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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(357)

         ▽ み言葉に生きる


  〝われ汝(なんじ)らに到(いた)るときは、キリストの満(み)ち足(た)れる祝福(しゆくふく)をもて到(いた)らんことを知(し)る。〟
               ロマ書一五章二九節

  今回はたいへん短いこの一つの聖句の言葉をご一緒に黙想(もくそう)していきたいと思う。

  使徒パウロはこの後、ローマに行き、ローマで裁判の時を待った。イエス様に従っていた弟子達はそれぞれ大きな迫害を受け、また地上の生涯の信仰のはせばを走りながら、神様の御旨(みむね)を人々に伝え、召(め)されたのである。

  聖書の一番最後の書簡である「ヨハネの黙示録(もくしろく)」もまた、イエス様のみそば近くでお仕(つか)えし、イエス様にたいへん愛された一二弟子の一人ヨハネが、パトモス島(とう)に流された時に記したものである。ヨハネは、そこでたいへん大きな苦しみを経験しながら、神様からこの世界の終わりについての啓示(けいじ)をいただき、それを書きとどめたのである。

  また、ペテロは「イエスを知らない。」と三度もイエス様を否定したが、後に悔(く)い改(あらた)めて、イエス様の復活の後に弟子達や多くの人々を導きながら神様にお仕えし通した。一説(いっせつ)によると、最後は逆(さか)さに十字架につけられて死んだ、と言われている。

  日本においても、九州の方ではカトリックの信者達が大きな迫害(はくがい)を受けた歴史が残っている。これを見ると、聖書の教えや神様の御言葉(みことば)を信じる人たちは、いつも激しい戦いと恐ろしい迫害の中に死んでいくのかという不安を覚える方もいるかもしれない。

  「バプテスト」の歴史は長く、一つのまとまった教団組織としてではなく、地方に点在してきた一つ一つの教会が、神様のお言葉をまちがいのない信仰の導き手、また神様の唯一(ゆいいつ)の啓示(けいじ)の書として、聖書信仰を保( たも)ってきた。「バプテスト」というのは、自分たちが自分たちの考えでつけた名ではなく、他の人々にあだ名としてつけられた名である。

  バプテスト教会は、生まれたばかりの赤ちゃんには、いわゆる洗礼(せんれい)を授(さず)けない。自分がはっきりと罪を認めて悔い改め、イエス・キリストを信じるときにその告白としてイエス様にあわせられるバプテスマを受ける。本来「バプテスマ」とは全身水に浸(ひた)す(=全浸礼(ぜんしんれい))という意味である。よって、バプテストは滴礼(てきれい)ではなく、全浸礼を聖書の方法として守ってきた地方教会の群(むれ)である。バプテスト教会は、カトリックの流れから枝分( えだわか)れしたのではない。    
     ( 続 く )

 

 
◎ 暗誦聖句 ヘブル書九章二二節
〝 おおよそ律法(おきて)によれば、萬(よろづ)のもの血をもて潔(きよ)めらる、もし血を流すことなくば、赦(ゆる)さるることなし〟

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◆ ロマ書の学び(356)

  〝願わくは希望(のぞみ)の神、信仰より出(い)づる凡(すべ)ての喜悦(よろこび)と平安とを汝らに滿(み)たしめ、聖靈(せいれい)の能力(ちから)によりて希望を豐(ゆたか)ならしめ給(たま)わんことを。〟ロマ書一五章一三節

  何度もお聞きになったと思うが、英語の「喜び」という意味の「JOY(ジヨイ)」という言葉は、「J」は〝Jesus(ジーザス)〟イエス様、「O」は〝Others(アザーズ)〟他の人たち、「Y」は〝You(ユウ)〟あなた、あるいは〝Yourself(ユアセルフ)〟あなた自身と言われる。まずイエス様を第一に考え、そして他の人たち、最後にあなた自身。この順序を間違えないで欲しい。多くの人たちの順序はまず第一に自分そして神様は最後にあとまわしにしてしまい「YOJ」となっている。だから喜びがない。

  自分の願いが叶(かな)わないと、すぐふくれる、怒る、切れる。最近では切れる人が多い。頭が切れるのはいいが、感情が切れるから困る。傘で人を刺し殺したり、他人の家に入って暴行を加えたり恐ろしいことが起こっている。私たちが神様を第一とするならば喜びがくる。その喜びは特に「Hope(ホウプ)」であって、その願いが叶えられた時に本当の喜びを味わうことができるのである。

  かつて探査機を飛ばしたアメリカの飛行機会社の副社長が、「私は毎週日曜日、日曜学校で教えることが最良の楽しみである。」と語った。探査飛行を行うプロジェクトの責任者でもあった彼は、科学者であり、その上、飛行機を作る大きな会社の副社長でもあった。その人が、「私は毎週日曜日、イエス様のことを伝えることに喜びを持っています。科学は人間の心に喜びをもたらすものではありません。科学とか宇宙探検の中に、人間の本当の喜びをもたらすものはありません。私は絶対に、私の救い主、イエス・キリストから目を離すことはできません。」と言った。

  彼は自分の霊的な必要のために、これまで以上になおいっそう聖書をよく読み、よく考えるとも言った。この科学者が言うように科学は人間を救う力もなければ、むしろ人間を破滅させる力を多く持つ。私達は矛盾に満ちた世界を多く見る。日本のある宗教団体の会長が、どうしてもノーベル平和賞が欲しいと国連やあちこちに多額の寄付金を送った。でも、そのノーベルは何を作ったか。人間を破壊するダイナマイトを作った。人を殺し、何千何万という人たちを破滅させるようなダイナマイトを作りながら、なぜ、ノーベル平和賞なのだろうか。どうかこれからもそれぞれに聖書を読み、確かなイエス・キリストの救いを心に迎えて頂きたい。そうするなら、どのような暗い夜道を歩く時にも、神様が共にいて下さる。寂しさを味わっている方、痛みを覚える方、イエス・キリストにあってまことの「Hope」、「喜び」を頂いて欲しい。         (続く)

 

 
◎ 暗誦聖句 創世記二二章一四節
〝エホバ エレ 。〟(エホバ、預備(そなえ)たまわん)

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◆ ロマ書の学び(355)

  〝然(さ)れば此等(これら)の事(こと)につきて何(なに)をか言(い)わん、神(かみ)もし我(われ)らの味方(みかた)ならば、誰(たれ)か我(われ)らに敵(てき)せんや。〟
     ロマ書八章三一節

  今から三〇年ほど前、私達は新会堂を建てようというヴィジョンを掲(かか)げた。約三〇年前教育館を建てた直後に、私達は今度は古い会堂を壊(こわ)して新しい会堂を建てようとの志(こころざし)をもった。そこで何をしたかというと、信仰によって毎月、新会堂のために献(ささ)げていこうと決(き)めたのである。単なる願いだけでなく、自分達の足元(あしもと)を見ながら、足元を固めつつ目標に向かって一歩一歩進んで行ったのである。

  月々二、三万円のささげ物で会堂が建つのかと思った方々(かたがた)も少なくないと思う。しかし神様は現在の建物をお与(あた)え下さった。なぜなら、私たちはイエス様のみ栄(さか)えのため、神様のみ心を求めて、さらに私達の足元を固めるという三拍子揃った形でこの建物を求めたから与えられたのである。この建物は牧師の夢ではない。皆さん一人一人の「Hope(ホウプ)」が具体化された証(あか)しである。

  あなたが今、直面している健康の問題、職場、人間関係の問題などが多くあると思うが、イエス様にあって神様のみ栄え、神様のみ心を求めていく時には、どんな困難な問題も必ず解決されると思う。なぜなら、この世界を治(おさ)めていらっしゃるのは万物(ばんぶつ)の創造主(そうぞうしゆ)である真(まこと)の神様でいらっしゃるからだ。

  使徒パウロはロマ書の中で〝神もし我らに味方(みかた)せば、誰か我らに敵せんや〟と書いた。神様があなたと共に働いて下さるなら、世界中の誰があなたを打ち負かすことができるだろうか。それこそ、まだ童顔の残るダビデは石投げ一つで巨人ゴリアテを倒した。ダビデはまことの神様に目を注いでいた。そして、神様のみ名が汚(けが)される事を心から憤(いきどお)った。

  クリスチャンは怒ってはいけないということではない。クリスチャンは神様が喜ぶ事を共に喜び、神様がお嫌いになる事を嫌わなければならない。大変残念なことに、多くの人は神様が喜ぶことを喜ぶが、神様がお嫌いになる事を嫌わない。「まあまあ。」という風(ふう)だから、自覚(じかく)がない。私達は神様を愛するという時に、神様から引き離そうとする力に対して憎しみをもって戦わなければならない。

  〝罪(つみ)を憎(にく)み、悪(あく)と戦(たたか)い、善(ぜん)を追(お)い求(もと)めよ。〟と、聖書は繰り返し教えている。自分自身の名誉や、金持ちになりたいとか個人の肉的な思いではなく、神様のみ栄(さか)えのために自(みずか)らをささげていく。目的は神様のみ栄えのため、神様にお仕(つか)えすることができるため、そして、神様のみ前に一人でも多くの人を導(みちび)くことができるように、良い証しができるように、ということである。(続)

 
◎ 暗誦聖句 ヤコブ書一章二二節
〝 ただ御言(みことば)を聞くのみにして、己(おのれ)を欺(あざむ)く者とならず、之(これ)を行(おこな)う者となれ。〟

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◆ ロマ書の学び(354)

  〝願(ねが)わくは希望(のぞみ)の神(かみ)、信仰(しんこう)より出(い)づる凡(すべ)ての喜悦(よろこび)と平安(へいあん)とを汝(なんじ)らに滿(み)たしめ、聖靈(せいれい)の能力(ちから)によりて希望(のぞみ)を豐(ゆたか)ならしめ給(たま)は(わ)んことを。〟                 ロマ書一五章一三節

  多くの日本人は、「Wish(ウィツシ)」「Wish」と言っている。本当の意味での「Hope(ホウプ)」がない。「Hope」を持たないから、空を見上げて「ああ、パイロットになりたいなあ。」と思っても、それは「Wish」にとどまってしまう。それを「Hope」にするためには、毎日コツコツと勉強し、研究し、努力を積み重ねてはじめて「Wish」から「Hope」へと変わってくるのである。

  聖書の中で、私達が信じるイエス・キリスト、全知全能の神様は、私達の願いを叶えてくださるお方であるとある。旧約聖書の箴言第一六章の中に、神様にあなたの願いを申し上げるならば、あなたの望むところは必ずなるという約束がある。同時に、このロマ書の一五章には「希望(のぞみ)の神」と書かれている。

  中、高生の皆さんはどんな願いをお持ちだろうか。子供は特に小学校から中学校に進む頃「自分は、ああなりたい、こうなりたい。」という希望を持つ。これは、世界中の子供達に共通している。百年ほど前の日本では、小学生の希望は大したことはなかったが、二〇歳代になると“青雲(せいうん)の志(こころざし)”と言われた。その意味は、青年時代にはどんなことでもできるという大きな望みを抱くということだ。

  北海道の札幌農学校で教えたクラーク博士は「Boys(ボーイズ) be(ビ) ambitious(アンビシヤス).」=「少年よ、大志を抱(いだ)け。」と言った。でもこれだけではない、「イエス・キリストにあって大きな志をいだきなさい。」というのが本筋だろう。札幌農学校に行くと、クラーク博士の記念碑がある。私はそこに行った時「多くの日本人は、どうして本来のクラーク博士の言ったことを心にとめなかったんだろう。」と思った。彼は日本にイエス様のことを伝えに来た。そして、学問を教えることで多くのクリスチャンを育てた。滞在期間は短かったが、後の日本の社会を変革するような偉大な伝道者や作家が出てきた。

  使徒パウロが、ピリピ書に書いているように、イエス・キリストにあって志をもち、神様のみ栄えのために志を立てるということは大変大事なことである。 〝この故(ゆえ)に若(も)しキリストによる勸(すすめ)、愛(あい)による慰安(なぐさめ)、御靈(みたま)の交際(まじわり)、また憐憫(あわれみ)と慈悲(じひ)とあらば、なんぢ(じ)ら念(おもい)を同(おな)じうし、愛(あい)を同(おな)じうし、心(こころ)を合(あわ)せ、思(おも)ふ(う)ことを一つにして、我(わ)が喜悦(よろこび)を充(みた)しめよ。〟
       ピリピ書二章一~二節

 

 

 
◎ 暗誦聖句 コリント後書六章一六節
〝我(われ)らは活(い)ける神(かみ)の宮(みや)なり。〟 

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