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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(340)

         ▽ み言葉に生きる


  〝われら強き者はおのれを喜ばせずして、力なき者の 弱(よわき)を負(お)うべし。おのおの隣人(となりびと)の徳(とく)を建(た)てん為(ため)に、 その益(えき)を図(はか)りて、これを喜ばすべし。〟
     ロマ書一五章一~二節

   これまでロマ書一四章の中から、特に「食べ物」あるいは「日にち」ということを考えてきた。 クリスチャンの「自由の原理」とはどういうものか。

  第一は、私達は何を食べてもその食べ物によって自分達が汚れるということはない、ということである。なぜなら、神様が創造されたもので人間が食べるために備えて下さった物は、何一つとしてそれ自体で悪いということはないからである。

  出エジプト記を読むと、イスラエルの人々は神様の言葉に従わなかったために罰として四〇年の間、砂漠の中をさまよった。神様は、そういう状況の中にあっても、イスラエルの人々の中に悪い病気や伝染病が増(ふ)え広がらないように、レビ記を通して汚れた動物を食べてはならないと仰(おお)せになった。現在でも、豚肉が様々な病原菌を運ぶものだと教えられているから豚肉は生では食べない。けれども、羊の肉は雑菌が少ない肉といわれている。だから、北海道ではジンギスカンをする際、生焼けであっても「これは大丈夫、安全だから食べなさい。」と言う人が多い。

  飲み物の中には、人を酔(よ)わせるようなアルコールの強いものがある。これは、口にするのを避(さ)けなければならない。

  〝酒は人をして嘲(あざけ)らせ、濃酒(こきさけ)は人をして騒(さわ)がしむ。 これに迷(まよ)わさるる者は無智(むち)なり。〟箴言二〇章一節

  〝濃(こ)き酒は人を酔わせる〟と聖書に書いてある。だから、クリスチャンの立場からすると、特にアルコールを加えたり発酵させたもので、人を酔わせる目的で作られたものは避けたほうが良い。それによって、他の人々につまずきを与えないですむと思う。

  〝寧(むし)ろ兄弟のまえに妨碍(さまたげ)または躓物(つまづき)をおかぬように 心を決(さだ)めよ。〟
     ロマ書一四章一三節

   〝誰かのつまずきを置かないように〟ということは自分の自由を行使する際に大切な心構(がま)えである。「クリスチャンなのにあんなことをやっている。あんなものを見ている。」ということになると、信仰のまだ出発点にある人や、全然信仰のない人から見るなら、私達のとった行動で他の人々をつまずかせることになるのだ。
         ( 続 く )

 

◎ 暗誦聖句 マタイ伝一三章三一節前半
〝 天国は一粒(ひとつぶ)の芥種(からしだね)のごとし… 〟

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◆ ロマ書の学び(339)

         ▽ み言葉に生きる


  〝寧(むし)ろ兄弟のまえに妨碍(さまたげ)または躓物(つまづき)を置かぬよう に心を決(さだ)めよ。〟
   ロマ書一四章一三節

   「クリスチャンの信仰の自由」とは何かを考えてきた。第一に、自分の自由が他の人の自由や信仰の妨(さまた)げ、つまづきとなってはいけない。第二に、他の人の徳をたてるようにすること。一、二とも、他人に益となるように自分たちが生きることが大切だ、という教えである。

  第三に、何を食べるにしても何をするにしても信仰によらなければそれは罪だ、ということである。疑いながら口にする食べ物や行いは罪である。

  ある伝道者がよく「疑わしいときには、安全で行きなさい。」と語っていた。良いかどうか疑わしい時には、安全な方をとりなさい、という意味である。

  やくざや闇(やみ)の世界でないかぎり、あなたの職場や仕事自体は悪くはないはずだから自分がやっていることに自信を持とう。もし自信がなければ、神様に祈ってその仕事や働きに喜びと感謝ができるようになって欲(ほ)しい。どんなことであっても、疑いながら、「ああ。誰かが見ていないかな。」という生活は良くない。

  夕方薄暗くなった時、道を歩いているとひらひらっと紙が飛んできた。よく見てみると一万円札だった。あなたならとっさにどうするだろうか。交番に行くべきか行かざるべきか。日本人は「魔がさす」という表現をして悪いことをやってしまうが、クリスチャンは、たとえ、僅かな金額であっても交番に届ける。それは良心の為であり、クリスチャンとして証のためでもある。

   アメリカでインネス博士が「ステーキを焼くから肉を買いに行こう。」と誘ってくれた時のことである。フィレ・ステーキの固まり四八〇〇円のものになんと八〇〇円という値段がついていた。他の物はみんな四八〇〇円。インネス先生は「もうかった。これを買っていこう。」と言ってその肉を持って担当者の所に行き「すごいバーゲン品を見つけたよ。」と言って「正しい値札(ねふだ)を打ち直して下さい。」と渡した。

  私たちも時々、買い物でおつりが余分(よぶん)に入っていたり、値札のつけ方が間違っているのを見ることがある。法律的には、値札が貼(は)ってあれば、たとえ間違いであっても安価で買える。店側の負けである。けれども、それを平然とすることをクリスチャンの良心が許さないわけである。誰が見ていようと見ていなかろうと、神様の前に正しい行為(こうい)をしようとする。これがクリスチャンの自由の権利であり、証なのである。
      (続く)

◎ 暗誦聖句 マタイ伝一三章四五節
〝また天國(てんごく)は良(よ)き真珠(しんじゅ)を求(もと)むる商人(あきうど)のごとし 〟

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◆ ロマ書の学び(338)

         ▽ み言葉に生きる


  〝されば今より後(のち)、われら互(たがい)に審(さば)くべからず、寧(むし) ろ兄弟のまえに妨碍(さまたげ)または躓物(つまづき)を置かぬように心を決(さだ)めよ。〟   
     ロマ書一四章一三節

  「クリスチャンの信仰の自由」とは何か。あなたは自宅において、食べる物、飲む物そして着る物に気を使っているだろうか。たとえば、私の家庭で食卓に自分のあまり好きでない物が出され「こんな物、食べられるか。」と家内とけんかをしていたとする。そこへ、たまたま「すみません。先生、ちょっと教えてください。」と信者さんがやってきて私が家内(かない)とけんかをしているのに遭遇(そうぐう)したとする。「ああ。牧師も食べ物のことで、こんなけんかをしているのか。」と、その信者は驚き、あちこちで話すことだろう。人は、そういう影響を受けやすいのである。だから、私たちの行動が誰かのつまづきにならないように注意することが大切である。

  たとえ質素で粗末(そまつ)な食物であったとしても、私たちが祈って感謝しつつ喜んで分け合いながら食べているならば、それを見た人は「ああ。あの人たちは本当にいつも神様に感謝し、神様に支えられているな。」と考え、証(あかし)となることだろう。

  私たちは、誰かに見せるために人前で何かをするのではない。けれども、私たちの信仰というものは内面から、心の内側から出てくるものである。誰でも、その人の持っている雰囲気というものがあるという。人間の体からは、その人特有の体臭が出てくる。犬はその匂いをかぎ、自分の主人の匂いを覚えていく。

  〝神は何時(いつ)にてもキリストにより、・・・キリストを知 る知識の香(かお)りをあらわし給(たも)う。救わるる者にも亡(ほろ)ぶる 者にも、我らは神に対してキリストの香(こう)ばしき香りなり。〟      コリント後書二章一四~一五節
  クリスチャンも毎日の生活の中で、クリスチャンの体臭(?)というか、キリストの香ばしい香りを放(はな)っていると思う。聖書には、キリストの香りを放ちなさい、と書かれてある。イエス・キリストを信じ永遠の生命を与えられた者は、イエス・キリストの香りを放ちなさい、と教えているのだ。

  もし皆さんの前に牧師が立った時、酒やアルコールの臭いが強くしたらどうだろうか。やはり、つまづきになる。「牧師、せめて日曜日くらい素面(しらふ)でいて下さいよ。」となるはずである。(そんなことは、ありえないが)食べ物は、決して人間の信仰生活に無関係なものではないことを自覚して生活しよう。 
    (続く)

 
◎ 暗誦聖句 ロマ書八章二節
〝キリスト・イエスに在(あ)る生命(いのち)の御霊(みたま)の法(のり)は、なんじ を罪と死との法(のり)より、解放(ときはな)したればなり。 〟

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