FC2ブログ

習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(337)

         ▽ み言葉に生きる


  〝されば我ら平和のことと互いに徳を建(た)つることとを 追い求むべし。〟
  ロマ書一四章一九節

  「クリスチャンの信仰の自由」とは何か。

  まず第一に、「私の自由」が他の人の自由や他の人の信仰の妨(さまた)げになってはいけない、つまづきとなってはいけない、ということである。確かに、私たちは神様によって救われた者である。そして、毎日喜びと感謝の日を送ることを許されている。けれども、私は自由だからといって他人のつまづきとなってはいけない、ということである。これは、たいへん難しいことである。

  「私の罪は赦(ゆる)されたのだ。私は何をやっても自由なのだ。」とあまりにも自分のやりたいことばかりをしていたらどうだろう。他の人たちが見て、「何だ。クリスチャンでも、あんなことをしているのか。だったら自分もやっても良いのだな。」となってはいけない、ということである。

  たとえば、牧師がアメリカから帰国後「アメリカでは、大統領はじめ議員が赤いネクタイやスーツを着用するのが流行(はや)っていたから。」と、さっそく赤いネクタイをして真っ赤な洋服を着て、ということを毎週したらどうだろうか。きっと「うちの教会の牧師は、最近ちょっとおかしいんじゃないか。何か急にアメリカかぶれしちゃって。オツム(頭)がおかしくなったのか。」といわれることだろう。

  かえって「やはり日本人なのだから、日本人としてのけじめ、日本人の中で落ち着いた服装、あまりけばけばしない目立たない服装を着用して欲しい。」と牧師に求めることだろう。牧師が毎週ピンクのシャツに赤や黄色のネクタイを着用していたらつまづきになるのだ。

  何を着ても「自由」である。もちろん私も、暑い夏ならば時には家に帰ってから自宅内でTシャツ、あるいは半ズボンでリラックスすることもある。

  こうした服装や食べ物、飲む物が誰かのつまづきになってはならない、ということはクリスチャンに与えられている「自由」の原則である。

  二番目に、私たちの生活を通して、他の人たちにも「私も、ああいうクリスチャンのような生活がしたい。」と思われるような本当の喜び、すばらしい神様の愛を人々に証(あかし)することである。

  一つは消極的、一つは積極的に他の人に益となるように、自分たちが生きることが大切だと思う。
                 ( 続 く )

 

 
◎ 暗誦聖句 ペテロ後書三章二節
〝汝(なんじ)らの使徒(しと)たちの伝えし主なる救い主の誡命(いましめ)を憶(おぼ)えさせんとす〟

PageTop

◆ ロマ書の学び(336)

         ▽ み言葉に生きる


  〝知識は人を誇(ほこ)らしめ、愛は徳を建(た)つ。〟
             コリント前書八章一節後半

   私たちは、神様の御栄(みさか)えを現(あらわ)すような言動や服装、立ち居振(いふ)る舞(ま)いに気を配(くば)ることが大切である。しかし、だからといって、ミニスカートの人や酔(よ)っぱらいは教会の雰囲気にそぐわないからと、いきなり追い出したりしては、いけない。

   教会には、ときどき酔っぱらって集会に来る人もいる。その場合「酔(よ)いがさめるまで外にいなさい。」とは言わず「どうぞお入り下さい。」と歓迎して出口に近い後方に座ってもらう。そして、アッシャーか誰かがそばにつき、途中で大声をあげたり暴力を振るったりしないか様子を見ながら、集会に出席してもらう。そして、まずその人のために祈る。その人が、どういうことで苦しんでいるかを考えながら助けていくのである。

  〝なんじら信仰の弱き者を容(い)れよ。〟ロマ書一四章一節

  ここで言う「信仰の強い人」とは、必ずしも山を動かすような信仰の強さを意味していない。むしろ、ここでは正しい聖書の理解をしている人、すなわち、使徒パウロがコリント前書で書いているように「偶像なるものはこの世に存在しないとする立場の人」をさす。

  〝偶像の供物(そなえもの)を食(くら)うことに就(つ)きては、我ら偶像の世 になき者なるを知り、また唯一の神の外(ほか)には神なき を知る。〟         コリント前書八章四節

  これからまさに野球のシーズンである。解説者は「巨人はついていますね。」とか「阪神はついていますね。」とかいう。あれは狐か動物の霊が、乗り移った選手を動かしていると言っているのである。それほど、日本の生活の中には偶像なるもの、あるいは人間の言い伝えによる恐怖心が作られてしまっているのである。

  しかし、聖書ははっきりと「天地をお創りになった真の神様以外に神々はない、ということを知りなさい。」と書いている。これだけで、ずいぶんホッとして、夜も寝られることだろう。聖書に書いてある通り、幽霊も亡霊もありえないし、化(ば)けて出ることもありえない。だから、夜、小学校のトイレに行っても大丈夫である。私は、この恐怖心から解放されるのに一〇数年かかった。聖書の中でこれを見つけて、ようやく本当に魂の救いだと思った。

  〝されば今より後(のち)、われら互(たがい)に審(さば)くべからず、寧(むし) ろ兄弟のまえに妨碍(さまたげ)または躓物(つまづき)を置かぬように心を決(さだ)めよ。〟
     ロマ書一四章一三節(続)

 
◎ 暗誦聖句 コリント前書八章九節
〝されど心して汝らのもてる此の自由を弱き者の躓物とすな。〟

PageTop

◆ ロマ書の学び(335)

▽ み言葉に生きる


  〝我が愛する者よ、偶像を拝(はい)することを避(さ)けよ。〟
      コリント前書一〇章一四節

   聖書には、この世の中にたたりをくだすような神仏・偶像はあり得(え)ないと書いてある。「うわぁ。これだ!」と思った。実は、私たち日本人は、偶像やたたりなどというものにがんじがらめになっている。 けれども、「真(まこと)の創造主(そうぞうぬし)であられる天地万物(てんちばんぶつ)をお創(つく)りになった神様以外に神はいない。」と聖書は教えている。だから偶像なるものは存在しないし、動物が憑(つ)いたり、祟(たたる)ことなどありえない。

   「いやぁ。毎週のようにテレビの中で『あの人を呪い殺してやる。』と、わら人形を作ってガンガン大きな釘や針をうちつけているじゃないですか。」と言うかもしれない。しかし、それは人間の憎しみや呪(のろ)いであって神の力ではない。だが人は、偶像を人間の力をはるかに超えた存在と考える。

  日本人がよく口にする「今日は、ついている。」と言う言葉は、民(※)俗学的にはタヌキやキツネの霊が乗り移っている、という意味で使われる。だから、この言葉は口にしない方がよい。神様は、人間が神様と交わるために人間だけに霊をお与えになられた。そのため、動物の霊が人間にとりついて何かをすることはない。

  〝なんじら信仰の弱き者を容(い)れよ。〟ロマ書一四章一節

  聖書の知識がたくさんあっても、愛がなければいけない。愛は自分だけでなく他人の徳をも建てるからである。〝知識は人を誇らしめ、愛は徳を建(た)つ。〟
       コリント前書八章一節後半

  たとえば、救われたばかりの若い女性が、あまり服装に注意を払わないで集会に来ていたとする。長年にわたり信仰生活を守ってきた女性がそれを見て「ちょっとこっちに来て!あなたの服装は何ですか。下着がはだけて見えるような短いスカートをはいて!」と怒(おこ)ったとしたらどうだろう。

  確かに救われてクリスチャンとなった時点から、言動や服装、立ち居振(いふ)る舞(ま)いに気を配(くば)ることは大切である。しかし、いきなり叱(しか)るのではなく、まず「クリスチャンは、きちんと神様の御栄(みさか)えを現(あらわ)すような整(ととの)えられた身だしなみをすることが大切ですよ。」と教えることから始めなければいけない。

  「姦淫(かんいん)の罪を犯(おか)させるような服装や立ち居振(いふ)る舞(ま)いをしないように気をつけましょう。下着やおへそや背中、お尻が見えるような服装は、決して徳をたてるものではありません。」と優しく教えていくことが大切である。
       ※「民俗学事典」(柳田國男監修)   ( 続 く )

 

 
◎ 暗誦聖句 エペソ書六章一一節

PageTop

◆ ロマ書の学び(334)

▽ み言葉に生きる


  〝さらば食(くら)うにも飲むにも何事(なにごと)をなすにも、凡(すべ)て神 の栄光を顕(あらわ)すようにせよ。〟
     コリント前書(ぜんしょ)一〇章三一節 

  使徒(しと)パウロはコリント前書の中で「神様を信じる者にとって、食べるのも飲むのも、また毎日生きるのも神様の御栄えのためである。私たちは神様によって生かされ、神様をほめたたえつつ歩むのだ。だから、生きることも死ぬことも神様の導きのもとにあるのだ。」と書いた。

  〝なんじ何(なん)ぞその兄弟を審(さば)くか、汝なんぞその兄弟を蔑(なみ)するか。我等(われら)はみな神の審判(さばき)の座の前に立つべし〟
      ロマ書一四章一〇節

   彼は、ロマ書においてもキリストにある兄弟姉妹が争(あらそ)い合い、裁(さば)きあってはいけないと強調した。そして「信仰の強い人は、信仰の弱い人を受け入れなさい。」と書いたのである。

  〝我が愛する者よ、偶像を拝(はい)することを避(さ)けよ。〟
    コリント前書一〇章一四節

   「偶像(ぐうぞう)崇拝は罪ですよ。」とよく言うが、はたして「偶像なる神」は本当に存在するのだろうか。「八百万(やおよろず)の神」と日本人は言い、東京タワーのてっぺんにも偶像をまつっている。また多くの店舗やデパート、会社などでも偶像がまつられている。近所にあった日立精機などでも鳥居(とりい)があったり偶像がまつられていた。人間は、偶像のことだけを考える。台湾に行くと大きな神社がある。馬の形をした神々の形が飾ってあったり、それこそ中国にもたくさんのこうした偶像がある。

  しかし、神様がご覧になる時には、この世界には「偶像なる神は無(な)い」ということが大前提にある。使徒パウロはコリント前書一〇章の中で「偶像は存在しない。真(まこと)の神様以外に神々は存在しない。」と、はっきりと断言している。これをまず覚えていただきたい。

  小さい頃、私はたいへん臆病だった。東京の荒川沿いに住んでいたので、八月の夕方になると「みんな行ってみよう。」と子供達が大騒ぎをした。荒川放水所であがった土左衛門(どざえもん)のことである。水でおぼれた、もしくは自殺した人の遺体は、おなかがとてもふくらんでいた。皆が行くからと、一緒に遺体を見て帰ってきてからが大変であった。その晩、夜中にトイレに行きたくてもこわくて行けないのである。植木の影なのだが、人影が映っているように見えて、もう怖(こわ)くてしょうがない。怪談の話や夕方見た遺体がちらちらして眠れなかった。(続)

 

PageTop