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習志野バプテスト教会の週報

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◆ ロマ書の学び(371)

         ▽ み言葉に生きる


 

  皆さんの中にも経験者がいらっしゃると思うが、ご両親が健在な時に実家(じつか)に行くとお母さんがお嫁(よめ)さんに隠(かく)れるようにして「これ、持って帰りなさい。」といって物をくれる。ところが、いったんお父さんやお母さんが亡(な)くなると、もう実家に帰るという懐(なつ)かしさがなくなる。何か、他人(たにん)の家(いえ)を訪(たず)ねるような感じがしてくるのだ。兄弟は他人(たにん)の始まりというように、私たちはお金が絡(から)んでくると、平和が平和でなくなってしまう。

  昔、私はよく落(らく)語(ご)を聞いた。熊(くま)さん、八(はつ)さんが出てくる長(なが)屋(や)の暮(く)らしの中には、貧(まず)しいけれど和(わ)気(き)あいあいとした庶(しよ)民(みん)の生活があった。落語の世界には、あまり金持ちの話は出てこない。せいぜい、庄(しよう)屋(や)さんがどうのこうのという程度(ていど)だ。ものが十分あれば平和かというとそうではない。

  私はお金とか富(とみ)のことを考える時、有名な俳優や女優の末路(まつろ)が思い浮(う)かぶ。マリリン・モンローは、ケネディ大統領ともスキャンダルのあったアメリカの肉体派の女優であったが、あれだけの名声のあった女優だからさぞかしお金があったろうというとそうではない。最後はみすぼらしく、わずかばかりのお金しか残っていず、自殺をはかって亡(な)くなったという。どんなにちやほやされても、有名でも、お金があっても、人間はそれで心に安らぎをもつわけではない。それにも関(かか)わらず、私たちは口を開けば、「平和」や、「安らぎを求める」と言うのである。

  使徒パウロは、異邦人の中で伝道しながら信仰のない人たちからの迫害(はくがい)から守られるように祈った。そして彼が説(と)き明かすイエス様の福音(ふくいん)が、クリスチャンたちそれぞれに喜んで受け入れられるように、正しい信仰の説(と)き明かしが受け止(と)められるようにと願った。

  さらに三番目に、彼はイエス・キリストの福音が全世界に広められ、人々がまことの神様を礼拝するようにということを中心にした祈りであった。ロマ書一五章の後半において、使徒パウロが書き止(と)めた祈りの基本(きほん)、クリスチャンが毎日の生活の中で何をどのように求めて祈ったらよいのかという基本を、私たちはここで見ることができる。

  パウロの願ったことは、「平和の神が、あなた方すべてと共にいまさんことを。」ということであった。平和の神、神様の平安があなた方すべてと共にあるようにという祈りである。別の場所で使徒パウロは〝平和(へいわ)の福音(ふくいん)の備(そなえ)を靴(くつ)として足(あし)に穿(は)け。〟(エペソ六章一五節)と書いている。これは、私たちの行く先々で、自分がどこに行くにしても使徒として、平和のメッセンジャーとして神様の福音を伝えるように、ということである。(続)

  ◎  暗誦聖句   マタイ伝二四章八節
 〝此(これ)等(ら)は みな 産(うみ)の苦難(くるしみ)の 始(はじめ)なり。 〟

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◆ ロマ書の学び(370)

         ▽ み言葉に生きる


  〝心(こころ)に貧(むさぼ)る者(もの)は爭端(あらそい)を起(おこ)し ヱホバに倚(より)賴(たの)むものは豊饒(ゆたか)になるべし〟
                 箴言二八章二五節

  一九一九年、ヨーロッパ諸国で二〇〇余りの条約が締結(ていけつ)された。しかし、それらの条約が守られたのは、わずか二年間であったという。どの条約も、お互いの国の代表者が「守ります。」とサインを交(か)わしたが、一〇年、二〇年と続くことはなく、わずか二年で反故(ほご)になってしまったというのだ。どんなに人間が約束し合っても、それは簡単に破られてしまうということだ。これから結婚しようという皆さんは、気をつけて欲しい。結婚の時の約束は破られやすいものである。

  私たちは、心の安らぎを求める。以前、女性の身でありながら大変精力的に動いておられた元外務大臣の川口さんの活躍ぶりをテレビで見る度(たび)に「すごい人だな」と思った。昼に、イスラエル地方に行ってアラファト議長と会談したかと思えば、同じ日の夜中には、アメリカに出発前のシャロン首相と少し話をするという。

  しかし、出発前の空港でちょっと話しをしただけで、あれだけこんがらがってしまったイスラエルとアラブ諸国の平和を、日本がしゃしゃり出て何ができるだろうかと思う。日本が外交の場に出て行くとき、たいてい多額(たがく)のお金を「支援」という形で払わされている。しかもそのお金は、国民が払っている税金から出ているのだ。

  日本はO.D.A.という形でも中国に莫大(ばくだい)なお金をつぎ込んでいる。ロシアに対しても、パキスタンやアフガニスタン、インドなどあちこちにお金をばら撒(ま)いている。しかし、それにも関(かか)わらず、日本は全(まつた)く平和に貢献(こうけん)していないのと同じなのである。その理由は簡単、平和はお金で買えないものだからである。

  それが証拠(しようこ)に、皆さんの周(まわ)りにいる大豪邸(だいごうてい)に住(す)む人たちの家庭が、平和そのものかというとそうではない。遺(い)産(さん)相(そう)続(ぞく)でもめてしまう。親が生きている間はいいが、親が亡(な)くなると、子供たちの間で遺産相続の争いが絶(た)えないということがよくある。

  銀座の四つ角(よつかど)に線香(せんこう)で有名なK店があるが、そこはかつて日本中のマスコミを大騒(さわ)ぎさせた遺産相続の争いで有名な家庭だ。銀座四丁目は日本一地価の高い場所だから、あの土地だけでも大変な金額になる。その土地をめぐって、遺産相続の血みどろの戦いが繰(く)り広げられたのだ。                      ( 続 く )

  ◎ 暗誦聖句 コリント前書一章九節
〝汝(なんじ)らを召(め)して其(そ)の子(こ)われらの主(しゆ)イエス・キリストの交際(まじわり)に入(い)らしめ給(たも)う神(かみ)は眞實(まこと)なる哉(かな)。 〟

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◆ ロマ書の学び(369)

         ▽ み言葉に生きる


  イエス様が山上の説教の中でお話になった〝まづ神(かみ)の國(くに)と神(かみ)の義(ぎ)とを求(もと)めよ。 〟(マタイ伝六章三三節)ということは、『あなた方に平安があるように。』とか、『あなた方が幸福になるように。生活が中程度から上級クラスになるように。』ということをおっしゃったのではない。

  イエス様は「まず」とおっしゃった。「まず」というのは、「何をさしおいても」「第一になすべきことは」ということである。イエス様は「神様のご支配下さる御(み)国(くに)と、神様の正しさ、正義とを求めて生きなさい。そうするならば、あなたが今思い煩(わずら)っている生活の色々な問題は、必ず解決されます。」とおっしゃったのである。

  私たちは毎日のように、新聞、テレビ、パソコン、あるいは読み物などを通して、さまざまな人たちの話やタレントの意見などを見聞きする。私が子供の頃はテレビもテープレコーダーもなかったから、目から入る読み物、耳から入るラジオしか情報を得ることはできなかった。現在では、テレビをはじめマスコミの情報がこれでもかこれでもかという具合にどんどんと入ってくる。自分たちがよほど注意しなければ宣伝の波に流されてしまう。

  教会にも毎週のように旅行会社であるとか、インターネットの会社、また電話工事の会社からセールスの電話が入ってくる。最近では昼間ではなく、夕食時の六時半から八時頃を狙(ねら)ってかけてくる。一体なんだろうと思って電話に出てみると、それがセールスなのである。他人の迷惑(めいわく)も考えないことに腹(はら)が立つが、電話一本で大きな仕事を取ろうと思うところもどうかと思う。仕事が欲(ほ)しければ、出向(でむ)いてちゃんと説明をし、納得(なつとく)させるのが筋(すじ)ではないか。私たち家族は、電話での商品は一切買わないことにしている。顔の見えない商売は怖(こわ)い。

  インターネットも危(あぶ)ない。インターネットで何か商売をしている方は、特に気をつけて頂きたい。インターネット犯罪はこのところ増加している。時には、買った覚(おぼ)えがない物の請求をされたり、請求書の中に他人の支払い分まで加えられていたりするケースもあるらしい。インターネットはいいようで悪い。規制(きせい)をしても、その規制の網(あみ)をかいくぐってさらに悪いことをする。その防止のためにまた、法律を作る。それはまるで「いたちごっこ」である。

  人間の社会において、法律による安全は買うことができない。私たちは人間の社会は法律や約束事(やくそくごと)によって全(すべ)てが支配されていると考えやすい。ところが実際はそうではない。

 

  ◎ 暗誦聖句 コリント前書一章九節
〝汝(なんじ)らを召(め)して其(そ)の子(こ)われらの主(しゆ)イエス・キリストの交際(まじわり)に入(い)らしめ給(たも)う神(かみ)は眞實(まこと)なる哉(かな)。 〟

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◆ ロマ書の学び(368)

         ▽ み言葉に生きる


  〝兄(きよう)弟(だい)よ、我(われ)らの主(しゆ)イエス・キリストにより、また御靈(みたま)の愛(あい)によりて汝(なんじ)らに勸(すす)む、なんぢらの祈(いの)りのうちに、我(われ)とともに力(ちから)を盡(つく)して我(わ)がために神(かみ)に祈(いの)れ。これユダヤにおる從(したが)わぬ者(もの)の中(うち)より我(わ)が救(すく)われ、またエルサレムに対(たい)する我(わ)が務(つとめ)の聖(せい)徒(と)の心(こころ)に適(かな)い、かつ神(かみ)の御(み)意(こころ)により、歡喜(よろこび)をもて汝(なんじ)等(ら)にいたり、共(とも)に安(やす)んぜん為(ため)なり。願(ねが)わくは平(へい)和(わ)の神(かみ)なんぢら衆(すべて)と偕(とも)に在(いま)さんことを、アァメン。〟
 ロマ書一五章三〇~三三節

  使徒パウロは、ローマにいるクリスチャンたちに対してこの書簡を送った。彼が強調したところは、クリスチャンたちそれぞれが神様の御(み)栄(さか)えのため、イエス・キリストの御名のゆえに日々歩みまた信仰生活を全(まつと)うしていくように、ということであった。

  最近、さまざまなキリスト教関係の書籍を読んだり、宣教に関する雑誌やプリントなどを手にして読む時に、少々違(い)和(わ)感(かん)を感じることがある。残念なことに、その文書の大半が、実は人間的な観点にたって書かれている。自分の教会、自分の教派、宣教団体など「自分たちの働き」そのものの拡張であったり、「自分たちの団体の名誉のため」ということが際(きわ)立(だ)って目立つ時代となっているからである。この一〇数年間、いろいろなものを読んでいてその傾向はますます強くなってきていると感じる。

  それにひきかえロマ書を読むと、使徒パウロは全く違っていたことがわかる。使徒パウロ自身の異邦人伝道の最大の眼目(がんもく)は宣教師としての彼の働きが拡張することや、パウロ自身の名声ではなかった。自己的な主張、自己的な働きの拡張ということは一切(いつさい)抜(ぬ)きにして、パウロのめざしたところは、ひらすら「イエス・キリストの御名(みな)があがめられ、人々がまことの神様を礼拝し、全ての人が全能の神様の前にひれ伏し、お仕(つか)えする」という大きな目標であった。

  私たちは「救い」というと、自分の生活の安定であるとか、あるいは「人並(ひとなみ)みに必要が満(み)たされて人並みの家が持てて人並みの家庭生活が営(いとな)めるとか、これが自分のささやかな願いである。」ということをよく聞く。けれども信仰において、私たちはそうした人並みの云(うん)々(ぬん)ということではなく、いつも自分たちの目(め)指(ざ)すところは、全(すべ)てのものをおつくり下さった創造主である真理(しんり)の神様を礼拝し、真(まこと)の神様の御栄(みさか)えのために私たちが生(い)かされるということである。(続く)

 

  ◎暗誦聖句 ヘブル書四章一五節
〝我(われ)らの大(だい)祭(さい)司(し)は我(われ)らの弱(よわき)を思(おも)い遣(や)る こと能(あた)はぬ者(もの)にあらず 〟

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