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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(321)

▽ み言葉に生きる


  〝汝等(なんじら)たがいに愛を負(お)うのほか何をも人に負うな。人を愛する者は、律法(おきて)を全(まっと)うするなり。……『おのれの如(ごと)く隣(となり)を愛すべし』という言(ことば)の中(うち)にみな籠(こも)るなり。愛は隣を害(そこな)わず、この故(ゆえ)に愛は律法の完全(まったき)なり。〟
     ロマ書一三章八~一〇節

  使徒パウロがこのロマ書を書いた時は、ローマの皇帝(こうてい)ネロという、たいへん悪名(あくめい)高い王が国を治(おさ)めていた時代である。

  暴虐非道(ぼうぎゃくひどう)で有名なネロも、その初期の段階ではセレカという思想家の存在によって傍若無人(ぼうじゃくぶじん)なことをあまりしなかった。しかし後(のち)にネロは、ローマにおいてたくさんのクリスチャン達を迫害し、大火を起こしてその責任をクリスチャンに負(お)わせ、なすりつけたりした。

  つまり、ロマ書を書く際(さい)のパウロの頭の中(認識(にんしき))では、理想的な国家、政府の権威(けんい)のもとにあって従う、ということではなかった。

  彼は、どのようにさまざまな欠陥がある政府であっても、神様がおたてになった権威に対しては尊重(そんちょう)をする、権威に従うという立場を強調した。

  ロマ書一三章八節には、〝汝等たがいに愛を負うのほか何をも人に負うな。〟と書かれている。愛すること以外には他人に負債を負ってはいけないという意味である。

  当然、現在のクリスチャンから、質問が出てくると思う。高価な何千万円もする家やマンション、何百万円もする車を買うときに、私たちはローンを組んだり、クレジット・カードを使ってはいけないのか、という質問である。

  この聖句は、現在の社会における、信用制度、クレジット、あるいは、割賦というものを禁止している教えではない。まずこれを覚えていただきたい。

  しかし、多くのクリスチャンの経済学者は薦(すす)める。自分が貯金をしてゆき、これから一五年あるいは二〇年先、ということを考えて、家のローンを組むときに、当然の事ながら、万一のことも考えなければならない、と。

  もし、ローンの一、二回目の返済時で突然の不幸がおそい、収入が絶(た)たれたという時にはどうするか。そういったことも含めて、まず神様に祈っていかなければいけない。自分たちの収入に見合った予算を立て、万一の時には自分たちはどうしたらよいか、ということを考えなければならない。

  以前にもご紹介したが、アメリカのクリスチャンの銀行家は「自分たちの収入の金額と合わせてみて、年収や必要度以上に、大きな出費をすることは避けなければいけない。」と書いている。 (続く)

 

 
◎ 暗誦聖句 使徒行伝四章一九節
〝ペテロとヨハネと答えていう『神に聴(き)くよりも汝らに聴くは、神の御前(みまえ)に正しきか、汝ら之(これ)を審(さば)け。』〟

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◆ ロマ書の学び(320)

▽ み言葉に生きる


  〝凡(すべ)ての人、上にある権威(けんい)に従うべし。そは(ワ)神によらぬ権威なく、あらゆる権威は神によりて立てらる。〟
     ロマ書一三章一節

  多くの女性の皆さんが結婚なさってから、家庭生活について疑問に思うことだと思う。しかし、使徒パウロは〝汝の夫を敬(うやま)え。夫に従え。〟(エペソ五章二二節、コロサイ三章一八節)と、繰(く)り返し教えている。また、ペテロも同じように教えている。

  〝妻たる者よ、汝らもその夫に従え。たとい御言(みことば)に 遵(したが)わぬ夫ありとも、汝らの潔(きよ)く、かつ恭敬(うやうや)しき行 状を見て、言(ことば)によらず妻の行状(ぎょうじょう)によりて救いに 入(い)らんためなり。〟
      ペテロ前書三章一節

  しかし、「えっ。うちのだんなみたいに、あんなぐうたらなだんなを敬うんですか。あのどうしようもない、怠(なま)け者の夫に従わなければいけませんか。」と疑問(ぎもん)が出てくる人がいるかもしれない。仮にあなたの夫が、飲んだくれ、ばくちが好き、給料はうちに運んでこない、そんな人だったとする。どうして生活できるだろうか。「こんなだらしのない夫に、それでも私は従わなきゃいけないのでしょうか?」答えは「はい(YES(イェス))。従わなければいけません。」である。どんなにだらしないご主人であっても、神様は夫を一家の家長(かちょう)として、据(す)えていらっしゃる。夫が一家(いっか)の権威である。

  しかし、その権威はそれで終わってはいない。夫は誰に従うべきか。当然、国の方針に従わなければいけない。それ以上に国は、神様の正義に従うという義務と秩序(ちつじょ)がある。この神様がお立てになった秩序、平和を維持(いじ)するための秩序を重(おも)んじなければならない。

  では、盲目的(もうもくてき)に夫の言うことに何でも従うべきだろうか。時(とき)にはクリスチャン、信仰者として、ぶつかることも出てくるだろう。たとえば夫に「馬券(ばけん)を買うから一緒に競馬(けいば)をやれ。」と言われたら「それは神様に逆(さか)らうことになるから、私はクリスチャンとしてそういうことはできません。」と言わざるをえない。

  もしも、信仰の面でどうしても夫に従うことができないときは、神様を第一にしなければいけない。 とは言うものの、私たちが信仰第一にして、ご主人に毎日、朝から晩まで逆らわなければならないほど、ご主人が神様に敵対するかというと、そうとも限らない。

  私たちは何かにつけて未信者の夫がやることはすべて悪いと考えてしまうのであるが、自分の信仰の根本的な問題でない限り、できるだけ夫をたてて夫に従っていく。これが夫を敬(うやま)う態度である。たとえ、不信仰な夫であろうと、妻の敬虔な行状によって、夫が悔(く)い改(あらた)めに導かれることがあるだろう、と使徒パウロはコリント人(びと)への手紙の中で教えている。「うちの主人はうちの主人、私は私。」こんな態度を続けるなら、いつまでたってもご主人をキリストの元(もと)に導くことはできない。(続く)

 
◎ 暗誦聖句 使徒行伝四章一九節
〝ペテロとヨハネと答えていう『神に聴(き)くよりも汝らに聴くは、神の御前(みまえ)に正しきか、汝ら之(これ)を審(さば)け。』〟

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◆ ロマ書の学び(319)

▽ み言葉に生きる


  〝凡(すべ)ての人、上にある権威(けんい)に従うべし。そは神によらぬ権威なく、あらゆる権威は神によりて立てらる。この故(ゆえ)に権威にさからう者は神の定(さだ)めにもとるなり、もとる者は自らその審判(さばき)を招かん。〟(もとる=反する)
        ロマ書一三章一、二節

  使徒パウロは、まずロマ書一三章のはじめの部分で「権威」について書いている。一般社会にある権威というものは、神様がお立てになった秩序である。一つの国を治(おさ)めていくために、政府があり、その国が立ちゆくための方針、大きな方向づけを政治家たちが考える。私たちは国の指導者達のために祈り、正しい方向づけをしなければならない。

  多くの国が、このキリスト教の聖書を基準として、憲法を作っている。日本の憲法(けんぽう)もまた、ご多分にもれずである。意外に思われるかもしれないが、イギリスの憲法は聖書が基準になっており、そのイギリスの憲法をほとんどまねて明治憲法がつくられた、と言われている。日本最初の時代の憲法を見ると、父母を敬う、など、聖書の中で学んだ十戒(じゅっかい)の言葉が出てくる。日本の憲法は、キリスト教の聖書を基準としたものを外国から借りて持ってきたが、残念ながら実はその精神を見失ってしまっている。 だから私たちは、神様がおたてになった秩序を重んじることがとても大事であると思う。

  もちろん、すべての国の政府が、正しく神様を畏(おそ)れ敬(うやま)って、神様を礼拝するかというと、そうではない。

  「キリスト教国」といわれる国であっても、実は偶像(ぐうぞう)崇拝(すうはい)が多く行われていたり、不正、あるいは不道徳なことがおおっぴらに闊歩(かっぽ)する国が多くある。

  近年、アメリカだけでなくフィリピン、日本をはじめさまざまな地域で、政治家の腐敗(ふはい)、堕落(だらく)の姿が取り上げられている。クリスチャンの立場から見ると、こんな堕落した政府に従う必要があるのだろうか、と疑うことが出てくる。私たちは「政府を敬う」というよりも、その国を治(おさ)めるという「権威、秩序(ちつじょ)、その枠組(わくぐみ)」を重んじる。

  堕落した「政府」、堕落した「政治家」を敬えということよりも、その「立場」を敬うのである。

        ( 続 く )

 
◎ 暗誦聖句 使徒行伝三章六節

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◆ ロマ書の学び(318)

▽ み言葉に生きる


  特別な地域、あるいは民族に対する重荷(おもに)があれば、それは、宣教師の召(め)しにつながっていく。

  牧師となる場合には、神様の福音を一人でも多くの人たちに宣(の)べ伝えていきたい、聖書をもっとしっかり勉強して、他の人たちに御言葉(みことば)をのべ伝えることができるようにと、神学校に行く。宣教師志願者も同じである。

 〝されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勧(すす)む、己が身を神の喜(よろこ)びたもう潔(きよ)き活(い)ける供物(そなえもの)として献(ささ)げよ、これ霊の祭なり。又この世にならうな、神の御意(みこころ)の善にして喜ぶべく、かつ全(まった)きことをわきまえ知らんために心を更(か)えて新(あらた)にせよ。〟
        ロマ書一二章一、二節

 「献身(けんしん)」という言葉の中には二種類の使い方がある。「献身」とは、自分自身を神様にささげることである。そして、すべてのクリスチャンは、ロマ書にあるように「献身」を求められている。これが第一の使い方である。

  もう一つの「献身」という言葉の使い方は、その中でも特別に神様のお働きを担(にな)っていく働きをさし、牧師、伝道者あるいは宣教師という形である。

  これは自分が献身するというだけでなく、神様の側(がわ)から「あなたは私の仕事のために、私に仕(つか)えていきなさい。」という召(め)しが与えられる。かつてのレビ部族のように、はっきりと神様に生涯(しょうがい)フル・タイムでお仕えする形で召されることがある。これを「召命(しょうめい)」というが、召命は神様の側から「あなたの人生、才能、凡(すべ)てを私にささげなさい。私はあなたを正しく訓練し、伝道者として遣(つか)わします。」という形で、召しをいただくものである。

  多くの場合、そうした「召命」というものは、皆さんが聖書を読み、祈っていて「神様。私は何もできませんけれども、どうぞ私をお使い下さい。どうしても、他の人々に福音を伝えたいのです。救霊、宣教の働きに、全生涯をおささげします。この世の中の職業ではなく、ただひたすら、神様にお仕(つか)えしたいです。」という思いを持って身をささげる時に、これを「献身」という。これが、伝道者となるための献身である。

  しかし、神様からの召し(=召命)がなく、自分だけの思いで献身したんだと言って始めても、長続きはしない。必ず、挫折(ざせつ)をする。伝道者の生涯というものは、自分の才能にはよらないからである。自我を砕(くだ)かれ、自分の才能のすべてを神様に明け渡す時、自分の力でではなく、神様にお仕えしていく献身の召命といえる。

  くどいようであるが、「献身」というのはイエス様を信じ救われた者すべてが、神様に身をささげることなのである。                 (続く)

 
◎ 暗誦聖句 使徒行伝二章四〇節

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