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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(344)

         ▽ み言葉に生きる


  み言葉に沿(そ)って行動をしたことにより、その当座は恥ずかしい思いをすることがあるかもしれない。時には酒をかけられたり、お膳(ぜん)をひっくり返されたりという暴挙があるかもしれない。けれども、それを耐(た)えることによって、皆さんは他の人々の前に大きな証をすることができるのである。

  以前、私の英会話の恩師の出版記念パーティを開くことがあった。あるホールを借り、二百名ほどの有名な人達が集まるパーティの司会を私が仰(おお)せつかった。来客の中から祝辞(しゅくじ)を述べてもらう段になり、一人の学者が自分の学問的な成果を披露(ひろう)しようと思ったのか二、三分ほどに予定されていた持ち時間をはるかにオーバーし、一五分もスピーチを続けた。

  そのパーティは二時間という限られた時間であったから、司会者としてその学者に一、二回注意を促した。するとその学者は、大勢の前でいきなり私の頭をなぐりつけた。なぐられた私はニコニコしていたか、顔が引きつっていたかわからないが引き下がった。

  その後、有名な歌手やNHKのアナウンサーが私の所に来て「あなたはあの時、よくがまんしましたね。」と言ってくれた。司会者という権限をもって私が学者を止めることはできた。しかし、そのような公の席で私が自分の立場を守ろうとするなら、その場に集まって来たお客様全体に嫌な思いをさせることになる。自分一人が恥ずかしい思いをしたとしても自分が我慢すればいいと思って、私は引き下がった。

  私たちはとっさの時に、どこまで自分が身を引き、他の人々の徳を建てるように考えることができるか、これは日々の生活の中で考えていかなければならない。

  パウロはロマ書一五章において、さらにそのことについて書いている。

  〝われら強き者はおのれを喜ばせずして、力なき者の弱きを負うべし。おのおの隣人(となりびと)の徳(とく)を建(た)てん為(ため)に、その益(えき)をはかりて、之(これ)を喜ばすべし。キリストだに己(おのれ)を喜ばせ給(たま)わざりき。

  録(しる)して「なんじを謗(そし)る者の謗(そし)りは我に及(およ)べり」とあるが如(ごと)し。はやくより録(しる)されたる所(ところ)は、みな我らの教訓(おしえ)のために録(しる)ししものにして、聖書の忍耐と慰安(なぐさめ)とによりて希望(のぞみ)を保たせんとてなり。

  願わくは忍耐と慰安(なぐさめ)との神、なんじらをしてキリスト・イエスにならい、互に思(おもい)を同じうせしめ給(たま)わん事を。これ汝(なんじ)らが心を一つにし口を一つにし我らの主イエス・キリストの父なる神を崇(あが)めん為なり。〟
    ロマ書一五章一節~六節

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◆ ロマ書の学び(343)

         ▽ み言葉に生きる


  〝寧(むし)ろ兄弟のまえに妨碍(さまたげ)または躓物(つまづき)をおかぬように 心を決(さだ)めよ。〟
    ロマ書一四章一三節

  ギリシャ神話の世界に生きるコリントでは、神殿にささげられた肉はお下(さ)がりとして市場で売られていた。それは大変な特価であった。通常よりはるかに安い値段で売られていたから、コリントの教会の人たち、貧しいクリスチャンはそれを買っていた。パウロは、それについてコリント前書八章とロマ書一四章でとりあげ、大切なことを記している。この世の中に偶像なるものは存在しない。要(よう)するに、人間が心の中で「神様。仏様。」と拝んでいるのにすぎないのであって、世界をお治(おさ)めになるのは創造主(そうぞうぬし)である神様、真(まこと)の神様しかいらっしゃらない、ということを強調した。

   日本は「義理(ぎり)・人情(にんじょう)の国」と言われている。義理を欠(か)いてはいけない、人情が薄いようではいけない、ということを皆さんは子供の頃から教えられてきたと思う。それだけに、このロマ書一四章と一五章の学びは大切な部分であろうかと思う。

  世界各地を巡(めぐ)っていくと、どの国にも数多くの宗教があり、偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)がさかんである。皆さんの実家(じっか)でも、地方では春秋の彼岸(ひがん)、あるいは収穫感謝(しゅうかくかんしゃ)ということで、さまざまな祭礼行事(さいれいぎょうじ)があると思う。その時には、普段なかなか食べられないようなごちそうが用意される。子供にとって、年に一回食べられるかどうかのごちそうは喉(のど)から手が出るほど欲(ほ)しいものである。そうした戦いは、いつもおそってくる。

  会社で働いている方は、一年か二年に一回、社員の慰安(いあん)として国内外(こくないがい)の旅行に行き、そこでたくさんのごちそうを目にすることだろう。あるいはパーティということでお酒も出る。いろいろな形で誘惑(ゆうわく)との戦いが出てくる。皆が乾杯(かんぱい)をする際に{①自分は飲まないけれども、形だけ、口をコップにつけるか。②ビールやウィスキーには手をつけず、ウーロン茶などでその場をしのぐか。③全くそういう場には出ないというのがいいことなのか。}

  どこで線を引くかは、皆さんにとっても難しい問題であると思う。ぜひ、よく考えて行動していただきたい。

  〝疑いつつ食(くら)う者は罪(つみ)せらる。〟 ロマ書一四章二三節

  どんなことであっても自分の言動に対して信仰の土台、神様のお言葉に書かれた明確な基準があるならば、それに従うことが第一である。そうするなら、目に見える人たちの反対やあざけりの言葉、いやしむ心などが見えても皆さんは毅然(きぜん)とした態度をとることができる。(続)

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◆ ロマ書の学び(342)

         ▽ み言葉に生きる


  〝寧(むし)ろ兄弟のまえに妨碍(さまたげ)または躓物(つまづき)をおかぬように 心を決(さだ)めよ。〟
   ロマ書一四章一三節

  クリスチャンの「自由の原理」の第三番目として使徒パウロが書いたことは、食べ物や何かの行動において、「疑いながらやることは、あなたにとってわざわい、罪になる」ということである。

  たとえば、日本人の身近な問題としてぶつかる「葬儀への出席」がある。ある人たちは「私は心の中で神様を信じているから、亡(な)くなった方に手を合わせても、それは亡くなった人に対しておじぎをして(拝んで)いることにはならない。」と言う。しかし、それは原則と照らし合わせるなら間違いであると言えよう。

  信仰の弱いクリスチャンに「熱心なクリスチャンであるはずの人が、 お寺での葬儀に出席し焼香して、亡くなった人に手を合わせていた。だから、私達が手を合わせて拝(おが)むことは決して悪いことではない。」ということになり、つまづきとなる。また、未信者に「他のクリスチャンは拝んでいるのに、拝まない人は愛がない。」と非難されるきっかけとなる場合もあるが、私たちは、まことの神様(創造主)以外に拝礼をすべきではない(出エジプト二〇章三節)。

  私は子供の頃、おはぎが大好きであった。あずきのつぶつぶの甘味が口の中に広がるのが、たまらない。我が家は父が熱心な仏教徒であったから、新しく作った料理は、まず仏壇に供えるのが常であった。このことが、私がクリスチャンになった時には大変な抵抗となった。

  「はたして、仏壇や神棚に供えた食べ物を食べていいのだろうか。」と思ったからである。家内の実家も仏教徒の家庭であるから、京都の実家には大きな仏壇があり、他人から頂いたものはまず仏壇に供えてしまう。もてなす側が「ご先祖様、頂きますよ。今日はお客様ですからね。」と言って仏壇からお下(さ)がりとして持って来て、あなたの目の前で袋を開け「さあ、どうぞ。」と出された時にどうするか。

  賢いやり方かどうかわからないが、実家に帰省した際にそういう場面に遭遇したら、はじめから「私の分は仏壇に供えないでちょうだい。」と言って、横に取り除けておいてもらったらいいのではないだろうか。そうはいかないという場合はどうするか。「つまずきとなるようならば、私はそれを食べない。」とパウロは言っている。おはぎは何もその場所にしかないわけではなく店に行けばいくらでも買うことができる。特別な物であってもお金を出せば買うことができるからである。 (続く)

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◆ ロマ書の学び(341)

         ▽ み言葉に生きる


  〝寧(むし)ろ兄弟のまえに妨碍(さまたげ)または躓物(つまづき)をおかぬように 心を決(さだ)めよ。〟 
    ロマ書一四章一三節

  私たちは、この社会の中で決して自分一人の存在ではない、ということを忘れてはならない。人間は誰もが誰かに助けられ、誰かを助ける。誰かに見られ、自分も誰かを見ているのである。

  小学生の頃、字の上手な子供の隣に座る子供は、上手な字を書くようになってくると言われた。算数の嫌いな子供の隣に座ると、算数が嫌いになる。つまり、できる子供の側(そば)にいると自分も影響を受ける。逆に、いつもいたずらばかりする子供の側にいると、自分もその悪さを楽しむようになってしまう。

  家庭においても、娘が大きくなると、知らず知らずのうちに母親と同じような味つけをし、母親のように考え、振る舞うようになっていく。息子は、父親の姿を見つめて育つ。結婚を考えている人は、その相手に自分の父親や母親に似たタイプの人を選ぶ傾向があるという。これは、日本だけでなく世界中で言われていることである。つまり、私たちは周囲の人々、特に母親や父親から多くの影響を受けるということである。

  クリスチャンは、家庭においてまだ信仰を持っていないご主人や子供たちの前で、それなりのきちんとした対応をし、つまずきを置かないようにしなければならない。「うちのお母さんは、教会ではきちんとしてるけど、家の中ではひどいよ。」などと言われるようではおしまいだ。〝つまずきを置いてはいけない。〟が、クリスチャンの「自由の原理」に含まれる要諦(ようてい)である。

   二番目は、積極的な意味で〝他の人の徳をたてるようにしなければいけない〟である。

  「トクをたてる」というのは、損(そん)、得(とく)の得という意味ではない。相手の人格に良い影響をもたらす、愛の行為(こうい)を示すということである。傷ついた人、災害に遭(あ)った人たち、病(やまい)の床にある人たちに対して、心からの愛情を示すということを、父親や母親、あるいは周囲のクリスチャンが身をもって行(おこな)っていく。その愛の行為(こうい)は、目に見えない神様におささげするご奉仕と同じであり、神様が喜んで下さることである。

  また、隠れた愛の行ないは、いろいろな形で多くの人達に影響を与えていく。自分中心の生活をしている人たちが、皆さんの愛の行ないや自分を無にした無私(むし)の奉仕を見ることよって、「私も、ああいう風な心豊かな人間になりたいなあ。」と思うなら、それが他人の「徳をたてること」になる。(続く)

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