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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(348)

         ▽ み言葉に生きる


  かつてカトリックの信者が、九州のほうで処刑された。逆さに十字架につけられ、火であぶられて、死んでいったケースもある。内閣の秘密の情報として残されていたものが、戦後出版された。それを読んで、私は寒気がするほど日本のやったことに驚きを感じた。若い娘さんたちも、肌着一枚で十字架につけられ火で焼かれた。ある者は鼻や耳をそぎ取られた。またある者は「イエス様を信じないと言え。」と脅(おどか)され、「嫌です。私はイエス様を否定できません。」と言ったがために舌を切られた。そういった記録が残されている。この国は同じような道をまた突っ走ろうとしているのである。

  私たちはのんびりしていたのでは信仰生活は送れない。毎日毎日が悪の勢力との戦いである。けれども、聖書に書かれた神様は忍耐となぐさめに満ちた神様でいらっしゃる。私たちが神様から離れて堕落(だらく)した生活をしていても、あの放蕩息子の帰りを待っていたお父さんのように「まだ息子は帰ってこないか?」と、遠くからいつも手をかざして待ち受けていて下さる。

  皆さんが球根を育てる時はどうだろう。球根を植えたら、その球根はすぐ芽を出すだろうか?寒い季節を通り、雨をかぶり、暖かな日差しを受けてだんだんと球根は地面の中で根を生やし、やがて成長して青い芽を出すための準備をしていく。花を咲かせるためには時間がかかる。

  「神様、どうか私の祈りを聞いてください。」と祈る時、あわれみに満ちた神様はすぐにその祈りを聞いて下さる場合もあるが、多くの祈りは長い忍耐の時が必要だ。

  今日は疲れたから外食しようかとレストランに行き、入り口に一〇人、一五人と待っていると、お腹の空いた私は忍耐がないから「やめよう、別のところへ行こう。」と言い、他の店に行く。しかし、そこはあまりおいしくない。混んでいる店はおいしいから、みんなが集まってくる。忍耐がないと損をすることになる。この世の中も、スピードが上がるにしたがって、私たちは自分たちの食べる物、飲む物も手早く手に入れようとする。

  そして、祈りもまた「神様、今日祈りを聞いて下さらなければ私は信仰を捨てます。」などと忍耐がない。 〝寧(むし)ろ兄弟のまえに妨碍(さまたげ)または躓物(つまづき)をおかぬように 心を決(さだ)めよ。〟 
      ロマ書一四章一三節

  立場を変えて考えて欲しい。私たちが神様から遠く離れ堕落している時に、「あなたは私から離れたから、あなたを切る。」と神様がおっしゃるとしたら、誰一人ここには残っていないであろう。 (続く)

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◆ ロマ書の学び(347)

         ▽ み言葉に生きる


  〝寧(むし)ろ兄弟のまえに妨碍(さまたげ)または躓物(つまづき)をおかぬように 心を決(さだ)めよ。〟 
      ロマ書一四章一三節

  この世の中には、判断をくだすものがいくつかある。皆さんが所属する社会のとりきめ、規則、社会のしきたりや社会の目、国の法律や裁判(さいばん)などは、ひとつの判断基準であろう。しかし、忘れてならないのは、私たちをおつくり下さった神様の最高の裁(さば)きがあるということである。

  私たちは皆、善につけ悪につけ、まことの神様によって最終的な裁きを受ける存在である、と使徒パウロは書いている。神様によって私たちは裁かれる。パウロは多くのユダヤ人、同胞(どうほう)によって批難(ひなん)され、命をうばわれそうになった。異邦人(いほうじん)からも命をねらわれた。

  私たちをお裁(さば)きになるのは真の神様ただお一人しかいらっしゃらない。その神様の裁きこそ最高であり、最も公平であるということを今、心にとめていただきたい。

  たとえ私がいなくても、教会は続く。教会が存続理由を失う時が来るとするならば、この教会の伝道者や牧師が、聖書を信じなくなった時、妥協を持ち込む時、神様以外の人間を恐れる時である。私もいずれは神様のみもとへ、皆さんと別れなければならない時が来る。そういう時でも、この習志野バプテスト教会の基準は、いつも神様のお言葉である。畏るべきお方は神様以外にはない、ということを覚えて頂きたい。

  「じゃあ牧師。そんなに大きなことをおっしゃるけれども、日本の法律は守らなくていいのですか?」

   ロマ書一三章にあるように、法律は当然守る。この国の法律は守るけれども、法律を恐れてはいけない。この世の法律が神様の法律、律法(おきて)と相反(あいはん)することがあるならば、皆さんはどちらを選ぶだろうか。当然、神様の規範を選ばなければならない。

  そんな相反することはありえないとおっしゃるかもしれない。しかし、ほんの六二~七〇年前、この国は軍部(ぐんぶ)によってすべてを支配された。多くのクリスチャンは、天皇を拝まないという理由(=不敬罪(ふけいざい))で牢(ろう)に入れられ、獄死したりした。何も牢に入れられたのは共産党員だけではなかった。キリスト教の牧師も投獄された時代があったのだ。

  日本は今、大変危険な方向にすすんでいる。私たちが思う以上に、この国の政治家がどんどんナショナリズムや、憲法改悪への道に進みつつあり、危険な状態になっているのだ。
     ( 続 く )

 

 
◎ 暗誦聖句 ピレモン書 一八節
〝彼もし汝(なんじ)に不義(ふぎ)をなし、または汝(なんじ)に負債(おいめ)あらば、之(これ)を我(われ)に負(お)わせよ 〟

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◆ ロマ書の学び(346)

         ▽ み言葉に生きる


  〝人、よろしく我(われ)らをキリストの役者(えきしゃ)また神の奥義(おくぎ)を 掌(つかさ)どる家司(いえつかさ)のごとく思うべし。さて家司に求むべき は忠実ならん事(こと)なり。我(われ)は汝らに審(さば)かれ、或(あるい)は人の 審判(さばき)によりて審かるることを最小(いとちいさ)き事(こと)とし、自(みずか)らも 己(おのれ)を審かず。…我をさばき給う者は主(しゅ)なり。〟
        コリント前書(ぜんしょ)四章一~三節、四節

  按手礼式(あんしゅれいしき)の時に、何か色紙(しきし)に書いて欲しいと頼(たの)まれると、私はたいていこのコリント前書の聖句(せいく)を書く。これから伝道者として出て行こうとする兄弟たちに贈(おく)る聖句として選んでいる。

  私たちは、右や左を見て「皆がやるから」「多くの教会がやるから」ということで物事を決(き)めてはいけない。神様にお仕(つか)えする伝道者にとって大事なことは〝人を喜ばせることではなく、まことの神様に喜ばれること〟である。まことの神様こそ最終審判者(ジャッジ)でいらっしゃる、ということを毎日確認していくことだ。

  私たちが他の教会と交(まじ)わったり妥協(だきょう)しないと「習志野バプテスト教会は独善的だ。」とか「自分たちだけ偉そうに振舞(ふるま)っている。」などと言われる。けれども、私たちはこの世の人々によって救われたのではない。また、神学校や牧師、宣教師によって救われたのでもない。 〝寧(むし)ろ兄弟のまえに妨碍(さまたげ)または躓物(つまづき)をおかぬように 心を決(さだ)めよ。〟 
      ロマ書一四章一三節

  私を救って下さったのは、この聖書をお与え下さった創造主(そうぞうぬし)でいらっしゃる真(まこと)の神様である。だから、私たちは神様にだけ忠実(ちゅうじつ)であるように、ということをおぼえなければならない。神様に忠実でなければ、どんなに人間社会で善(ぜん)を施(ほどこ)そうと、すばらしい社会福祉をやってほめられようと、何の価値もない。

   子供の兄弟げんかを見ていると、はじめは口げんかで、やがておもちゃを投げたり暴力(ぼうりょく)をふるうようになってくる。それを見ていたお母さんは、たいていの場合「あなたはお兄ちゃんでしょ。この子はまだ小さいんだから…。」といって兄の方をしかる。すると、子供は子供ながらに抵抗(ていこう)する。母親に自分の正当性(せいとうせい)をうったえ、それでも認められないと、ふくれっ面(つら)をしてバタンとドアをしめ、自分の部屋にとじこもる。

  私たちは、小さいときから「正義」とか「正しい判断」を求める。大人の皆さんが、職場や家庭において誰かが正しい判断を下(くだ)してくれるようにと願うのは当然なことであろう。
        (続く)

 

 
◎ 暗誦聖句 エペソ書四章二六節前半
〝汝ら怒(いか)るとも罪を犯(おか)すな。 〟

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◆ ロマ書の学び(345)

         ▽ み言葉に生きる


  〝寧(むし)ろ兄弟のまえに妨碍(さまたげ)または躓物(つまづき)をおかぬように 心を決(さだ)めよ。〟 
      ロマ書一四章一三節

   中国には『韓信(かんしん)の股(また)くぐり』という有名な古事(こじ)がある。大勢の人の前で股をくぐれと言われた奸臣が、カーッとなってけんかをするのではなく黙って股をくぐったという有名な話だ。

   「忍耐」とは、他の人の重荷の下に自分を置くということだ。私達にとって忍耐をするのは大変むずかしい。

  〝我等(われら)はみな神の審判(さばき)の座(ざ)の前に立つべし。…我等おの おの神のまえに己(おのれ)の事(こと)を陳(の)ぶべし。〟
            ロマ書一四章一〇節、一二節

   子供の兄弟げんかを見ていると、はじめは口げんかで、やがておもちゃを投げたり暴力をふるうようになってくる。それを見ていた母親は、たいていの場合「あなたはお兄ちゃんでしょ。この子はまだ小さいんだから…。」と言って兄の方をしかる。すると、子供は子供ながらに抵抗する。母親に自分の正当性を訴え、それでも認められないとふくれっ面(つら)をしてバタンとドアを閉(し)め、自分の部屋に閉(と)じこもる。

  小さい時から私達は、正義とか正しい判断を求める。大人の皆さんも、職場や家庭において誰かが正しい判断を下(くだ)してくれるようにと願うのは当然なことであると思う。

  この世の中には判断を下(くだ)すものがいくつかある。自分が所属する社会の取り決め、規則、社会のしきたりや社会の目、国の法律や裁判などが一つの判断基準であろう。しかし、忘れてならないのは、私達をおつくり下さった神様の最高の裁(さば)きがあるということである。

  〝人、よろしく我(われ)らをキリストの役者(えきしゃ)また神の奥義(おくぎ)を 掌(つかさ)どる家司(いえつかさ)のごとく思うべし。さて家司に求むべき は忠実ならん事(こと)なり。我(われ)は汝らに審(さば)かれ、或(あるい)は人の 審判(さばき)によりて審かるることを最小(いとちいさ)き事(こと)とし、自(みずか)らも 己(おのれ)を審かず。…我をさばき給う者は主(しゅ)なり。〟
         コリント前書四章一~三節、四節

  私たちは皆、善につけ悪につけ、まことの神様によって最終的な裁きを受ける存在であると使徒パウロは書いている。神様によって私たちは裁かれる。パウロは多くのユダヤ人、同胞によって非難され、命を奪われようとした。異邦人からも命を奪われようとした。しかし、パウロは「私は忠実な家司(いえつかさ)のように神様にお仕えする。私をお裁(さば)きになるのは真(まこと)の神様お一人でいらっしゃる。だから、どんな人間の裁きにあっても私はおそれない。」と言って、信じるところを貫(つら)き通した。(続)

 

 
◎ 暗誦聖句 エペソ書四章二三節

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