会にいても、悪いことをすれば罰がくることを知っています。私たちは心にある良心のとがめを通しても、神様を知ることができます。神様はさらに第三の光を与えて下さいます。第三の啓示は、書かれた神の御心(みこころ)、聖書です。神様の求めていらっしゃる正義とは何か、そして人間はどういう存在なのかということを知らされます。人間は無関心の罪、偶像崇拝の罪、不道徳の罪を犯します。使徒パウロは、人間はよこしまな邪悪の心のために、神を認めようとしないと言っています。悪いことをする人は、光を好みません。光のもとに来ようとしないし、光に照らされることを喜びません。若ければ若いほど神様を信じやすいですが、年齢を重ねるにつれて、ごまかしたり、痛みを感じにくくなります(イザヤ書一章二~六節)。常に幼児のように神様を信じ、主に従いたいものです。(続く)

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ローマ人への手紙(十七)

「というのは、不義によって真理を阻(はば)んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示(けいじ)されているからです。」   ローマ一章一八節

 一八節以下には、イエス様を信じるきっかけとなった罪の問題が描(えが)かれています。「人はなぜ人を殺してはいけないのか、人はなぜ救われなければならないのか」。イエス様を裁(さば)いたピラトは、「真理とは何か」、「人間の生命とは何か。人間はなぜ裁きを受けなければならないのか」と問いかけています。

 「神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。」ローマ一章一九節

 子どもの頃、私の家には神棚(かみだな)、仏壇(ぶつだん)、荒神(こうじん)さまと、いくつもの偶像(ぐうぞう)が家の中に一緒にまつってありました。考えてみれば、おかしなものです。神道(しんとう)の教えに従って神棚に手を合わせる一方、仏壇に亡くなった人をまつるのです。仏教は神の存在を否定し、神道は神々の存在を肯定(こうてい)しています。一軒(いつけん)の家で生じている矛盾(むじゆん)に気づかないのです。日本の家庭は暗闇(くらやみ)の中にあると言えるでしょう。

 みなさんも、災い、病気などの時、しらずしらずのうちに何かに守られているのだな、何か目的があって、生かされているのだなと感じたことがあるでしょう。「目に見えない力を持つ方がいるに違いない」と。私の場合、そうしたことが、神様を求めるきっかけとなりました。青年時代は色いろと考えるし、誘惑もあります。たえず信仰について考えていたわけではありませんが、「生命とは何だろう。自分はなぜ生かされているのか」と考える時がありました。「もし超自然的な力を持つ神がいるなら、神の力を利用したい。ご利益を求めて神を利用したい」という思いにうなされることもありました。

 テレビである有名な学者が言いました。「世界をお治めになる全能の方を何かの形で認めることが、人間には必要である。認めなければ、世界は戦争の火で焼かれてしまう」と。日本人を含める多くの科学者は、「この世の中を救うためには、何らかの形で神を認めなければならない。人々は、殺りくに殺りくを繰り返す。やがて地球は滅んでしまう」と言っています。

 クリスチャンでない人は次のように言います。「もし神がいなければ、自分たちで神を作らなければならない」と。今から二〇年前の話です。これが科学者の出した答えであり、人々が世界平和を求めて考えた結論でした。しかし、人間が浅はかな知恵で、神々を作る必要はないのです。すでに神様は、一人一人に生命を与えてくださったのです。(続く)

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