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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(383)

         ▽ み言葉に生きる


  〝 プリスカとアクラとに安否(あんぴ)を問(と)へ、彼(かれ)らはキリスト・イエスに在(あ)る我(わ)が同勞者(どうろうしや)にして、わが生命(いのち)のために己(おのれ)の首(くび)をも惜(お)しまざりき。彼(かれ)らに感謝(かんしや)するは、ただ我(われ)のみならず、異邦人(いほうじん)の諸教會(しよきようかい)もまた然(しか)り。〟
      ロマ書一六章三~四節

  プリスカとアクラは旅人をもてなす事においてたいへん優(すぐ)れた働きをしていたようだ。パウロは伝道のさなかに迫害を受け、時には石で打たれ、時にはムチで打たれ傷だらけになった。疲れきって傷ついた伝道者パウロを手厚く看護し、世話をしたのがプリスカという女性であった。

  しかも、このプリスカはイエス様を大変愛し、神様に仕えることを喜びとしていたので、ご主人の世話をするかたわら、パウロの世話をし、さらに聖書を一生懸命に勉強した。また、御言葉の学びと同時に自分の家を開放したのである。自分の家を開放するというのは大変なことだと思う。

  大きな家ならば雑物を片付けて一つの部屋を集会に使うことができよう。しかし、よほど経済的に恵まれていなければ大きなリビングルームをとることができないので、絶えず集会を持てるように家を整頓することは主婦としては大変な労苦であろう。

  流山でもカクラン先生が集会所を一緒に使っていらっしゃる。皆さんはあまり感じないかも知れないが、私は申し訳ないなと思う。生活するということは、皆さんも思いあたるだろうが、買い物や本などを、あっちこちにポンと置いたりする。しかし集会に使うとなると、そこはいつも空(あ)けておき、綺麗にしておかなければならないので気をつかう。

  「家庭集会の場を提供してほしい」と、伝道部会の人がお願いしてもほとんど誰も手を挙げない。理由は、「うちはちらかっているから。狭いから。片づけが大変だから。」である。「たまに家庭集会をやってもらうといいです、綺麗(きれい)になって。」などと言うのはご主人だけ、奥さんはそうは言わない。家を開放して集会を持つのは主婦にとって大きな負担であろう。にも関わらず、アクラとプリスカは喜んで自分の家を開放し家の教会を持った。彼らは行く先々で同じ事をやったようである。               ( 続 く )

 

  ◎暗誦聖句   詩篇二七篇一〇節
〝わが父母われをすつるとも、エホバ(主)われを迎えたまわん〟

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◆ ロマ書の学び(382)

         ▽ み言葉に生きる


  〝我(われ)ケンクレヤの教會(きようかい)の執事(しつじ)なる我(われ)らの姉妹(しまい)フィベを汝(なんじ)らに薦(すす)む。…彼(女)は早(はや)くより多(おお)くの人(ひと)の保護者(ほごしや)また我(わ)が保護者たり。〟
ロマ書一六章一~二節

  このフィーべという女性は、使徒パウロの働きを陰(かげ)になり日なたになり、よく手伝った。今日のように交通が盛んな時代ではないので、旅行者にとっては当然必要なものが出てくる。パウロが伝道旅行をする時、暑い日には下着を二回三回と取り替(か)えるが、その洗濯を誰がやったのであろうか。パウロが説教の合間をぬって毎日洗濯をしたのだろうか。それは男性の模範(もはん)になるかもしれないが、まわりの女性が「先生私がやります。」と声を掛ける、これも大事な心構(がま)えであろう。

  感謝なことに、私たちの教会では毎週月曜日に数人の女性が来て、会堂やトイレの掃除、タオルや来客のシーツ、台所の汚れ物などを整理したり洗ったりしてくださっている。多くの人が日曜日にトイレ、台所を使い、汚(よご)しっぱなしで帰る。目立たないことだが、毎週数名の女性たちが片づけをし、掃除をしてくださっている。神様を礼拝する会堂をいつも清潔に保つことは大切な奉仕である。

  ケンクレアというのはコリントの町から数マイル離れた所にあった港町だといわれている。二番目にみる人物アクラとプリスキラは、使徒行伝一八章に出てくる。だんだんその名前の出る順序が入れ替(か)わってゆく。アクラは男性、プリスキラは女性である。ロマ書一六章三節ではプリスカ(=プリスキラ)とアクラと順序が変わっている。なぜ順序が入れ替(か)わったのだろうか。

  アクラは天幕を作るのが生業(せいぎよう)だった。特に、学者あるいは知的な人物はこの時代、天幕を作るのが良く知られた仕事であったと言われている。使徒パウロもまたテントを作って生計を立てていた。男性は仕事に取りかかると他のことができない。途中で手を休めると仕事がはかどらず、生計を立てる事がむずかしくなる。もちろん、女性がヒマだというのではない。女性もまた忙しく働いている。日本の交通事故の賠償では、家庭の主婦は二五~二八万円の補償が取れるとか。主婦の賃金換算はそういう額である。だからご主人方、奥さんに向かって「家にいて何もしないでいいなあ。」などと言わないでいただきたい。ご主人は助けられていると思ってほしい。  (続く)

 

 ◎ 暗誦聖句  詩篇二七篇一〇節
〝わが父母われをすつるとも、エホバ(主)われを迎えたまわん〟

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◆ ロマ書の学び(381)

        ▽ み言葉に生きる


  〝我(われ)ケンクレヤの教會(きようかい)の執事(しつじ)なる我(われ)らの姉妹(しまい)フィベを汝(なんじ)らに薦(すす)む。なんぢら主(しゆ)にありて聖徒(せいと)たるに相應(ふさわ)しく彼(女)を容(い)れ、何(なに)にても其(そ)の要(よう)する所(ところ)を助(たす)けよ、彼(かれ)は早(はや)くより多(おお)くの人(ひと)の保護者(ほごしや)また我(わ)が保護(ほご)者(しや)たり。〟
     ロマ書一六章一~二節

  特に使徒時代は、貧しいクリスチャンが多く、健康の良くない人や、言葉があまり通じない人もいた。ある程度余裕(よゆう)のある人は、教会に来るとき自分のお弁当以上に食べ物を用意してきて、食事を用意できない人に分配することがあったようである。特に、使徒行伝のはじめの方には、持てる者が皆持ち寄って教会で分け合ったと書いてある。私たちは毎月ミッション・プレートをおこない出来るだけ多くの皆さんが同じ食事にあずかるように、そしてその献金を海外宣教にささげている。

  使徒時代、男性と女性がはっきり区別され、それが社会的要因になったということは否定できない。東南アジアのインド、パキスタン、バングラデシュあるいはマレーシアなどの教会に行くとはっきりと男女が分かれている。バングラデシュの教会でも椅子を使わないでゴザを敷いて座っているが、片側は男性ばかりである。どこの国でも女性が多く、半分以上のスペースに頭を白い布でおおった女性があぐらをかき、スカートで膝を覆(おお)い、礼拝を守っている。日本でも教会によっては男性の席と女性の席が分かれているが、私たちの教会は、自由に座っていただいている。

  男性は女性とあまり口をきかない。特にユダヤ人の間では、ヨハネ伝四章をみると分かるようにサマリヤの女性は夕方、人の目につかない時間に水を汲(く)みに行った。しかも、ユダヤ人の男性が見ず知らずの女性に口をきくことはあり得ないことだったということが分かる。彼女は驚いてイエス様と話を始めていくわけだが、そういう時代であるから婦人が女性の頭(かしら)(リーダー)に、男性は男性の頭(かしら)についたわけである。そこで、信仰の厚い、しかも仕える気持ちの強い人々が教会に仕えたようである。日本ではある団体、またこうした奉仕グループでは奉仕女(め)とか仕(つか)え女(め)とか呼んでいるようだ。 (続く)

 

◎ 暗誦聖句  詩篇九一篇四節
〝かれその羽(はね)をもて汝を庇(おお)い給(たま)わん。汝その翼(つばさ)の 下に隠(かく)れん。 〟

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◆ ロマ書の学び(380)

         ▽ み言葉に生きる


  〝我(われ)ケンクレヤの教會(きようかい)の執事(しつじ)なる我(われ)らの姉妹(しまい)フィベを汝(なんじ)らに薦(すす)む。なんぢら主(しゆ)にありて聖徒(せいと)たるに相應(ふさわ)しく彼(かれ)を容(い)れ、何(なに)にても其(そ)の要(よう)する所(ところ)を助(たす)けよ、彼(かれ)は早(はや)くより多(おお)くの人(ひと)の保護者(ほごしや)また我(わ)が保護(ほご)者(しや)たり。〟
    ロマ書一六章一~二節

  英語と日本語、また新改訳と文語体とを比らべてみると、少しだけ名前の読み方が違う。たとえば、フィベは、最初英語で読むとPhoebe、フォエベなどと読んでしまう。日本語の聖書はどちらかというとギリシャ語、原語に近い発音とかで、英語のほうは英語的な読み方のようである。また、日本語ではプリスカとアクラと発音しているが、英語ではプリシラそしてアキュラになっている。アキュラは日本にもあきらという名前があるので覚えやすいが。日本語のエパネトは、エペネタスとなっている。

  ところで、皆さんは聖書の中の大切な出来事の中には、名前が出ている場合と出ていない場合があることにお気づきだろうか。例えば、イエス様に五つのパンと二匹の魚を差し上げたあの男の子の名前は聖書に出てこない。特に名前の書いていないところには、霊的な適用として自分の名前を入れることが大事だと思う。

  例えば、五つのパンと二匹の魚を提供した少年に私の名前を入れる。ロマ書一六章一節のフィーべははっきりと名前が、ここに書いてあるが、ケンクレアの教会の執事であったと書いてある。私たちの教会でも神様に祈って女性執事を与えられている。

  執事(英語でディーコン)とは仕(つか)える者、サーバントと同じ意味である。群れの上に立つ者ではなく、病んでいる魂、傷ついた者をうしろから押し上げ、手当てをしながら行列から脱落しないように支えていく者のことをさす。また、使徒行伝では不公平の出ないように食べ物を配ったり手伝うという記事の所に出てくる。執事という働きのため、「教会において自分たちも執事の働きができるように訓練を与えてください。」と祈っていただきたい。聖書が示す執事の働きは、自分たちが計画して皆さんに働いてもらうように命令するのではなく、まず自分たちが率先(そつせん)して仕(つか)えることではないだろうか。                  ( 続 く )

 

  ◎ 暗誦聖句  詩篇八四篇一〇節
〝 なんぢの大庭(おおにわ)にすまう一(いち)日(にち)は千日にもまされり〟

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