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習志野バプテスト教会の週報

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◆ ロマ書の学び(390)

         ▽ み言葉に生きる


 

〝兄弟よ、われ汝らに勧(すす)む、おおよそ汝らの学びし教(おしへ)に背(そむ)きて分離を生じ、躓(つまづ)きをおこす者に心して之(これ)に遠ざかれ。かかる者は我らの主キリストに事(つか)えず、反(かえ)って己(おの)が腹に事(つか)え、また甘き言(ことば)と媚諂(こびへつらい)とをもて質朴(しつぼく)なる人の心を欺(あざむ)くなり。汝らの従順は凡(すべ)ての人に聞こえたれば、我なんじらの為に喜べり。而(しか)して我が欲する所は汝らが善に智(かしこ)く、悪に疎(うと)からんことなり。平和の神は速(すみや)かにサタンを汝らの足の下に砕(くだ)き給(たも)うべし〟
  ロマ書一六章一七~二〇節
  特に一七節が今回の中心的な学びとなってくる。特に新約聖書の中では「兄弟」とか「姉妹」という言葉が書簡の中に出てくる。かつて、テレビで、競艇、モーターボート・レースのスポンサーであった人が「世界同胞、人類はみな兄弟!」などと宣伝をやっていた。ご記憶の方もいらっしゃると思うが、世界中の人間はみんな兄弟であり姉妹であるという大変美しい表現には違いない。けれどもこの聖書の表現からすると、それは大きな間違いであるということがわかる。神様のお言葉は、決して世界中の人たちが兄弟姉妹であるとは表現していない。イエス様を信じ、救われた人たちだけが神の家族であり、その人たちが兄弟姉妹であるというのだ。

  常識的に考えても、電車に乗っている知らない人に「よう、兄弟!」などと言ったらはじき返されてしまうだろう。兄弟姉妹というのは自分の直接的な家族のことをいう。教会に初めて出席された方は、A兄弟とかK兄弟とか言い合うのを聞いて「この教会はずいぶんと兄弟が多いなあ。」と思われたかもしれない。しかし、実はイエス様を信じて同じ信仰を与えられた人たちのことをさして兄弟、姉妹と呼んでいるのだ。これは、自分たちはイエス様を信じて同じ家族の一員とされたという意味合いを含んでいる。

  『兄弟よ。』使徒パウロはローマにいたクリスチャンたちに対してこうして呼びかけた。「私の愛する兄弟よ。同じ信仰によって救われ、イエス様の十字架を仰(あお)ぎ見て罪赦(ゆる)された、愛する人たちよ。」と呼びかけ、〝われ汝らに勧(すす)む、おおよそ汝らの学びし教(おしえ)に背(そむ)きて分離を生じ…〟と続いていく。信仰は、イエス様の十字架を見上げてその罪が許された、イエス様が私の身代わりになって死んで下さったことを信じ救われた、というだけではない。新約聖書の中ではたびたび「学ぶ」ということを勧(すす)められている。信仰は、毎日毎日成長する過程である。私たちはイエス様を信じたといっても、即、イエス様の全てを理解するわけではない。  (続く)

  ◎ 暗誦聖句 詩篇三七篇五節
〝なんぢの途(みち)を主(しゆ)にゆだねよ 彼(かれ)によりたのまば之(これ)をなしとげ〟

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◆ ロマ書の学び(389)

         ▽ み言葉に生きる


  ロマ書はクリスチャンの信仰の大切な土台として、繰り返し繰り返し読んで学んでいただきたい書簡である。

  私自身、神学校に行く前にもロマ書を何度も読んだ。神学校で講義を受けてもなかなか意味のわからない所がたくさんあった。さらに参考書を読んでも、一番知りたいと思うポイントの説明がどの註解書にもないというもどかしさを覚えていた。アメリカの大学院で講義を受けて、ようやくかなりの部分が薄紙を一枚一枚はがすように「ああ、こういうことだったのか。」という具合にわかってきて喜んだ。

  ロマ書を通して救いのすばらしさ、神様のご計画の偉大さ、さらに私たち異邦人(=イスラエルの民でない者)が神のあわれみのうちに救われたという喜びを深く味わった次第である。この教会でもロマ書はすでに三回ぐらい勉強してきたが、それでもなお私たちはこの内容を把握(はあく)できている訳ではない。折(おり)を見て、少なくとも一年に一回はロマ書を熟読していただきたい。メッセージを聞き直して理解を深めていただけたらと願っている。

  総体的にロマ書全体を通して、クリスチャンの信仰の土台である罪の問題、さらにその罪を赦(ゆる)され異邦人である私たちがどのように神様のあわれみによって神の救いにあずかる事ができたのか。救われてから毎日の生活の中で、神様のみ言葉によって聖(きよ)めていただき、さらに天国というゴールに向かって進んで行く希望を与えられ、神と共に永遠に住まうその時までのゴールを考えてきた。

  このロマ書をまとめていうならば、まず第一に、罪を犯し神様から離れていた人間が、イエス・キリストの十字架を見上げることによって罪を赦され、神様のみ前に一度も罪を犯したことがない者とみなされ、義と認められる「義(ぎ)認(にん)」という用語で表わされる。

  二番目には、イエス様を信じた一人一人は毎日の生活の中で聖書を読み、また聖書のみ言葉を実際の生活の中に適応することによって神様に毎日、清く変(か)えられていくというプロセス、すなわち「聖(せい)化(か)」である。「義認」「聖化」そして三番目は栄光の姿にかえられる「栄(えい)化(か)」である。

  〝彼らはキリスト・イエスに在(あ)る我が同勞者にして
 わが生命のために己の首をも惜しまざりき。〟
       ロマ書一六章三~四節

  ロマ書一六章からの学びで、多くの人の名前が記されており、その働きを考えた。たとえば、女性執事フィーベ、さらにはプリスカとアクラという使徒パウロの伝道を背後から支えた夫婦のことである。

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇三七篇五節
〝なんぢの途(みち)を主(しゆ)にゆだねよ 彼(かれ)によりたのまば之(これ)をなしとげ〟

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◆ ロマ書の学び(388)

         ▽ み言葉に生きる


  〝彼らはキリスト・イエスに在る我が同勞者にしてわが生命のために己の首をも惜まざりき。〟
  ロマ書一六章二~三節

  四〇年程前に日本で伝道なさり、今はアラスカで伝道していらっしゃるサップ宣教師から以前、祈りの手紙がとどいた。中に印象に残る内容があった。

  「私はデービッド・ラブ(ユダヤ教のラビをしていた人で、今はラビを辞(や)めた人)に証をしようとした。するとデービッド兄弟は、じっと私の目を見て『カール。あなたが私に話していること、あなたはそのために死ぬことが出来ますか?喜んで死ぬことが出来ますか?』と聞いてきた。そこで、私は『神様の恵みによって、信じることのために私は喜んで死にます。』と言った。もとラビであった兄弟は『よろしい。ではあなたの言うことに耳を傾けましょう。』と言った。」というのだ。

  私たちは、自分が信じるイエス・キリストの救い、イエス様の救い、そのことのために死ぬことができるか、どうか。フィーベもプリスカもアクラも自分が信じるイエス・キリストの十字架のために命を賭(か)けることが出来た人たちであった。

  イエス様を愛する愛、「イエス様のために、その福音のために私は死ぬことが出来る。」そういう確信があって初めて私たちの証にも力が出てくるし、祈りにも力が出てくるのである。あなたはイエス・キリストの十字架の福音のために命を賭(か)けることができるであろうか? 

  私はそれぞれがイエス様の福音のために命を賭けるという確信を持つことができるように、と切に祈っている。日々、神様の憐(あわ)れみと祝福をいただいて主にお仕(つか)えし、また証を続けることができますように。できるならば、一人でも多くの方をイエス・キリストの救いに導くことができますように。心の頑(かたくな)な友人や家族に対しても愛をもって接し、心から仕え、愛の福音を伝えることができますように、と祈る毎日である。

  〝われら生(い)くるも主(しゆ)のために生(い)き、死(し)ぬるも主(しゆ)のために死(し)ぬ。然(さ)れば生(い)くるも死(し)ぬるも我(われ)らは主(しゆ)の有(もの)なり。〟 
     ロマ書一四章八節

  〝我(われ)キリストと共(とも)に十字架(じゆうじか)につけられたり。最早(もはや)われ生(い)くるにあらず、キリスト我(わ)が内(うち)に在(あ)りて生(い)くるなり。今(いま)われ肉體(にくたい)に在(あ)りて生(い)くるは、我(われ)を愛(あい)して我(わ)がために己(おの)が身(み)を捨(す)て給(たま)いし神(かみ)の子(こ)を信(しん)ずるに由(よ)りて生(い)くるなり。〟
     ガラテヤ書二章二〇節

 

  ◎暗誦聖句 詩篇三七篇三節 前半
〝 主(しゆ)によりたのみて善をおこなえ。〟

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