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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(394)

         ▽ み言葉に生きる


  〝兄弟よ、われ汝らに勧(すす)む、おおよそ汝らの学びし教(おしへ)に背(そむ)きて分離を生じ、躓(つまづ)きをおこす者に心して之(これ)に遠ざかれ。〟        ロマ書一六章一七節   

  皆さんがにぎやかな道を歩いている時に、何人かのこじきが物を欲しがって手を出したとする。「ああ、神は愛だ。私もクリスチャンだから全てのこじきにあげよう。」と言っていてはいくらお金があっても足りない。   

  一〇年以上前に、私がポーランドに行った時のことである。ワルシャワ駅で、私とトルビンスキー牧師は列車に乗って旅する前におやつを食べていた。すると、子供たちが私たちのところへやって来た。そしてその中の一人の子供が、「ちょうだい。」というように手を出した。私はポーランドの状況がよくわからなかったので、トルビンスキー牧師に「あげてもいいですか?」と目で聞いた。すると牧師は、「ノー、ノー。あげたら大変です。」その言葉が終わるか終わらないうちに、どこからやって来たのか多くの子供たちがワーッと集まって来た。   

  トルビンスキー牧師に、「わかりましたか?」と言われてしまった。そんなに多くの子供たちが集まって来ると、とうてい私の持っているお金ではまかないきれるものではない。私ははじめ、ひもじそうな顔をして手を出す子供をかわいそうに思い、内心、ポーランドの牧師にちょっと不満があった。ところがワーッと集まって来た子供たちを見て、「ああ、なるほどな。」と思った。その牧師の説明によると、その子供たちはジプシーの子供たちだそうだ。ジプシーというのは一箇所にとどまらないで、あちらこちら食べ物を求めて歩き回る人たちのことらしい。   

  表面的な愛は、時にはそれがつまずきとなってしまうことがある。仮に私が皆さんに、「これは世界でも数少ない珍しい果物ですから、出来るだけ多くの人に分けてあげます。」と言って、細かく切って配ったとする。何十人かの人にあげることができても、後の人の所までは行き渡らないということになると、もらった人はもうかったと思うだろうが、もらえなかった人は牧師は不公平だと言うだろう。愛と思ってやった行為が、もらえなかった人からすれば不公平だということになる。   

  人間の愛は、しばしば自分の愛する子供、家族にだけ向けられて他の人には行き渡らない。インドで救済活動をしたマザー・テレサを、いかにも愛の深い人だと多くの人があがめる。私たちは彼女の功績は認めるが、しかしそれが全てではない。イエス様の救いは、貧しい人、困っている人たちを助けるだけではなかったからだ。人間の魂のもっと奥底にある飢え渇きというところにまで福音をとどけ、神様の御言葉が浸透していかなければならない。     

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇三七篇三節
〝主(しゆ)によりたのみて善(ぜん)をおこなへ。この國(くに)にとどまり眞實(まこと)をもて糧(かて)とせよ 〟

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◆ ロマ書の学び(393)

         ▽ み言葉に生きる


  〝兄弟よ、われ汝らに勧(すす)む、おおよそ汝らの学びし教(おしへ)に背(そむ)きて分離を生じ、躓(つまづ)きをおこす者に心して之(これ)に遠ざかれ。〟
   ロマ書一六章一七節

  「教え」は、ただ単に聖書を読んだだけで学べるものではない。ロマ書には三つの大きなテーマがあった。①すべての人間は罪人であり、神様から離れた状態である。②その罪人に対して、神様は何とかして人類を救うために方法をお与え下さった。③十字架が唯一の方法であるということである。

  〝それ十字架の言(ことば)は亡(ほろ)ぶる者には愚(おろ)かなれど、救わるる我らには神の能力(ちから)なり〟
 コリント前書一章一八節

  イエス様の十字架を「知る」、「学ぶ」、そしてイエス様の生涯を学ぶことによって私たちが自分の罪を知り、その罪を赦(ゆる)していただく。それだけではなく、神様はたくさんの祝福をご用意下さっているということを学んでいくことが必要である。

  詩篇の中には〝御名(みな)を知る者は〟と書かれている。全知全能の神様のお名前をよく知る人は、神様から豊かな祝福にあずかることができる。ヘブル語で全知全能の神様のことを、「エロヒム」と書く。全世界を統一なさり、また力をもっていらっしゃる尊いお方を意味する。

  あるいは、「エホバ、備(そな)え給う」。神様を信じる人たちが何か困った時に「神様、どうかこれを与えて下さい。」と祈る時、神様は必ずそれを備えて下さるという意味で、ヘブル語では「エホバ・エレ」と書く。「エホバ、備え給う」という言葉は、神様が愛する者を必ず養って下さるという約束である。

  また神様を表わすヘブル語に「エホバ・シャンマ」という表現がある。「エホバ、ここにいます」という意味で、私たちがどこに行っても神様はいつも共にいて下さるお方であるということを表わす。神様が共にいて下さるということは、たとえ私たちがいかだで太平洋を横断しようとして海の中で死にそうになった時でも、神様はすぐそばにいらっしゃる。

  太平洋を一人ぼっちで小さなボートで横断しようとしたイギリスの航海士がいた。彼は星が輝いていれば、夜空をながめていたという。その彼はイギリスを出発する時には、「神などいない。私は無神論者だ。」と言っていた。しかし、夜空を見つめながら太平洋を漂(ただよ)っていた時に、「ああ、やはり神様はいらっしゃるのだ」と、神様を信じるように変えられたといわれている。

  神様は偉大なお力、さらに愛をもって、私や皆さんを守り支(ささ)えて下さるお方である。有名な〝神は愛なり。〟という言葉、しかしこの『神は愛なり』という言葉はそれだけでは多くの誤解(ごかい)を生(う)みやすい一つの聖句であると思う。聖句が悪いと言うのではなく、その受け止め方である。「神は愛だ。だからだれでもいいからそのまま教会に来て、そのまま教会員になって下さい。」というのは決して神の愛ではない。

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇三七篇三節
〝主(しゆ)によりたのみて善(ぜん)をおこなへ。この國(くに)にとどまり眞實(まこと)をもて糧(かて)とせよ 〟

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◆ ロマ書の学び(392)

         ▽ み言葉に生きる


  〝兄弟よ、われ汝らに勧(すす)む、おおよそ汝らの学びし教(おしへ)に背(そむ)きて分離を生じ、躓(つまづ)きをおこす者に心して之(これ)に遠ざかれ。〟
   ロマ書一六章一七節

  皆さんの中には、結婚なさる時に恋愛ではなくお見合いでという方もいらっしゃると思う。牧師も激しい恋愛をしたというのではなく、宣教師にだまされて結婚をした。だから最初の一〇年間は大変だった。「こんなはずではなかった。」とがっかりすることがお互いにあった。(「すべての事が相働いて益となった」が。)

  「知る」ということは、「頭」で知ることと確信的に「心」で知るという二つの面がある。

  私たちが経験的に、イエス様を知るという時には、聖書をスーッと通読してイエス様とはこういう人物であったということではないはずだ。

  ある学者が、「イエス様は二千年前にお生まれになり、三三年の生涯を十字架上で終えられた」と話した。この学者の話を聞いて得た知識は、単に聞いて知ったことに他ならない。

  けれども、「そのイエス・キリストが私の罪(つみ)けがれを背負って、十字架について死んで下さった。だれでもその十字架を見上げるならば救われるという救いの道を開いて下さったお方であり、十字架につけられ死んで墓に葬られ、三日の後に復活をなさり、今、天において私たちのためにとりなしの祈りをして下さっているお方である」ということを信じ救われたというあなた。

  しかも私たちは毎日祈ることによって、「神様はまことのお方であり、その約束に偽(いつわ)りはなく、全く正しい神の正義と神の深いあわれみ、愛がある。」ということを経験的に知っているとするならば、あなたはキリストを経験的に知った人であり、これがパウロの使っている「知る」という言葉である。

  旧約聖書を見ると、〝イサクは~を知った〟とか、〝アブラハムは~を知った〟という表現がある。これは頭で知っているということではなく、夫婦の肉体的関係を持ったということで「知った」と書かれている。この場合には、経験的に一緒に何かをするという意味ではなく、経験的に自分たちが夫婦の契(ちぎ)りを交(か)わしたという意味で「知る」のである。

  イエス様の愛を知る経験をした者は毎日毎日、神様のみ言葉を学ぶことが大切である。学ぶということはただ読むだけではない。聖句の意味、社会的時代背景、誰から誰に対して書かれたかを知る。どういう状況下で使徒パウロがこの手紙を書いたかを知る。囚(とら)われていてじめじめした牢獄の中で書いたのか、それとも明るい空の下でこれを書いたのかを知る。あるいは、彼はどういう思いがあってこのことを書かざるを得なかったのかなど、背景を探っていく。福音を生きようではないか。                  ( 続 く )

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇三六篇一〇節
〝ねがはくはなんぢを知るものに、たえず憐憫(あわれみ)をほどこしたまへ 〟

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◆ ロマ書の学び(391)

         ▽ み言葉に生きる


  〝兄弟よ、われ汝らに勧(すす)む、おおよそ汝らの学びし教(おしへ)に背(そむ)きて分離を生じ、躓(つまづ)きをおこす者に心して之(これ)に遠ざかれ。〟    ロマ書一六章一七節
  仮に「私は習志野バプテスト教会の婦人宣教師を知っています。」と言っても、日曜日に教会でピアノやオルガンを奏楽し、日本語をペラペラと上手に話す、という知り方である。先生の内面を全て知っているわけではない。同じように聖書を読んだからといって、すぐさま神様のすべてを知ったとは言えないのである。

  仮に学校で、聖書の話やイエス様のことを勉強し、試験のために(聖書を)徹夜で勉強してテストで百点満点を取ったとしても、それは本当の意味で「知っている」ということにはならない。聖書で「知る」という言葉を使う時には、二種類のギリシャ語が使われている。一つは、一般的に聞いて「知っている」という表現である。例えば、先ほどの「婦人宣教師を知っている」という表現である。

  皆さんは私のことをどのくらい知っていらっしゃるだろうか。不思議な人間だと思われているかも知れない。講壇に立つと、怖(こわ)い、しかめ面(つら)をして説教をするきびしい牧師だと思っておられるかも知れない。家にいる時、ときどき娘が「お父さんのこんな姿を教会員の皆さんが見たら、どう思うかしらね。」などと言うことがある。

  私は、神様のお言葉を説き明かす講壇は聖別されている所であるから、悪ふざけをしたり、皆さんを楽しませるためにおちゃらけたりということはできない。み言葉を説き明かすには、品性と確信と同時に、み言葉のもつ神様の権威を象(しよう)徴(ちよう)することが重要だ。しかし一旦講壇を降(お)りたら、普通の罪(つみ)ゆるされた人間として、さらに皆さんと同じ弱さや足(た)りないものを持つ者としてお互いの交(まじ)わりをもっているのである。

  では、五〇年以上生活を共にした牧師夫人は牧師のことをよく知っているかというと、まだまだ完全には知らないし、牧師も牧師夫人のことを完全には知らない。けれども少なくても生活を共にしていれば、「うちの主人はこういう食べ物が好きで、こういう食べ物は嫌いだ」ということはわかる。また、牧師が黙って黙々と食べていれば、何か考え事をしているなとか、あるいは今日の味噌汁は甘すぎたか辛(から)すぎて不機嫌なのだとか、色々と判断することはできる。けれども、本当に相手が何を考え、何を思っているかという奥底までを知ることはむずかしいと思う。

  ましてや私たちは、イエス様の生涯を勉強しても、聖書のお言葉を通り一遍(いつぺん)読んだだけでは、イエス様が神様でいらっしゃるゆえのすばらしいお力や愛と憐(あわ)れみをことごとく知ることはできない。                    (続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 ヨハネ一五章四節A
〝我に居れ 〟

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