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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(367)

         ▽ み言葉に生きる


  神様が下さった「頭(ず)脳(のう)の三%も私達は使っていない。あとは、まったく無駄(むだ)になっている。」とは、ある脳学者の説。何人かの優秀な科学者の頭脳は保存されているという。たとえば、アインシュタインの脳などである。ある科学者達は「アインシュタインの脳を少し切り取って、それを分析してみたい。DNAを調べて、それからクローンを作ろう。」と言っている。しかし、そんなことは必要ない。創造主なる神様に全(すべ)てをあけ渡すなら、神様はあなたが持ちきれないほどの祝福をお与えくださる、と約束を与えてくださっているからだ。

  詩篇八一篇一〇節にも〝なんぢの口を廣(ひろ)くあけよ、我(われ)ものを みたしめん。〟と書かれている。神様は、あなたの口を大きく開(あ)けなさい、私はあなたにものを満(み)たします、とおっしゃっている。これは、あふれんばかりの恵みを神様が、あなたがた一人一人に与えますよと仰(おつしや)っているのである。

  だから私はこの約束に従って、毎日神様の御前(みまえ)に口を開けている。そして私が口を開けるたびに「もうお腹(なか)いっぱいです。」と言うくらいに神様は豊かな祝福を、次から次へと与えてくださっている。あなたは、神様が「あなたの口を広く開けよ。」とおっしゃっているのに口をつぐんだままでいないだろうか。ぜひ、口を大きく開けて、「神様どうか私をあなたの祝福で満(み)たしてください。私はまだまだ、神様の恵みを数(かぞ)え切れていません。」と神様に求めていただきたい。聖歌に「のぞみも消えゆくまでに」(六四二番)という賛美がある。

  『一、望(のぞ)みも消えゆくまでに、世の嵐に悩む時(とき)、
  数えてみよ、主の恵(めぐ)み。汝(な)が心は安(やす)きを得(え)ん。
二、主の賜(たま)いし十字架を、担(にな)いきれず沈(しず)む時、
 数えてみよ、主の恵み。呟(つぶや)きなど いかであらん。
三、世の楽しみ、富、知識。汝(な)が心を誘(さそ)う時、
 数えてみよ、主の恵み。天(あま)つ国(くに)の幸(さち)に 酔(よ)わん。
※数えよ、主の恵み。数えよ、主の恵み。
 数えよ、一つずつ。数えてみよ、主の恵み。』

  一人一人の方が神様の豊かな祝福を数えることができるようにと祈っている。イエス様を信じる時に私たちは魂(たましい)の自由を、自我(じが)の束縛(そくばく)からの解放を経験できる。「私はイエス様と共に十字架につけられて死んだ。今あるのは私の古い性質ではない。神様からいただいた新しい生命に歩むのだ。」(ロマ書六章三、四節)と。

  また、神様の子供たちには全ての事が相働(あいはたら)いて益(えき)となる(ロマ書八章二八節)との約束もある。何一つ私たちに害をもたらすものは無(な)い。どこに行くにしても神様はいつでも共にいて下さる。神様の祝福が共にあるという約束を覚えて恵みを数えつつ歩もうではないか。(続)

 

  ◎ 暗誦聖句 ヘブル書三章一節後半
〝我(われ)らが 言ひ(いい)あらはす 信仰の使徒(しと)たり 大祭司(だいさいし)たる イエスを 思ひ見よ。 〟

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◆ ロマ書の学び(366)

         ▽ み言葉に生きる


  もう私たちは何一つ隠(かく)すことはできませんという気持ちで、神様の前に立つとき、神様は「私はあなたのために救いの道を備(そな)えていますよ。」とおっしゃるのである。こうして、どのような殺(さつ)人(じん)を犯(おか)したものであっても、あるいはどのような極悪非道(ごくあくひどう)な人間であっても、イエス様の十字架の前に平(ひれ)伏(ふ)すときに、イエス様は私たちの罪、汚(けが)れを洗いきよめてくださる。しかも、それは、水のバプテスマ、洗礼ではないのである。イエス・キリストが十字架上で流してくださったご自分の血潮(ちしお)によって、神様はその血の中に隠(かく)れた私たちをご覧(らん)になり、これからは、あなたの罪を数えることをしないとおっしゃるのだ。

  イエス様は、〝我は世の光なり。〟とおっしゃった。アインシュタインという科学者が、あの相対性理論を発表するに当たって何を考えただろうか。

  光はどのくらいの速さだろうか。光は、時計の音がカチッとする間に地球全体を七回もまわってしまうそうだ。「光はこの世の中で変わることのないものである。この光がなければ、私は相対性理論を発見することはできなかった」と彼は言っている。

  私たちはこの世の中の流れゆくものではなくして、全く変(か)わることのない、性質を変えることのない、イエス・キリストというお方を中心として、人生の土台を築いていきたいものである。私たちの魂(たましい)の錨(いかり)、不動の錨は、変わることのない主イエス・キリストというお方である。その上に自(みずか)らの人生を築(きず)いていかなければならない。

  「御(み)言(こと)葉(ば)に立(た)て!」「信(しん)仰(こう)に立て!」あるいは「聖書、聖書」と聞かされて窮屈(きゆうくつ)でしょうがないと思う人がいるかもしれない。

  私は、イエス様を信じる前には{恐(きよう)怖(ふ)、不(ふ)安(あん)、劣(れつ)等(とう)感(かん)、疑(うたが)い、将(しよう)来(らい)に対する不安、経済的な不安、健康の問題}などの様々なことにしばられ悩(なや)まされていた。しかし、イエス様を信じてからは、多くの人が抱(かか)えるそういう重荷から全く解放されたのである。なぜならばここにあるように、神様はイエス・キリストを信じる者たちに対して、満ちたれる祝福をもってのぞんでくださるからである。

  〝この故(ゆえ)にキリスト汝(なんじ)らを容(い)れ給(たま)いしごとく、汝(なんじ)らも互(たがい)に相(あい)容(い)れて神(かみ)の榮(えい)光(こう)をあらわすべし。〟
   ロマ書一五章七節 
    ( 続 く )

 

  ◎ 暗誦聖句 エレミヤ哀歌三章二七節
〝 人(ひと)わかき時(とき)に軛(くびき)を負(おう)は善(よ)し〟

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◆ ロマ書の学び(365)

         ▽ み言葉に生きる


  現代の日本でも、キリスト教と言いながら実はキリスト教ではない、輸(ゆ)血(けつ)反対とか言うグループの人たちがいる。彼らは救われるためには自分の努力が必要だ、と教えている。毎週のように、一軒一軒歩いて、雑誌を売ったり、勧誘したりと、絶えず働かないと、自分たちが救いを失うという教えである。

  あるいは、韓国で文(ぶん)鮮明(せんめい)という人が私は再臨(さいりん)のメシアであると主張して始めた統一教会というものがある。どうしてみんなだまされるのか、不思議でならない。人々は心の安らぎのために、社会生活の中に確(たし)かな土台をさがし求め、様々な宗教や、伝統儀式などにすがるが、真理であるイエス・キリストのもとには来(こ)ようとしない。

  〝心は万(よろず)のものよりも偽(いつわ)るものにして、はなはだ悪(あ)しし。〟(エレミヤ記一七章九節)と聖書に書かれている。人間の心は、世界のあらゆるものにもまして邪悪(じやあく)である。「ああいえばこういう。」どこかの宗教の人のように。聖書は私たちに、神様の裁(さば)きから逃(のが)れる道を示している。イエス・キリストが十字架にかけられ、死んで、復活なさった。聖書は、「私が受けるはずの裁(さば)きをイエス様が代(か)わりに受けてくださった」と教えている。それを信じる者だけが、神様の厳しい裁きから逃(のが)れることができるのである。

  今から一〇〇数年前、アメリカで、建(けん)国(こく)一〇〇年祭を持ったときに、当時の大統領が日曜学校機(き)関(かん)誌(し)に寄(き)稿(こう)を頼(たの)まれて、「私の日曜学校に対する忠告はこれです。聖書を、あなたの自由の確かな碇(いかり)として堅(かた)く保(たも)ちなさい。聖書の御(み)言(こと)葉(ば)をあなたの心の中に、確かな教えとしてしっかり書き留(と)めなさい。そして聖書の教えをあなたの日々の生活で行いなさい。これこそ、もっとも大切なことである。」と、日曜学校の生徒に書き送った。

  私たちは聖書の教えの中に、厳(きび)しい罪の指(し)摘(てき)を見る。特にロマ書を読んでいくと、「もうこれ以上我慢(がまん)できない」、「それ以上私をつっこまないでください」というほど、心の中をグサッグサッとえぐりとられるような思いをする箇所がある。「神様どうしてあなたは私の隠(かく)れた行(おこな)いまで、ごらんになるのですか。もう少しおおめに見てくださいませんか。」と心の中の嫉妬(しつと)、誰かを許すことができない思い、憎(にく)しみなどの心を、あたかもレーザーで照らすように、あるいは、X光線で照らすように全部くまなく点検される。

  〝なんぢの有(も)てる信(しん)仰(こう)を己(おのれ)みづから神(かみ)の前(まえ)に保(たも)て。善(よ)しとする所(ところ)につきて自(みずか)ら咎(とが)めなき者(もの)は幸福(さいわい)なり。〟       
   ロマ書一四章二二節                  ( 続 く )

 

  ◎ 暗誦聖句   ヤコブ書一章五節
〝汝らの中(うち)もし智慧(ちえ)の缺(か)くる者あらば、咎(とが)むることな く、また惜(お)しむ事(こと)なく、凡(すべ)ての人に與ふ(あたう)る神に求む べし。然(さ)らば與(あた)えられん。 〟

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◆ ロマ書の学び(364)

         ▽ み言葉に生きる


  〝われ汝(なんじ)らに到(いた)るときは、キリストの満(み)ち足(た)れる祝福(しゆくふく)をもて到(いた)らんことを知(し)る。〟
    ロマ書一五章二九節

  クリスチャンになると、神様により頼(たの)むようにはなるが、神様に対して甘えることはない。なぜなら、もし、私たちが「甘え」というものを持つならば、自分の罪というものを認めなくなるからである。それだけではなく、他人の罪に対しては「あなたはこういう事をやった。」「ああいうことをやった」と責めるが、こと自分自身のことになると「みんなやっているから、いいじゃないですか。私の責任ではないですから。」と言って甘えてしまうようになる。でもそれは本来クリスチャンにはできない。「神様ごめんなさい。私はこういう事を間違えました。」と、神様にお詫(わ)びをする。

  福音そのものは、私たちを神様と正しい関係に立たせる。神様の御前(みまえ)に罪をもったままで立つことはできない。神様に「神様。私は自分自身を救うことはできません。私は毎日不安と戦い、病気と闘(たたか)い、お金の事で心配(しんぱい)をし、人間関係で思い煩(わずら)い、いつも自分が傷(きず)つくことを恐(おそ)れています。私は魂の自由を得たいです。」と願うことが必要であるからである。世間体(せけんてい)とか、みんなの目が気になるということはそれだけ、自我(じが)が強いということである。それではある国会議員のように、堂々と大手を振って「私もやりましたから。」と言って肩で風を切って歩くのが良いかというと、そうでもない。

  その犯(おか)した罪は必ず、民数記略の聖句にあるように〝汝の罪は汝の身に及ぶべし。〟(三二章二三節)なのである。各自、蒔(ま)いた種を必ず刈(か)り取らなければならないのだ。私たちが神様を見上げ、神様を自分たちの救い主として仰(あお)ぎ望(のぞ)む時に、自分が本当に弱い人間であると認(みと)めるようになる。

  私の亡(な)くなった兄は、大変若い頃から職業意識、職人気質のある鋳物(いもの)工(こう)であった。父の代からの鋳物工のたたき上げの職人であった。私が何か言うと「フン。俺たちは信仰に頼(たよ)らない。俺が頼るのは自分の腕(うで)しかないんだ。」といつも自慢(じまん)していた。自分の才能、自分の力を過信(かしん)していたのである。

  しかし、この兄もそれから三〇年ぐらい経(た)ってから、ついには自分の心に迫(せま)ってくる罪の問題で、神様を呼(よ)び求(もと)めるに至(いた)った。私たちは、自分たちの力ではできないことを知ることが大事である。〝汝自(みずか)らを知れ〟と、昔の賢人(けんじん)も教えている。神様がくださるところの福音、それは愛に満(み)ちたものである。神の愛を、そして神の憐(あわ)れみを私たちに、もたらすものである。
      (続く)

 

  ◎ 暗誦聖句   ヤコブ書一章五節前半
〝汝らの中(うち)もし智慧(ちえ)の缺(か)くる者あらば、咎(とが)むることな く、また惜(お)しむ事(こと)なく、凡(すべ)ての人に與ふ(あたう)る神に求む べし。然(さ)らば與(あた)えられん。 〟

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