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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(363)

         ▽ み言葉に生きる


  〝われ汝(なんじ)らに到(いた)るときは、キリストの満(み)ち足(た)れる祝福(しゆくふく)をもて到(いた)らんことを知(し)る。〟
 ロマ書一五章二九節

  さまざまな誘(さそ)いに乗(の)ってしまうことがある。私たちが持つところの、社会人としての、恐れからくるのであろう。

  かつて、エンロンというアメリカの大きな会社や、メリルリンチという有名な会社も大きなトラブルを起こした。会社が大きければ良い、ではない。その中に自分たちの会社を守ろうとか、自分たちが損失を被(こうむ)ることがないように会社の自我を守ろうと、言ってみれば「会社の自我」を守ろうとするならば、結局は大きな破綻(はたん)を経験することになる。

  聖書の中には〝自分の心を治(おさ)める者は町を攻(せ)め取る者に勝(まさ)る」と書いてある(箴言一六章三二節)。

  自分自身の心を治(おさ)めることのできる者は、一つの城を攻め取る秀吉に勝ると言えようか。一つの城を攻め取ることは大変な事である。しかし、それ以上に自分の心を治める事は大変なことである。私たちの自我は、いつも自分の幸(しあわ)せを求(もと)め、「自分が絶対だ」と思う。そして自我が傷(きず)つくのを恐(おそ)れる。

  誰も見ていなければ、「みんながやっているから良いじゃないか。」と悪いことをついやってしまう。みんながやっている、ということが自分を防御(ぼうぎよ)、守る手だてとなってしまっている。

  以前、聖路加国際病院の精神科医長の土井という方が、日本人の甘(あま)えについて『甘えの構造』という題名の本を出版なさった。それが世界的にたいへん有名になった。

  この先生の本を読むと「甘え」というのは日本人独特(どくとく)のものであることがわかる。事実、英語には「甘え」という言葉はない。「甘え」というのは、相手が自分のことを理解してくれていると考え、自分の思いを通そうとすることである。母親は子供を甘やかす。父親は娘を甘えさせる。

  職場で「まあ一、二回遅刻しても良いだろう。」と甘えてしまう。レポートが遅(おく)れても「先生はきっと許(ゆる)してくれるから。」といって教師に甘える。会社で何かの約束の期日に間に合わなかったら「すいません。なんだかんだ。」と言って、ちょっと手みやげを持って行って許してもらおうとする。こういう形で〝袖(そで)の下(した)〟というものが出てくるのである。

  しかし、クリスチャン生活において私たちには甘えがない。人間に対する甘えは一(いつ)切(さい)ないのである。(続)

 

  ◎ 暗誦聖句  箴言二九章一八節前半
〝黙(もく)示(し)なければ民(たみ)は放肆(ほしいまま)にす。 〟

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◆ ロマ書の学び(362)

         ▽ み言葉に生きる


  仮(かり)に自動車を運転していて、何かを器物(きぶつ)損壊(そんかい)してしまったとしよう。どこかの屋敷(やしき)の塀(へい)を壊(こわ)してしまった時、まずすることは何であろうか。キョロキョロ周(まわ)りを見まわすのではないだろうか。誰か見ていないかなと。私(わたし)たちは自分のやったミスを隠(かく)したい。できればその場(ば)を黙(だま)って立(た)ち去(さ)りたい、という誘惑(ゆうわく)が起(お)きる。とっさの事なので、普段(ふだん)は一生懸命(いつしようけんめい)まじめにやっている人でも、とっさに、あっと思ったときには嘘(うそ)を言ってしまう。子供を育てるとわかると思う。

  小さい子供がミスをした。「これをしたの、あなた?」「ぼくじゃない。」「うちのタマがやった。」と猫のせいにしたり、すぐ自分じゃないと言ってしまう。自分を守ろうとする思いがある。

  自我(じが)。人間誰もが持っている自我、エゴである。自分を守ろうとする思いが大変強く働(はたら)く。 劣等感(れつとうかん)。私は幼(おさな)い頃から劣等感の虜(とりこ)になっていた。大変辛(つら)い心の状態であった。何をするにしても自分が劣等感を持ってやるので、試験でも夢中になって勉強するわけである。それは、自分が成績が悪くなったら恥(は)ずかしいと言う思いからである。

  劣等感の持(も)ち主(ぬし)は裏(うら)を返(かえ)すと、一〇〇点満点(まんてん)でなければ、気(き)がすまない、完璧(かんぺき)主義(しゆぎ)ともいえよう。私たちは完璧主義というとすごく立派(りつぱ)だと思うが、完璧主義者は、劣等感があるから完璧を求めるのである。なぜか。恥ずかしい思いをしたくない、自我を守ろうとするから、そうなるといわれている。

  私たちは、日本という社会にあって義理(ぎり)、人情(にんじよう)という大変(たいへん)厳(きび)しい社会の制約(せいやく)の中で生まれ育ってきた。「そんなことをしたら恥(は)ずかしい。」「あんな事をやったら、みんなに笑われる。」そうした世間体(せけんてい)というものが私たちを不自由にしている。

  自分でこうしたいと思っても、親に「そんなことをしたらみんなに笑(わら)われるよ。おかしいよ。みんなそんなことやっていないから。」と言われてしまう。日本人がよく使うのは、「みんなが」そうやるよ、という言葉である。

  葬儀(そうぎ)の際(さい)、一般の葬儀屋さんは、家族全員がどうしようかと迷(まよ)っている時に、「皆さんそうやっていますから。」と言う。喪主(もしゆ)は、「それじゃあ、お願いします。」と言(い)ってしまう。「皆(みな)さんやっていますから」と膨(ふく)らんでしまい、初め一〇〇万円でできるはずのものが、三〇〇万円、五〇〇万円とふくらんでしまう。きっかけは「皆さんそうしていらっしゃいます。」ということである。「それならそうしましょ」となってしまい、その誘(さそ)いに乗(の)ってしまうのである。 〝愛する者よ、惡(あく)に效(なら)うな、善(ぜん)にならえ。善をおこなう者は神より出(い)で、惡をおこなう者は未(いま)だ神を見ざるなり。〟     ヨハネ第三の書一一節 (続)

 

  ◎ 暗誦聖句 箴言一章七節前半(Proverbs 1:7 a)
"The fear of the Lord is the beginning of knowledge."
〝エホバを畏(おそ)るるは知識の本(もと)なり。 〟

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◆ ロマ書の学び(361)

         ▽ み言葉に生きる


  〝我(われ)は努(つと)めて他人(たにん)の置(す)えたる基礎(きそ)の上に建(た)てじとて、未(いま)だキリストの御名(みな)の稱(とな)へられぬ所(ところ)にのみ福音(ふくいん)を宣傅(のべつた)えたり。録(しる)して『未(いま)だ彼(かれ)のことを傳(つた)えられざりし者(もの)は見(み)、いまだ聞(き)かざりし者(もの)は悟(さと)るべし』とあるが如(ごと)し。〟     ロマ書一五章二〇~二一節

  以前(いぜん)、アメリカのテキサス州に行(い)った時(とき)のこと。テキサスは石油(せきゆ)が採(と)れるところであるが、毎(まい)日(にち)のようにトラックで水(みず)を売(う)りに来(く)るのでびっくりした。「何(なに)?アメリカ人は水を買(か)うの?」と聞(き)いたら「そうだ。」と言(い)う。特(とく)にテキサスは水が大変悪(わる)い地域(ちいき)らしく、その水の中にはたくさんの悪い成分(せいぶん)が入(はい)っているそうだ。確(たし)かに水道(すいどう)の水(みず)をビンに入(い)れておくと、あっという間(ま)に下(した)の方(ほう)にワックスが溜(た)まった。おいしい水をただで入手(にゆうしゆ)できる日本では考(かんが)えられないことであった。

  私たちが神様からいただく祝福(しゆくふく)、恵(めぐ)みは全(すべ)て、「福音(ふくいん)」に入(はい)っている。

  最初(さいしよ)のクリスマスに「良(よ)きおとずれを汝(なんじ)らに告(つ)ぐ。」と御使(みつか)いが語(かた)った。神様の「良いおとずれ」とは、「福音」「グッド・ニュース」「ゴスペル」とは、いったい何なのであろうか。

  使徒パウロは、福音を〝キリストの満(み)ちあふれる祝福をもて到(いた)らんことを知(し)る〟と書いている。彼は、福音そのものがもたらす祝福を考えていた。

  たとえば、皆(みな)さんが罪(つみ)の中(なか)に生活していた時のことを考えてみていただきたい。イエス様を知らずに、神様の救いを受けなかったときにどういう生活だったであろうか。不安(ふあん)が毎日あり、恐(おそ)れがあった。これで満足(まんぞく)という満足感が無(な)かったと思う。それこそ、徒然草(つれづれぐさ)にあるように、百万(ひやくまん)長者(ちようじや)になれば、さらに億(おく)万長者になりたいと願(ねが)う心。

  そこまで欲(よく)張(ば)らないとしても不思議(ふしぎ)なもので、お金を貯(た)めはじめると五〇万円貯まったら、今度の目標は七〇万、今度の目標は一〇〇万、五〇〇万、一〇〇〇万、今度は一億(おく)円だと、どんどん欲望は膨(ふく)らんでいく。しかし、心はいつまでたっても満足がない。あるいは、自分で正(ただ)しいことをしたいと思(おも)いながら、正しいことができない。 以前(いぜん)、国会(こつかい)議員(ぎいん)の不祥事(ふしようじ)が発覚(はつかく)した時のこと。いきな

  り、リポーターに囲(かこ)まれて「週刊誌にこう出てますよ。」と言われて「いや。私、そんなことありません。」と否(ひ)定(てい)していた。しかし、けっきょくあとから「自分は、確(たし)かに秘書(ひしよ)給与(きゆうよ)をこういうふうに使(つか)いました。」と言って辞任(じにん)しなければならなかった。 誰でも、とっさに出(で)てくるのは、自分を守(まも)ろうとする思いである。              (続く)

  (外国の方たちのためにふりがなをつけています。)

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◆ ロマ書の学び(360)

         ▽ み言葉に生きる


  〝われ汝(なんじ)らに到(いた)るときは、キリストの満(み)ち足(た)れる祝福をもて到(いた)らんことを知る。〟 ロマ書一五章二九節

  「この宗教を信じるならばあなたには、必ず功徳(くどく)があります。」「御利益(ごりやく)があります。」というように、日本では多くの宗教が功徳ということを言う。

  では、イエス様を信じる人たちに、一般的にいう御利益や功徳というものがあるのか。もちろんこれらの宗教的な色彩を持つ言葉自体、教会では使わない言葉だが、私たちは神様から祝福をいただくことができる、と聖書を通して学ぶことができる。イエス・キリストを救い主として信じる人たちは、神様から計(はか)り知れない多くの祝福をいただくことができる。

  皆さんは神様から与(あた)えられた頭脳(ずのう)をどれくらい使っているだろうか。何%ぐらい脳の働きを活(い)かしているだろうか。ある説では人間はたった三%しか脳を使っていないという。考えてみれば、なるほどな、と思う。今や多くの方がパソコンや難(むずか)しい機械を使う時代になった。

  携帯(けいたい)電話(でんわ)も技術(ぎじゆつ)が著(いちじる)しく進歩(しんぽ)した。電話以外(いがい)にも、Eメールやいろいろなことができる。ところが、役に立つ携帯電話でさえ実(じつ)は私たちは二、三種類の機能(きのう)しか使っていない。いわゆる「宝(たから)の持ち腐(ぐさ)れ」というものである。ましてや、神様がくださった人間の頭脳は、わずか三%しか使っていないというならば、ほとんど使っていないのと同じである。

  クリスチャンは、神様からはかり知れない恩寵(めぐみ)と愛と祝福をいただいている。にもかかわらず、私たちはそのことを理解せず、また、知らないために、多くの神様の恵みを失(うしな)っている。豊富(ほうふ)な雨と、おいしい水に恵(めぐ)まれた日本で生活している私たち日本人にとって、最近(さいきん)まではほとんど水を買(か)うことはなかった。

  二〇年以上前のこと、ユダヤ人が書いたと言われる『日本教クリスチャン』という奇妙(きみよう)なタイトルの本の中で、ユダヤ人は水は大変価値(かち)があるものとしてお金(かね)を出して買うものだと考(かんが)えるとあった。日本人は、水は湯水(ゆみず)のように使(つか)って、大変無駄(むだ)に使ってしまう。

  バングラデシュ(冨岡先生が医療(いりよう)伝道(でんどう)をなさっている国)に伺(うかが)った時、大きなポリタンクが洗面所においてあった。そのタンクの下の方には三〇センチくらいロウのように固まった物があり、その上に水が入っていた、「先生、これなんですか。」「水を蒸(じよう)留(りゆう)して出来たものです。」海面とほとんど同じくらいの低い地域のため、汚い水がいっぱい周りにある。水をくんできてタンクに入れて濾過(ろか)する。濾過した底に三〇センチくらい白い固まりになっている。これはバングラデシュだけの話ではない。  (続く)

 

  ◎ 暗誦聖句  箴(しん)言(げん)一章七節
〝エホバを畏(おそ)るるは知(ち)識(しき)の本(もと)なり。愚(おろ)かなる者(もの)は智(ち)慧(え)と訓誨(おしえ)とを軽(かろ)んず。〟

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