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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(374)

         ▽ み言葉に生きる


  仮に皆さんが、頭が痛い、お腹が痛いというので時間外に病院に行くと、病院は閉(し)まっている。よほど、救急病院でないと扱(あつか)ってくれない。かと思うと、町医者はドアを閉めた後、晩(ばん)酌(しやく)をし、ぐでんぐでんに酔(よ)っ払(ぱら)ってぜんぜん診察(しんさつ)ができないということがある。ところが牧師はそうはいかない。もちろん私たちはお酒は飲まないが、夜中であろうと朝早くであろうと、何時でも電話が入ってくる。即、対応しなければならない。

  何も牧師や伝道者だけがそういう生活だというのではないが、私たちには絶(た)えず外からくる色々な障害物と戦い、内側に起こってくる自分自身との戦いがある。正しい目当てを持たないと、私たちは心の平静さをすぐ失ってしまう。

  使徒パウロは大きな迫害を受けた中にあって、彼の目当(めあ)ては、イエス様の御(み)名(な)があがめられるように、神様の御(み)心(こころ)がなされるように、ということであった。イスラエルでは今でも、朝、道で誰かに出会うと「シャローム。」という言葉であいさつを交(か)わす。旧約聖書の中で、まことの神様は〝シャローム〟イコール「平和なる神様でいらっしゃる。」ということだ。

  中国語で「おはようございます。」は「平安」と書いて「ピンアン」と言う。韓国語でも「安寧」と漢字で書いて「アニハセヨ」と言う。日本語はただ「おはよう。」「お早いですね。」と言うだけで、平安があるようにとか、気持ちに祈りが入っていない。

  言葉はその国の感情を現(あらわ)すように思う。イスラエルの国の人たちが「シャローム」という言葉を口に出すように…。しかしそのイスラエルの国は、歴史を通して本当の平和はごくわずかな年しかなかった。平和の君であるイエス様を拒(こば)み続けているイスラエルに、まことの平和はまだ来ない。

  〝此(これ)等(ら)のことを汝(なんじ)らに語(かた)りたるは、汝(なんじ)ら我(われ)に在(あ)りて平(へい)安(あん)を得(え)んが爲(ため)なり。なんぢら世(よ)にありては患難(なやみ)あり、されど雄(お)々(お)しかれ。我(われ)すでに世(よ)に勝(か)てり』〟           ヨハネ伝一六章三三節

  もう、イエス様はご存知なのである。あなたが今、どんな苦しみを持っているか、あなたの生活の中にどんな問題があるか、イエス様はよくご存知でいらっしゃる。「世にあっては悩みがある。けれどもあなたが私を見上げ、私を心に迎えていくならば、必ず私にあって平安が与えられる。」と、イエス様はおっしゃっられた。聖歌二二三番の〝Rock of age〟(『とこよの岩よ』)は、大嵐に遭(そう)遇(ぐう)した旅人が、大きな岩(いわ)陰(かげ)に身を隠(かく)して嵐を避けた時にできた、と言われている。                   ( 続 く )

  ◎ 暗誦聖句 コリント後書 五章一七節

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◆ ロマ書の学び(373)

         ▽ み言葉に生きる


  〝自己(おのれ)を人(ひと)と異(こと)にする者(もの)は自己の欲(ほつ)するところのみを求(もと)めてすべての善(よ)き考察(かんがえ)にもとる。〟                   箴言一八章一節 前にご紹介したことのあるキャンベル・モルガンの注解書の中にこういうのがあった。「信仰のない人は、他の信仰のない人を見る時(とき)に、何を考えるか?」答えは「一体、この人は私にとってどんな得(とく)になる人間かな。」と考えるという、うがった見方(みかた)をする。それを考えると何だかゾッとする。

  誰かに出会(であ)うたびに「この人間は私にとってどういう利用価値があるかなあ。」と思われていると思うと、あまり気持ちのいいものではない。でも、それは確(たし)かに人間関係の一面を表していると思う。

  仮(かり)に、粗末(そまつ)な服装をした人がKさんの家を訪ねたとしたら、その人はどんな扱(あつか)いを受けるだろうか。Kさんは、粗末な格好(かつこう)で訪(たず)ねて来た人を重要視するよりも追(お)っ払(ぱら)いたいという気持ちが先に立つだろう。

  また逆(ぎやく)に、Kさんが立派な家に住み、立派な車を持ち、素(す)晴(ばら)しい洋服を着ていたとしたら「この人と友達になったら、どんな利用価値があるだろうか。」と考えられるだろう。私たちは誰かと出会う時に、いつもそうやって利用価値があるかどうかを推(お)しはかられることがあるのだ。自分自身の心の内側には戦いがある。自分の「欲望」が、自分の歩(あゆ)みを踏(ふ)み外(はず)させるということがある。

  伝道者の生活の中には、嬉(うれ)しいこと、辛(つら)いこと、嫌(いや)なことと色々ある。喜びで満(み)たされたかと思うと、突然のように暗い、悲しい出来事がある。私たちは絶(た)えずそうした激(はげ)しい嵐の中に揉(も)まれた状態にある。そして多くの伝道者が疲(つか)れ果(は)てて伝道をやめてしまう時がある。

  スポルジョンというバプテストの有名な伝道者は、このことを「伝道者の落胆(らくたん)病(びよう)」と言った。毎日、一生懸命に伝道をしている伝道者が、突然「ああ、もう疲れた。私は伝道できない。」と言って伝道をストップしてしまうことが起こりうるのだ。「大半の伝道者がそういう経験をする。」とスポルジョンは若い伝道者の前で述べた。ということは、毎日毎日神様の御(み)言(ことば)を勉強している伝道者でさえ、激(はげ)しい戦いの中にあって目標(もくひよう)を見失うと、心の安らぎを見(み)失(うしな)うと定義しているのだ。

  「牧師になるといいねぇ。毎日聖書を勉強し、毎日聖書をあちこちでお話して…。」こう言われるのはまだ良いほうで、悪い見方をする人は「牧師はいいなあ。一週間に一回だけ、月に四回礼拝でお話して、それで生活できるんだから、こんな楽(らく)な仕事はないなあ。」ということを口にする。しかし、牧師は身体の病気を治す医者以上に一年中、四六時中、休みのない働きである。(続)

 

  ◎ 暗誦聖句 コリント前書一章一八節
〝それ十字架の言は亡ぶる者には愚(おろか)なれど、救わるる 我らには神の能力(ちから)なり。 〟

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◆ ロマ書の学び(372)

         ▽ み言葉に生きる


  〝幸福(さいわい)なるかな、平和(へいわ)ならしむる者(もの)。その人(ひと)は神(かみ)の子(こ)と稱(とな)へられん〟       マタイ伝五章九節

  人間の歴史を通して、私たちには本当に平和な時代というものはなかった。どこかで争(あらそ)いがあり、どこかで貧しさのために飢(う)えて死んでいく人たちがいる。私たち人間は、たいへん感情的な生(い)き物だ。テレビの画面で、貧しさと飢えで干(ひ)からびて骸(がい)骨(こつ)のようになった北朝鮮の赤ちゃんを見たりすると、胸がしめつけられて「ああ、何かしなければいけない。」と思い、アフガニスタンの飢えかわいた魂を見ると「何かしなければいけない。」と思う。しかし、そうした映像に心動かされて何かを提供(ていきよう)すればそれで済(す)むかといえば、そうではない。

  皆さんは子供の頃「一回にたくさんのご馳走(ちそう)を食べて、一週間食べずに過(す)ごせたらいいなあ。」とか、「一日二四時間寝(ね)て、あとは寝ないで過(す)ごせたらいいなあ。」などとお考えになったことはないだろうか。しかし残念なことに、「寝だめ」「食べだめ」はできないらしい。それと同じように、気の毒だと思って一時的に何か物を送ってあげても、それで事が終わるわけではない。もっと根本的(こんぽんてき)な治療(ちりよう)、根本的いやしの過程(かてい)をしなければならない。

  私たちはマタイ伝の中で「物(もの)乞(ご)い」について考える。物乞いに来る人たちに食べ物を与(あた)えていいか、という問題を扱(あつか)うことがある。先(せん)だってもお話したように、サンフランシスコでいい若者がダンボールに「何か恵んでください。」と書いて、街中(まちなか)に座(すわ)っている。アメリカはいくらでも働(はたら)くことができる。それなのに、人の善(ぜん)意(い)に媚(こ)びへつらい、お金を恵んで欲(ほ)しいという。その人たちにお金を恵んだら、彼らは真面目(まじめ)に働(はたら)くかといえば、そうではない。

  私たちには心の平安、安(やす)らぎが必要(ひつよう)だ。誰でも心の内側にある戦いと、人間の外側から来る戦いがある。子供の頃、私は父親にこう言われた。「男は一旦(いつたん)外(そと)に出ると、七人の敵(てき)があると思え!」と。それを聞いた私は、「へえーっ、そんなに敵がいるの?」とびっくりした。どこから七人の敵が攻めてくるかわからないという訳(わけ)だ。「七人の敵」とは、よく言ったものである。「七人の侍」という映画もあったが、日本人も「七」という数字が好きなようだ。

  聖書の中で「七」は完全数だが、それと全く別の観点から、聖書とは関係なく「七人の敵」と言ったのであろう。かつての日本は、男が外に出て働き、給料をもらって家に帰ってくるという生活であったから「男は外に出たら、七人の敵がいる。」という訳(わけ)だったのであろう。

 

 ◎ 暗誦聖句 ピリピ書二章五節

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