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習志野バプテスト教会の週報

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◆ ロマ書の学び(387)

         ▽ み言葉に生きる


  〝わが兄弟(きようだい)よ、人(ひと)みづから信仰(しんこう)ありと言(い)いて、もし行爲(おこない)なくば何(なに)の益(えき)かあらん、かかる信仰(しんこう)は彼(かれ)を救(すく)い得(え)んや。…靈魂(たましい)なき體(からだ)の死(し)にたる者(もの)なるが如(ごと)く、行爲(おこない)なき信仰(しんこう)も死(し)にたるものなり。〟
   ヤコブ書二章一四、二六節

  旧約聖書のイザヤ書五五章一、二節をご覧いただきたい。神様の救いはこれをみても分かるように「ただ」(=無料)なのである。ところが、同じ聖書の中でヤコブ書二章一四節と二六節を見ると、〝もし行(おこな)いなくば〟〝行いなき信仰も死にたるものなり〟と書かれている。

  私たちが教会の皆さんに対して祈ることは、日曜だけでなく、月曜も火曜も一週間を通して毎日教会に心を向けるようにということである。同時に、日曜日に礼拝に来るだけではなく、もちろん来るのは大変だと思うが、救われた後、毎日の生活の中で喜んで神様にお仕えする、ということである。働きのない信仰は信仰ではないとヤコブが言っているように、信仰の実を結ぶ事ができるようにしていただきたいと思う。

  以前、牧師館の駐車場の脇に私は一本の藤を植えた。藤は盆栽で、ちょうど五〇cm位の丈で見事に咲いていた。A兄の母堂が大事にしていたものをいただいたのである。直(じか)植えしたら幹が太くなり、切っても切ってもつるが延(の)びた。やたらと切ったら花が咲かず、その代わりに夏の暑い日に葉が茂り日陰をつくった。

  しかし、私は日陰を作るために植えたのではない。綺麗な花を見たいと思い、植木屋に剪定(せんてい)してもらったが咲かない。ある年、近くの家で藤を綺麗(きれい)に咲かせている方が「私が切ってみましょう。」と剪定してくださり、それ以降、毎年見事に咲くようになった。

  クリスチャンも同じなのである。ブドーの木の葉っぱばかりが青々と茂(しげ)るのも良いかも知れないが、本来の目的はブドーの葉ではなく、実をとりたいのである。神様はクリスチャンとしてクリスチャンの証(あかし)の実を見たいと望んでいらっしゃる。そして、その証を見て、誰かがイエス・キリストを信じるという魂の救いを経験すること。それこそが、神様が望んでいらっしゃるクリスチャン一人一人の証の実ではないだろうか。

  一人一人の祈りと奉仕と証によって未信者だったご主人や子供たちが、更に知人がイエス様を信じるようになる。これが本来の「実」ではないだろうか。(続く)□

 

  ◎暗誦聖句 詩篇三二篇一〇節
〝惡者(あしきもの)はかなしみ多(おお)かれど、主(しゆ)に依賴(よりたの)むものは憐憫(あわれみ)にてかこまれん 〟

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◆ ロマ書の学び(386)

         ▽ み言葉に生きる


  〝なにゆゑ糧(かて)にもあらぬもののために金(かね)をいだし、飽(あく)ことを得(え)ざるもののために勞(ろう)するや。われに聽(きき)從(したが)え、さらばなんぢらよき物(もの)を食(く)らうをえ、脂(あぶら)をもてその靈魂(たましい)をたのしまするを得(え)ん〟
            イザヤ書五五章一~二節

  教会には、多種多様な奉仕がある。最近は土曜日の奉仕者が少ないので、伝道者が汗を流して聖日の準備をしている。しかし、できれば月曜日の奉仕者だけでなく、土曜日にお休みがある人は、土曜日に奉仕に来ていただきたい。一時間でも二時間でも、日曜日の準備に加わっていただきたいと思う。もちろん、そうしなければ救いを失うという意味ではない。救いが自分の働きによって得たものではない、ということはもう一度確認していただきたい。しかし、それは「イエス様を信じて救われたら、何もしないで良い。」ということではない。私たちは、救われた後に、感謝の思いで神様にお仕えするのだ。それが奉仕である。

  奥さんたちの中には、ご主人に対してあまり愛情を持っていないけれど、ご主人のために食事を用意しないとうるさいからと食事の準備をすることがあるかもしれない。うるさいからと強制的にやる時、あまり美味(おい)しいご馳走は出来ないであろう。心を込めてご主人のために料理を作れば、一品でも二品でもご主人は喜んで食べ、疲れがふきとんでしまう気持ちになることだろう。一方、奥さんが「ほら、お茶。」などと荒っぽい態度をとれば、「何を怒っているんだ、お前。」となり、楽しい食事が楽しくなくなってしまう。

  〝すこしの物を有(もち)てエホバを畏(おそ)るるは多くの宝をもち て煩(わずら)いあるに愈(まさ)る。野菜を食(くら)いて互いに愛する は、肥(こ)えたる牛を食いて互いに恨(うら)むるに愈(まさ)る。〟
     箴言一五章一六、一七節

  〝睦(むつま)じうして一(ひと)塊(かたまり)の乾(かわ)けるパンあるは、あら そいありて宰(ほふ)れる獣(けもの)のみちたる家に愈(まさ)る。〟
         箴言一七章一節

  箴言(しんげん)には貧富の差が描かれている。肉のある家庭というのはお金持ち、野菜を食べるのは貧しい家庭である。肉のある食卓よりも野菜しか食べられない貧しい家庭であっても、愛情と信仰があるところには喜びが満ちた家庭であると描かれている。 神様に対する奉仕も同じである。強制されたり、そうしなければならないという教え、あるいは働きによって救われるというのは、聖書の救いではない。 ( 続 く )

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇三一篇三節A
〝 なんぢはわが磐(いわ)わが城(しろ)なり 〟

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◆ ロマ書の学び(385)

         ▽ み言葉に生きる


  〝プリスカとアクラとに安否(あんぴ)を問(と)へ、彼(かれ)らはキリスト・イエスに在(あ)る我(わ)が同勞者(どうろうしや)にして、わが生命(いのち)のために己(おのれ)の首(くび)をも惜(お)しまざりき。〟
ロマ書一六章三~四節

  今日、どこの教会においても、牧師や宣教師が孤独な戦いをしている。そして四六時中襲ってくる霊的な戦いと攻撃、あるいは悩む信者の苦悩のために祈っている。そういう時に「牧師、宣教師だけの働き、苦しみではなく、私たちも共に祈り、共に戦いに参加しています。」という一人一人のクリスチャンの励ましの祈りがどれ程大事であるか、痛切に感じている。

  皆さんが伝道者、献身者に大変心をつかってくださっていることを感謝している。誕生日とかクリスマス、あるいは大きな記念日にお祝いくださるのは感謝なことである。しかし、それ以上にお願いしたいことは、毎日の皆さんの祈りの中で伝道者、宣教師のために祈りのとりなしをしていただきたいことだ。

  ここまでフィーベあるいはプリスカとアクラという女性、男性について考えてきた。奉仕する、仕(つか)えるというと「クリスチャンは一所懸命に働かなければならない、奉仕しなければならない。」という強迫観念が襲ってくるのは良くない事だと思う。クリスチャンの奉仕は強制されてするのではなく、心からよろこんでするということが大変大事なことなのである。

  あなたが始発電車に乗り、疲れてもいるので空(す)いている席に座ったとしよう。いくつかの駅を過ぎ、あなたの前に赤ちゃんを背負った婦人がつり革につかまって立った。都合(つごう)が悪いと思い狸(たぬき)寝(ね)入(い)りをする。隣のおばあさんから「チョット、若い人。座席を空けなさいよ。」と言われてから立つのはいやであろう。恥ずかしい。席を立つタイミングは難しい。「ああ、大変だな。」と思ったらスウーっと席を立つ、これがタイミングとして重要である。

  ところが、混雑の車中にこれから五時間あるいは七時間も電車に乗っていかなければならないとしたら、そばにそういう人に立たれると困る。そこで、多分こう聞くと思う、「どちらまで?」。(いやしまった、聞くんじゃなかった。)七時間も立つのだと思うとなかなか空(あ)けにくい。でも、本当に助けてあげたいなあという最初の思いが大事なのではなかろうか。 ( 続 く )

 

  ◎ 暗誦聖句 テモテ後書四章二節
〝 なんぢ御言(みことば)を宣傳(のべつた)えよ、(機(おり)を得(え)るも機(おり)を得(え)ざるも常(つね)に勵(はげ)め、寛容(かんよう)と教誨(おしえ)とを盡(つく)して責(せ)め、戒(いまし)め、勸(すす)めよ。)〟

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◆ ロマ書の学び(384)

         ▽ み言葉に生きる


  〝プリスカとアクラとに安否(あんぴ)を問(と)へ、彼(かれ)らはキリスト・イエスに在(あ)る我(わ)が同勞者(どうろうしや)にして、わが生命(いのち)のために己(おのれ)の首(くび)をも惜(お)しまざりき。〟
 ロマ書一六章三~四節

  パウロの第二次伝道旅行の時、アクラとプリスカにコリントで出会ったことが使徒行伝一八章で見ることができる。もともとこの夫婦はローマに住んでいた。ローマの皇帝クラウディウス(=クラウデオ)(使徒一一章二八節)がローマ市内からユダヤ人を追放したため、彼らはローマを去ってこちらに移り住んだらしい。後にアクラとプリスカはパウロと同行し、エペソに居(きよ)を構えてパウロの伝道活動をお手伝いしたと言われている。

  さらに、この夫婦について考えてみたい。使徒行伝一八章二四節から二六節を見ていただきたい。雄弁なアポロの話のあと、アポロを脇に導いて使徒パウロから学んだ聖書の教えを二人がしっかりとアポロに説いていく。通常ならば能弁なアポロに対して、信者二人で奥行きの深い神様の御言葉を説き明かすというのは出来ないことであろう。しかし、この夫婦の敬虔な態度、信仰の厚い実践的な証というものがアポロの心を低くし、心を開いて神様の御言葉をしっかり学ぶという二人の人格的な影響がにじんでいたのだと思う。

  また、コリント前書一六章一九節を見ると、エペソにおいて彼らは自分の家を開放してイエス様を褒(ほ)めたたえる集会を持っていたということが分かる。使徒パウロは、ロマ書一六章三節において「イエス・キリストによる私の助け手」と呼んでいる。これは大変素晴らしい言葉だと思う。アクラとプリスカの夫婦は本当の意味でパウロの伝道の良き働き手、助け手であり、共同の作業にあたる戦友であったことがわかる。

  信仰生活において一人の戦いは大変厳しい。けれども、脇に誰かがいるということは大変大きな励ましになってくる。出エジプト記を見ると、あのモーセが敵に対して戦いをした時、両手を挙げた。手が疲れてきた時、その手をアロンとフルの二人が両方から支えた。モーセの手が下がるとイスラエルの大軍が負け、モーセの手が挙がるとイスラエルは勝利を収めた。同じように、パウロの伝道生活においてパウロが疲れてきた時、アクラとプリスカがしっかりとパウロを支えたのである。(続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇七七篇二節前半
〝 わが なやみの日に われ 主を たづねまつれり。〟

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