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習志野バプテスト教会の週報

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◆ ロマ書の学び(353)

         ▽ み言葉に生きる


  〝なんぢの作爲(わざ)を主(エホバ)に託(まか)せよ。 さらば 汝(なんじ)の謀(はか)る  ところ 必ず成(な)るべし。 〟
      箴言一六章三節

  私は、願い「Hope(ホウプ)」を持った。日本のホープはどういうホープかというと、火をつければフワーッと消えてしまうタバコだ。ちょうど、ホープというタバコがマッチをつければ煙になって消えてしまうように、多くの日本人のホープ、望みは煙になって消えてしまう。なぜか。それは、確かな目標がないからである。確かな目当てがなく、自分の望みをかなえるような手段がないからである。クリスチャンは「神様が全知全能のお方であり、すべての事を最善にとりはからって下さる」「神様のみこころに従っていくなら自分達の願いはすべてかなえられる」という確信に立つから、どんなに行く手がトンネルのような暗闇(くらやみ)であっても喜んでみ言葉に従って進んで行くことができるのである。

  アメリカのコロラドに、今から百年ほど前、金鉱脈を掘り当てて使いきれないほどの財産を手に入れた人物がいた。タブールという男性だ。大金持ちになった彼は、奥さんを離縁し、町一番の美人と再婚した。その結婚式は、当時の大統領が出席したほど豪勢なものだった。世界一の幸せ者と思われたこのタブールさん、奥さんのあだ名は“ベイビー・ドール”と言った。しかし億万長者であった彼も、あっという間にその財産全部をなくしてしまった。失意の底で彼は亡くなってしまったが、亡くなる直前に奥さんにこう言った。「ベイビー・ドール、あなたは私が見つけたあの金鉱脈から絶対に離れてはいけない。あそこには莫大な金が眠っているから…」

  色々な争いを経て、ベイビー・ドールは金鉱脈のある場所にほったて小屋を建ててずっと生活した。何と三十六年間、孤独で惨めな生活を送った。それでも彼女は、ご主人の遺言が必ず叶えられると思っていた。一九三六年に彼女は亡くなった。これは人間社会にあって持つ望みであっても、全く手に入らないもの、無駄な労苦があるという事を教えている実際にあった例である。

  昔、私が英語を勉強し始めた時に、文法の教師からこういう事を教わった。英語には、「希望する」とか「願う」という意味の言葉が二つある。ひとつは「Hope(ホウプ)」そしてもうひとつは「Wish(ウィツシユ)」。では、「Wish」と「Hope」はどういう風に違うのか?wishというのは、願い事がほとんど叶わない、実現不可能と思われる時に使う。

  「Ⅰ(アイ) wish(ウィツシ) I(アイ) were(ワー) a(エ) bird(バード)…(もし、私が鳥であったらなあ、空を飛べるのに…。)」それは、まったく叶わないことだ。ところが、カクラン先生に、「Ⅰ(アイ) hope(ホウプ) to(ツ) see(スィー) you(ユー) again(アゲン) next(ネクスツ) Sunday(サンディ).」と言うならば、来週の日曜日にまたお会いしたいと思っているとなり、これは、ほとんど実現できる願い、希望である。

 

 
◎ 暗誦聖句 コリント後書三章一七節 
〝主の御霊(みたま)のある所(ところ)には自由あり〟

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◆ ロマ書の学び(352)

         ▽ み言葉に生きる


  〝義によりて得たるところの僅少(わずか)なる物は不義によりて得たる多くの資財(たから)にまさる 人は心におのれの途(みち)を考えはかる。されどその歩履(あゆみ)を導くものは主なり。 〟       箴言一六章八~九節
  若い皆さんにお勧めしたい事は、あなたがどの道に歩むとしても、とにかく一〇年間に基本的なものを身につけていただきたいという事だ。収入がない、アルバイトをしなければ小遣(こづか)いがないとしても、電車賃さえあればかまわないではないか。何も他の人たちと同じように、パソコンの新機種を持っていなくても生活はできる。一番大切な基本的なことの第一は、物ではなく人間だと思う。

  二番目には、へりくだって出会う人から学ぶということだ。人間の勉強だ。私は高校生の時から、真っ赤になりながらも、喉(のど)がカラカラになりながらも、震えながら社会人に英会話を教えてきた。特に苦手(にがて)だったのは、二〇人余りの奥さん方に教える時だった。紅一の逆で黒一点、男は私ただ一人、もう恥ずかしくて仕方がなかったが、「神様、どうか助けてください。」と祈りながら毎回婦人達に手ほどきをした。私は英文科を出ているわけではない。けれどもこういう中にあって、人間のむずかしいところ、いいところ、素晴らしいところ、醜(みにく)いところを否応(いやおう)なしに見てきた。私の心の中にあったのは、この英語を通して世界の人達に福音を伝えたいということであった。

  英語圏(けん)に住む人なら、イギリス人であろうがアメリカ人であろうが小さな時から英語を聞くわけだから、学校で勉強しなくても英語が話せる。私が先生から教えられたのは、英語圏の人であれば誰でも英語を話せるのだから、英語を勉強しようとするのではなく、むしろ人間を磨き上げるように、ということであった。英語はあくまでも自分の特別の技、技術を使うための道具であって英語そのものが本当の目的ではない、と言われたのである。

  多くの人達は、ここで間違える。英語がすべてだと思う。しかし英語は、英語圏の人であれば学校に行かなくても誰でも話せる。英語が話せるだけでは役に立たない。若い皆さんは、英語が話せるからといって自慢(じまん)してはいけない。英語ではなく、自分が持っている技術、力を英語で説明をする。自分の心を英語という言葉を使って表す。最終的にはあなた自身の人格であり、あなたの才能である。言葉は単なる道具に過ぎない。

  私は高校生の時から教会に行き、もう六〇数年のクリスチャン生活だが、その中にあってひとつの願いがあった。それは、「自分は生涯神様にお仕えしたい。私の人生すべてを神様におささげし、神様のご用のためにお仕えしたい。」ということであった。どんなに辛(つら)くても苦(くる)しくても、私はそれ以後迷(まよ)わなかった。(続く)

 
◎ 暗誦聖句 ヘブル書一二章二節前半

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◆ ロマ書の学び(351)

         ▽ み言葉に生きる


  〝おのおの隣人(となりびと)の徳(とく)を建(た)てん爲(ため)に、その益(えき)を圖(はか)りて之(これ)を喜ばすべし。 キリストだに己(おのれ)を喜ばせ給(たま)わざりき。録(しる)して『なんぢを謗(そし)る者の謗(そしり)は我(われ)に及(およ)べり』とあるが如(ごと)し。夙(はや)くより録されたる所は、みな我らの教訓(おしえ)のために録ししものにして、聖書の忍耐(にんたい)と慰安(なぐさめ)とによりて希望(のぞみ)を保(たも)たせんとてなり。〟
     ロマ書一五章二~四節

  職場にあって証しをたてようとする時、上の層が厚くてなかなか意見を言うことができないという経験があるかもしれない。けれども、もし皆さんが一つ、特別な技、技術を持っているならば、職場にあって「それは彼のところに行ったらいい。」となるわけだ。以前、新聞にある国会議員と外務省の役人がぴったりと癒着して問題になった事が報じられた。ある意味で、彼は「自分の特技をいかして」日本を右往左往させるような力を持ってしまったといえよう。

  クリスチャンが職場において証をしたいという時、もし皆さんの仕事が十分でなく、五〇~六〇%くらいの仕事ぶりであるなら、どうであろうか。脇に追いやられてしまって、半端な仕事しかできなくなってしまうだろう。 昔から、「自分の才能や技術を磨くためには一〇年間修行を積め。」と言われた。あなたは、一〇年間我慢(がまん)できるだろうか。今では、三ヶ月ももたない。だから多くの会社では三ヶ月間は正社員でなく、試験雇用として新入りが続くかどうかを見る。その間はボーナスも出ない。

  何か自分の身につけたい、信仰のない人と比べて恥ずかしくない実力をつけたい、と思うなら少なくても一〇年は下積みの世界を通らなければならないと思う。これは決して個人的な自慢ではないが、私も十年以上一人の先生の下で小使い働きから始めて、四六時中その先生の教えを受けてきた。やがてこの先生がご高齢になられ、「私の後継者は君だ。」と言われるまでになったが、はじめは家族から小言を言われ、なじられ「どうやって生活するんだ。いつまで下働きばかりやっているのだ。」と、母親にも言われたりした。しかし、そうした下働きの中にあった一〇年間に、私はお金では買えない貴重な訓練を頂いたと考えている。

  あかしとして聞いて頂きたいと思うが、私は高校卒業と同時位から大学生や、世田谷の著名人の奥さん方に英会話を教えた。高輪の幼稚園児にも毎週英語を教えたし、成人になるかならない頃に、渋谷外語で一般の社会人や大学生にも英会話の手ほどきをした。収入は殆どなかったけれども、私の恩師のお子さん達に教えたり、やがては恩師の代講という形であちこちで教える機会をいただいたのだ。                   ( 続 く )

 
◎ 暗誦聖句  ヤコブ書 一章二二節
〝 ただ御言(みことば)を聞くのみにして、己(おのれ)を欺(あざむ)く者とな らず、之(これ)を行う者となれ。〟

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◆ ロマ書の学び(350)

         ▽ み言葉に生きる


  〝おのおの隣人(となりびと)の徳(とく)を建(た)てん爲(ため)に、その益(えき)を圖(はか)りて之(これ)を喜ばすべし。 キリストだに己(おのれ)を喜ばせ給(たま)わざりき。録(しる)して『なんぢを謗(そし)る者の謗(そしり)は我(われ)に及(およ)べり』とあるが如(ごと)し。夙(はや)くより録されたる所は、みな我らの教訓(おしえ)のために録ししものにして、聖書の忍耐(にんたい)と慰安(なぐさめ)とによりて希望(のぞみ)を保(たも)たせんとてなり。〟    ロマ書一五章二~四節
  ロマ書の学びは「希望(のぞみ)の神」というテーマに入った。

  あなたは子供の頃、何か将来の夢や望みがあっただろうか。日本では「あなたは、大きくなったら何になりたいですか。」と聞かれると、女の子は看護師とかお嫁さんになりたいと答え、男の子はパイロット、野球やサッカーの選手になりたいと答えることが多い。子供の頃には、それぞれに「大きくなったら自分は何々になりたい。」という漠然(ばくぜん)とした願いを持つものである。

  やがて、中学、高校、大学に進むに従って「さあ、何になろうかな。」と迷い出す。けれども、様々な職業の中で、これぞと思われる仕事に就(つ)いて励(はげ)んでいる方々は、だいたい一〇代のうちに自分の将来すすむべき道を決(き)めているようだ。二〇歳を過ぎてもなおフリーターとして、手に職を持たず、職を転々としている人達は、なかなか良い仕事を見つけられないようだ。保険や保障の面でも現在問題になっている社会現象である。

  フリーターが二〇〇万人を超えるという。一体この先、彼らが四〇、五〇、六〇歳になったらどうするのだろうかと思う。「フリーター」というと聞こえはいいが、自分の好きな時間に休み、自分のしたいときに働き、自分が気に入らなければすぐにやめてしまうという、自分本位の仕事という思いがその裏にはあると思う。つい十数年前までは、余暇(よか)を使って働く事を「アルバイト」(ドイツ語で「働く」を意味する)と言った。最近では、アルバイトとは言わずフリーターという方が、いかにも格好よく聞こえる社会的な雰囲気がある。

  しかし、クリスチャンにはあまりフリーターにはなってほしくない。なぜなら、フリーターという生き方は、人生に確かな目当てを持たないことだからである。もっと自分の仕事に時間をかけ、修練を積み、研究や努力を重ねて、他の誰にも負けないような強い実力をつけることこそクリスチャンの証しであろうかと思う。何でもいいからと雇われるのではなく、「この仕事はあの人でなければできない。」と言われるような、確かな仕事を身につけることがたいへん大事なことだと思う。

 

 
◎ 暗誦聖句 詩篇 二七篇一〇節
〝 我が父母(ちちはは)われを捨(す)つるともエホバ我を迎え給(たま)わん〟

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◆ ロマ書の学び(349)

         ▽ み言葉に生きる


   〝聖書の忍耐(にんたい)と慰安(なぐさめ)とによりて希望(のぞみ)を保(たも)たせんとてなり。〟
      ロマ書一五章四節

   神様の忍耐がなければ、誰一人この教会には残っていないだろう。牧師をはじめ皆さんも、罪に負けたり信仰の挫折(ざせつ)を経験したりして神様から離れたことがあったと思うし、これからもあると思う。それでも神様は忍耐の神でいらっしゃる。長く私たちを待ち続けて下さっている。

  この社会で自分の娘が堕落(だらく)してしまったとしよう。娘はボロボロになっても、家に帰ってこない。父親は「あの子を絶対家に入れるな!」とがんばる。ところが、母親は夜毎(よごと)にそっと勝手口(かってぐち)の鍵(かぎ)をはずして、娘がいつ帰ってもいいようにと待つ。父親は忍耐がないが、母親は忍耐深い。父親は一度ダメと言ったらダメだが、母親はいつまでも忍耐をもって待つ。愛があるからだ。

  神様の愛は深いので、忍耐の神ともいわれる。聖書を読むことにより私たちはその神様の御心(みこころ)を学んでいく。そして、苦しみの時、悲しみの時、絶望の状態にあってもなお、詩篇や聖書の約束を読む時に「そうだ。神様は生きていらっしゃる。神様は、私の必要を全(すべ)てご存知でいらっしゃる。」とわかってくる。

  聖歌の六五一番「罪とがをにのう」を皆さんは良くご存知だと思う(賛美歌では「いつくしみ深き」)。この詩はヨセフ・スクリヴェン(一八一九~一八八六年)というアイルランドの人が作ったといわれている。彼はダブリンのトリニティ・カレッジで勉強した。彼が二五才の時、結婚式前日に婚約者が溺死(できし)した。明日が結婚式という時に愛する人を亡(な)くした彼は、悲しみと痛みで自分の国を離れカナダに移住することを決意した。彼は、貧しい人、身体に障害を負った人、苦しんでいる人の友として生涯をささげていく。

  三五才の時、母親が重い病にかかったという知らせを受けたが、彼は母の所に行けなかった。彼は「山上の説教」を身をもって示したといわれたくらい、自分の持ち物の全てを貧しい人たちに与え、なお困っている人のために斧(おの)で木を切る仕事をして助けていた。それは、回りから変人扱いされるほどであった。彼には母親のところに行く船賃すらなかったのである。そこで、彼は婚約者を亡(な)くした時に書いた詩を母親に送った。その詩が、苦しみと悲しみの中にある多くの人を慰(なぐさ)める聖歌「つみとがをにのう」となったのだ。

  「気疲(きづか)れせし者(もの)
 重荷(おもに)負(お)う者
 隠(かく)れがなる主に
 すがれただちに
 なが(あなたの)友は笑い
 迫害すとも
 主はなれ(あなた)を抱き
 慰め給わん」
   (続く)

 

 
◎ 暗誦聖句 ミカ書七章一九節
 〝ふたたび顧(かえり)みて我らを憐(あわれ)み 我らの咎(とが)を踏(ふみ)つけ 我らの諸(もろもろ)の罪を海の底に投(なげ)しづめたまわん。〟

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