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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(七六)

 「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、--それというのも全人類が罪を犯したからです。」ローマ書五章一二節


 ローマ書五章一二節からの箇所は、様々な神学論争があり、多くの教派が生まれてきました。「なぜ人間が罪を犯すのか」「アダムが犯した失敗がなぜ現代の私達に影響をもたらすのか」というテーマについて多くの学者が論争を重ね、いろいろな考えがそこから生まれてきました。そこで、聖書全体の中から、罪の現実、罪のもたらした結果を見ながら、どのようにしてその罪を背負った人間一人一人を神様が救おうとして下さったか、ということにポイントを置いて考えていきましょう。


 このローマ書の解釈において、少なくてもクリスチャンの一つの信仰の捉え方として、大きな流れがあるということを覚えていただきたいです。

 まず、人間の自由意志に関してカルヴィン主義というグループがあります。カルヴィンという聖書学者はたくさんの注解書を書いていますが、日本でもそのカルヴィン主義の神学に帰依する人たちがいます。もう一つは、アルメニヤ神学という神学の旧体系でこの二つがキリスト教会における大変大きな神学の流れになっています。


 カルヴィン主義は特に神様の選びを強調します。そして、穏やかな立場をとる人と極端なハイパー・カルヴィニズムという立場をとる人とがいます。
 だいたい長老派の教会(プレスヴィテリヤン)が、カルヴィン主義の流れを汲む、と言われています。人間の自由意志よりも神様の選びを強調し、たとえ私たちが伝道しなくても選ばれている人は必ず救われると考えます。ですから、カルヴィン主義の教会は、あまり海外宣教や福音宣教に熱を入れないとか。


 カルヴィン自身が「人間が宣教するなど、とんでもない。越権行為である。」と、存命中に書簡の中で述べています。神様がお選びになった者であれば、今は関心がなくても神様に必ず救われる、選ばれているのだからと。また、神様に選ばれていない人は、誰が伝道しても、聖書の勉強を導いても、選ばれていないから救われない、と。これはとても極端な言い方で、私達はそういう立場をとっていません。


 もう一方のアルメニヤ神学は、人間の自由な意志を大変強調します。そして、人間は自分の自由な意志によってキリストを選ぶかどうかを決める、と言います。それらについて、使徒パウロは何と言っているのか見てみましょう。(続く)

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ローマ人への手紙(七五)

 いくらか「まして」の意味がわかったでしょうか。以前、神学校で、学生に将来、教会建設をするだろうからと、教会の設計図を何度か描かせました。

 そうすると、だいたい描き忘れるのがトイレだったのです。不思議でした。献身して神学校に行き、牧師になろうとする人に教会の図面を描かせると、まず立派な礼拝堂を作り、次に牧師の事務室を作るのに、教会にとって大切なトイレと物置を欠いていたのです。


 私たちが神様に日々依り頼んでいく時に、最も大切な命、その命を救ってくださった神様は、毎日必要な食べる物、着る物を添えて与えてくださらないはずがあるでしょうか。神様は私たちを赦し、命を与え、食べる物、着る物を与えてくださいます。


 仮に、人間が太陽の光に対して電気代を払うとしたら、毎月いくらになるでしょうか。

 夏の間、電気代が沢山かかったことでしょう。神様がもし、太陽の光の料金を各家庭に請求なさったら、私たちは生きていけません。空気も同じです。人間が一月生きるために必要な量を一トンまたは一〇トンと配給を受けるなら、どんなに大きな容器があっても足りないでしょう。


 水も同じで、日本人は水のありがたさを知らないと言われています。もし、外国人たちのように水は買う物だとすれば、もっと水のありがたさを知ると思います。

 人間は、神様から人間にとって必要な空気、太陽、水などを、ほとんどただかただに近い金額でいただいているのです。私たち人間にとって神様のすばらしい愛が、私たちの必要を満たさないはずがないのです。


 「私たちは神様によって命を救われ滅びから贖い出された者として、神様にこの命をお捧げします」と使徒パウロは書きました。


 「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ一二章一節)。


 使徒パウロは命令はしませんでしたが、勧(すす)めました。「あなたの体を生きた清い供物として神に捧げなさい」と。皆さんがイエス・キリストを信じて救いを頂いた時に、この体だけではなくして、自分が働いて得たお金も、自分の才能も、また自分の時間もすべて神様にお捧げするというのが当然の感謝の供物でありましょう。


 鳥や花にまさる人間として、神様は私たちを滅びの中から選び出して救って下さったのです。犬でも飼い主のために自分の生命を犠牲にすると言います。"How much more"、「まして」、人間は生涯を神様におささげできないはずがありましょうか。

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ローマ人への手紙(七四)

 「私は罪深い人間です。しかし、イエス様は私を愛して下さり、罪から引き上げて下さった。私は罪の重荷を背負ったどうしようもない、箸にも棒にもかからない人間である。

 しかし、私が十字架を見上げた時に、イエス様は私を救って下さった。私は今、食べ物や着る物が必要だが、お金がない。しかし、神様は空の鳥を養って下さり、野のユリを見よと仰せになった。まして万物の霊長といわれる私を、神様が引き上げて下さらない筈(はず)がない。」これが信仰です。


 信仰というのは、七面倒くさい議論をするものではありません。「偉大な人物は単純な信仰の持ち主だ」とボブ・ジョウンズ大学の初代総長ジョウンズ博士が、よくチャペルで強調なさいました。信仰は本当に単純なものです。

 私の信仰生活は、年を経るにしたがってだんだんシンプルになり、余分な飾りがなくなってきました。本当に神様の一つ一つの御言葉があれば十分という状況になってきました。


 若い頃は悩み、あれやこれや沢山の注解書を読み、学べば学ぶほど混乱するばかりでした。けれども、ローマ書を勉強することにより、本当に濡れ紙をはがすように神様の奥義がどんどんわかってきて、飛び上がらんばかりの喜びに満たされたのです。今でもローマ書を勉強すると心が躍ります。皆様にもその喜びを味わって頂きたいのです。


 ローマ書五章に「まして」という言葉が何回あったでしょうか。若い人は、サッカー・チームやテニス・クラブ、あるいは野球チームに入りたい時、いろいろとおねだりしたことがあったと思います。お父さんが、「野球チームに入ったのか。今度ユニフォームとミットを買ってやろう。」と言ってくれた時、あなたの手元にボールがなかったらどうするでしょうか。

 高いユニフォームと上等なミット、あるいはグローブを買ってくれたのだから、ましてボールを買ってくれないはずがあろうか、と思うでしょう。上等なグローブがあっても野球はできないのだから、ましてボールを買ってくれないはずがあろうか、と考えるのが普通でしょう。

 「神様が私たちの命を救って下さった。まして、毎日必要な健康のこと、食べること、寝る所、あるいは自分の将来のことなどに対して目を留めてくださらないはずがあろうか」です。そして、決してそんなことはありませんね。


 以前、ヨーロッパの貴婦人たちは、宮廷でパーティーやダンス・パーティーがあると、竹で造った輪をスカートの中に入れていました。どうして裾の広がったスカートをはいたのでしょうか。

 本当かどうかはわかりませんが、香水で有名なある国の宮廷は、立派な御殿、宮殿があるのにどこにもトイレがなく、宮廷の前の庭で用をたす時に、あの竹の輪の中でちょっとしゃがんだと何かで読んだ記憶があります。皆さんが家を建てる時に、居間、書斎、台所が必要だといってお金をたくさん使うでしょう。まして、絶対必要なトイレを作らないはずがあるでしょうか。(続)

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ローマ人への手紙(七三)

 洞爺丸が沈没するときに、多くの人たちが我先にボートに逃げようとしましたが、リーパー宣教師はそばにいた人に「私は死んでも行く所があります。

 私の行く所は決まっています。私の代わりにボートに乗ってください。」と言って船と一緒に沈んでいったというのです。後に助かった人がこのことを報告しました。

 一人の宣教師が一人の日本人の命を救ったというのなら、まして、イエス・キリスト、罪汚れのないお方があなたのために死んでくださったという、命の恩人であるイエス様に自分のすべてを捧げる気持ちにならないでしょうか。


 イエス様は、私たちを滅びから救ってくださるだけではありません。船が難破して溺れそうになった人を助け上げた救助船がするように、彼を海から引き上げただけではなく、暖かな衣服と温かな飲み物と寝る場所を与えないはずがあるでしょうか。

 もし皆さんが仕事で挫折する時、あるいは病気で意気消沈する時、心が砕かれた時、心にこの「まして」を思ってほしいのです。


 イエス様は私が永遠の滅びを刈り取ろうとする二千年も前に、命を捨ててくださり、よみがえってくださいました。まして、私が今また奈落の底に落ちようとする時に、神様が救ってくださらないことがあるでしょうか、絶対にありません、ということなのです。


 「まして」ということは、神様が真実な、アーメンな方であるから、ましてその御約束を守らないはずがあろうかと自分自身に問いかける訳です。神様は私を滅びの中から救ってくださいました。そして「私を信じる者は、死んでも生きるのです。」とおっしゃったとするなら、ただ心の悩み、苦しみを聞いてくださるだけでなく、私が食べ物に困っている時に、人間の体を維持するための食べ物を下さらないはずがありましょうか。


 私たちは心の中に迷いが出ると神様から離れてしまいます。その時に思い起こしてほしいのです。「私はイエス様を信じた。そしてこれまで教会生活をしてきた。神様は私に信仰の喜びを与えてくださった。にも関わらず、私は神様から段々心が遠のいてきた。

 けれども一度私を滅びから救い上げてくださったお方は、私が神様のもとに戻ることを喜ばれないはずはない。私が、『神様、助けてください』と叫ぶのに、助けてくださらないはずがあろうか。」と自問自答するのです。その時に大事なことは「まして」ということです。


 聖書の中で使徒パウロが使った大事な言葉が二つあると思います。一つはローマ書三章にある「しかし」。もう一つが今、勉強している「まして」です。(続)

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ローマ人への手紙(七二)

 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」         ローマ人への手紙五章八節


 私たちは、神様が私たちを愛してくださっているという確かな証拠を見ることができます。それは神様が最も大きな犠牲を払い、御子イエスを十字架につけて私たちの罪の身代わりとして下さったということです。

 旧約聖書のイザヤ書五三章六節には「 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」と書かれています。人間は自分勝手な道を歩いているのです。

 にも関わらず、神様は私たちを救うために御子イエスをこの世にお遣わしになり、十字架を背負わせて下さったのです。その結果、私たちは、十字架につけられたイエス様を仰ぎ見る時に、一度も罪を犯したことがないのと同じように扱われるというのです。決して私たちは聖人君子になるわけではありません。

 人生の様々なところで私たちは間違いを犯(おか)します。けれども神様は私たちの罪汚れに対し、「またやった。またやった。」と罪を追いかけ回すお方ではなくして、イエス様の十字架をご覧になって赦してくださるのです。

 イエス様が十字架上で流してくださった血潮によって、私たちが神様の前において正しい者とみなされ、神様の家族の一員として、神様の子供として扱われるのです。まして、イエス・キリストによって神の怒(いか)りから救われないはずがあろうか、ということです。私たちは、イエス・キリストの十字架の死によって神様がどんなに私たちを愛してくださるかを知ることができます。


 私が高校生のとき、NHKのラジオ英会話の勉強をしていました。その時、日本中のあちらこちらでラジオの聴取者の会ができて、一番多い時期は北から南まで一六〇〇ほどの英会話のサークルができました。後に私はそれらのサークルをリードすることになりました。東京の小松川高校で千数百人を集めて私は聴取者の会を開きました。


 当時、宣教師であれば良いクリスチャンであると思っていたので、わからないままGHQのトップに会いに行ったり、宣教師がいる所はYMCAと思い、行ってお願いしました。その時、快く引き受けてくださったGHQの民間情報局長は女性でした。

 YMCAからは宣教師のリーパー夫人が派遣されて来てくださいました。女学校を借りて英語の指導をお願いしました。二、三年たって北海道と青森を結ぶ青函連絡船洞爺丸が沈没しました。新聞に大きく出た記事にリーパーという宣教師が亡くなったということで、私はあのリーパー夫人のご主人だなと思いました。確かにそうでした。(続く)

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