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習志野バプテスト教会の週報

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◆ ロマ書の学び(399)

         ▽ み言葉に生きる


  〝兄弟(きようだい)よ、われ汝(なんじ)らに勧(すす)む、おおよそ汝(なんじ)らの学(まな)びし教(おしえ)に背(そむ)きて分離(ぶんり)を生(しよう)じ、躓(つまづ)きをおこす者(もの)に心(こころ)して之(これ)に遠(とおざ)かれ。〟
   ロマ書一六章一七節

  ロマ書一六章一七節には、あなた方が勉強してきた健全な教えに背(そむ)いて教会の中に分離を生じる者、あるいは、つまずきをおこす者には注意深くして、こういう人からは遠ざかれと書かれている。今日、世界の教会の一番大きな課題の一つは「分離」=セパレーションということであると思う。私たちはこの罪の世界から分離をしなければならない。クリスチャンは罪のはびこる世界において、正しく神様の御言葉を受け止め、神様のきよさに倣(なら)って日々の生活が清められなければならない。

  ロマ書には三つの大きなテーマがあった。一つ目は、罪の世界から私たちがイエス・キリストの十字架を見上げることによって救われるとき、一度も罪を犯したことがないと同じようにみなされ「義と認められる」という「信仰義認」であった。

  第二に、この地上の生活において日々御言葉を読み、黙想し、御言葉に生きることによって聖霊の働きによって聖(きよ)めていただく。自分の努力ではなく、神様の御言葉によってきよめられていく、また罪に打ち勝つ力を与(あた)えられていくという「聖(せい)化(か)」である。小さな赤ちゃんは日増しに大きくなっていく。しかし、母親や父親には子供の成長があまり際(きわ)立(だ)っては見えない。毎日見ているとその姿が当たり前に思えるからだろう。ところが、久(ひさ)しぶりに会った親せきや何年ぶりかに会った人にとっては「えっ!あの赤ちゃんがこんなに大きくなったの?」というふうになる。

  神様の御言葉によって私たちがきよめられていく姿も同じだと思う。自分たちの家族の中で、あるいは教会内では、この御言葉の学びによって自分たちが神様に近づけられ、きよめられているという姿はあまりわからないだろう。お互いに成長しているのだから…。ちょうど、高速道路を九〇キロで走っている車が隣の車線を同じスピードで走っている車を見ると、自分の車は随分遅いと感じてしまう。

  実際にメーターを見ると、九〇キロを超えていることがある。車を運転すると、日頃のしとやかさはすっ飛んでしまって一二〇キロを平気で出す人もいるかもしれない。周囲と同じようなスピードで走っていると、なかなか自分のスピードはわからない。神様にきよめられるのも同じことが言える。けれども私たちは、神様の御言葉によって毎日きよめられている。自分の努力だけではなく、神様の御言葉自体が私たちの生活をきよめてくださることを覚(おぼ)えていただきたい。(続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇四三篇五節C
〝なんぢ神(かみ)によりて望(のぞみ)をいだけ。〟

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◆ ロマ書の学び(398)

         ▽ み言葉に生きる


  〝兄弟(きようだい)よ、われ汝(なんじ)らに勧(すす)む、おおよそ汝(なんじ)らの学(まな)びし教(おしえ)に背(そむ)きて分離(ぶんり)を生(しよう)じ、躓(つまづ)きをおこす者(もの)に心(こころ)して之(これ)に遠(とおざ)かれ。かかる者(もの)は我(われ)らの主(しゆ)キリストに事(つか)えず、反(かえ)って己(おの)が腹(はら)に事(つか)え、また甘(あま)き言(ことば)と媚諂(こびへつらい)とをもて質朴(しつぼく)なる人(ひと)の心(こころ)を欺(あざむ)くなり。汝(なんじ)らの従(じゆう)順(じゆん)は凡(すべ)ての人(ひと)に聞(きこ)えたれば、我(われ)なんじらの為(ため)に喜(よろこ)べり。而(しか)して我(わ)が欲(ほつ)する所(ところ)は汝(なんじ)らが善(ぜん)に智(かしこ)く、悪(あく)に疎(うと)からんことなり。平和(へいわ)の神(かみ)は速(すみや)かにサタンを汝(なんじ)らの足(あし)の下(した)に砕(くだ)き給(たも)うべし〟
     ロマ書一六章一七~二〇節

  これまで聞いてきた聖書の正しい解釈、正しい教えから逸脱(いつだつ)することがないように、つまづきをおこす者からは遠ざかり、彼らを避けていただきたい。このように言うと、ある人たちは「あの習志野教会は愛がない。あんなに一生懸命やっていた伝道者や信者を追放したではないか、追い払ったではないか。」と、言うかも知れない。でも、心配しないで頂きたい。私たちの基準は神様のお言葉である。間違った教え、悪魔がささやいたような間違った教えを持ち込もうとしたり、あるいは、弱いまだ確信のない信者さんたちをつまづかせるような働きをする者は、遠慮なく教会から追い出して頂きたい。それが聖書の教えだからである。

  しかし、もしその人たちが自分の過(あやま)ちに気がついて「私は間違っていました。もう一度、正しい健全な聖書の教えに立ち返りたいです。」と言うならば、どうぞ祈って支えてあげて欲しい。リーダーとしてではなく、一般の信者としてもう一度勉強してもらうのである。ちょうど、プリスキラとアクラとがアポロというあの若者を懇切丁寧にみ言葉を通して教え、導いていったように、正しい神様のみ言葉に立たして頂きたいと思う。

  〝もし異(こと)なる教(おしえ)を傳(つた)へて、健全(けんぜん)なる言(ことば)すなはち我(われ)らの主(しゆ)イエス・キリストの言(ことば)と、敬虔(けいけん)にかなふ教(おしえ)とを肯(うけが)わぬ者(もの)あらば、その人(ひと)は傲慢(ごうまん)にして何(なに)をも知(し)らず、ただ議論(ぎろん)と言爭(いさかい)とにのみ耽(ふけ)るなり、之(これ)によりて嫉妬(ねたみ)・爭鬪(あらそい)・惡(あ)しき念(おもい)おこり、また心(こころ)腐(くさ)りて眞(まこ)理(と)をはなれ、敬虔(けいけん)を利益(りえき)の道(みち)とおもふ者(もの)の爭論(そうろん)おこるなり。……神(かみ)の人(ひと)よ、なんぢは此(これ)等(ら)のことを避(さ)けて、義(ぎ)と敬虔(けいけん)と信仰(しんこう)と愛(あい)と忍耐(にんたい)と柔和(にゆうわ)とを追(お)ひ求(もと)め、信仰(しんこう)の善(よ)き戰闘(たたかい)をたたかへ、永遠(とこしえ)の生命(いのち)をとらへよ。〟
 テモテ前書六章三~六、一一~一二節 (続)

  ◎ 暗誦聖句 詩篇四二篇一節
〝ああ神(かみ)よ、しかの渓(たに)水(がわ)をしたい喘(あえ)ぐがごとく、わが霊魂(たましい)も、なんぢをしたいあえぐなり。 〟

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◆ ロマ書の学び(397)

         ▽ み言葉に生きる


  〝兄弟(きようだい)よ、われ汝(なんじ)らに勧(すす)む、おおよそ汝(なんじ)らの学(まな)びし教(おしえ)に背(そむ)きて分離(ぶんり)を生(しよう)じ、躓(つまづ)きをおこす者(もの)に心(こころ)して之(これ)に遠(とおざ)かれ。〟
   ロマ書一六章一七節

  しかも、現代は世界中の教会が手をつなごうではないかという風潮の時代である。よその教会に行ってみればわかる。その教会で牧師が語る言葉は、果たして正しい聖書の解釈と聖書の御言葉を大胆に、率直に、間違いなく語っているだろうか。「聖書はこう書いているけれども、私はこう考える。」とか、「もっと若者たちを集めるために現代風の音楽を使おうではないか。」という教会がふえている。それは決して正しいことではない。

  内村(うちむら)鑑三(かんぞう)という伝道者がいた時代に、日本の教会は荒(あ)れすさんでいて、東京のYMCAでビール飲み大会をやっていたとか。もともとはYMCAはクリスチャンの集まりであったはずだのに、人々を集めるために、ビール飲み大会やダンスパーティをやったりして堕落(だらく)していったのである。

  だから、内村鑑三師は「あんな風に堕落するならば、教会はいらない。」と言った。それが無教会主義の発端(ほつたん)であるという。確(たし)かに内村鑑三という伝道者は、北海道で勉学に励(はげ)み日本中に覚醒(かくせい)を与(あた)えた。だからいまだに、日本には無(む)教会主義という集まりがある。けれども彼は、その熱心さ、ピューリタン的な思想があまりにも極端(きよくたん)に狭まってしまって、聖書全体の骨格からはずれてしまった。

  神様は、どんなに堕落(だらく)していたコリントの教会でも、「コリントの教会は堕落しているから、いらない。」とか、教会は必要ではないとおっしゃらない。神様が働かれるのは、教会を通(とう)してである。もちろん神様は、教会が完璧(かんぺき)でないことはご存知(ぞんぢ)である。

  そこに集(つど)うクリスチャンの各自が、牧師や宣教師の言っていることが聖書の教えに合致(がつち)するかどうか、正しい教えかどうか、聖書を学んでいただきたい。ベレヤの信者のように、毎日聖書を学んで確(たし)かな信仰に立っていただきたい。もしも、「あの講師のおっしゃったことは、どうもおかしいのではないか。」という疑問(ぎもん)がわいてきたなら、牧師か宣教師に講師のお話の意味を確認してほしい。

  仮に、私か伝道者が、聖書以外の異端(いたん)といわれる教えを持ち込もうとしたならば、教会の献身者、執事におねがいしてこの教会が正しい信仰に立つように皆で祈って、善後策を検討して頂きたいと思う。私は一九三二年生まれであるから、いくらがんばったところであと一〇年、長くても一五年ご奉仕出来るかどうかだ。私はメトセラではないから九〇〇歳までは生きないので、ご安心くださいというか、ご心配いりませんからというべきか…。                 ( 続 く )

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇四一篇三節前半
〝 主(しゆ)は彼(かれ)がわづらひの床(とこ)にあるをたすけ給(たま)はん (なんぢかれが病(やめ)るときその衾?(ふすま)をしきかへたまはん) 〟

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◆ ロマ書の学び(396)

         ▽ み言葉に生きる


  〝兄弟(きようだい)よ、われ汝(なんじ)らに勧(すす)む、おおよそ汝(なんじ)らの学(まな)びし教(おしえ)に背(そむ)きて分離(ぶんり)を生(しよう)じ、躓(つまづ)きをおこす者(もの)に心(こころ)して之(これ)に遠(とおざ)かれ。〟
   ロマ書一六章一七節

  年(とし)を重(かさ)ねるに従って、腰や背骨(せぼね)が痛い、ヘルニアかも知れないと考えることはないだろうか?レントゲンを撮(と)ると、骨と骨をつなぐゼリー状のものがペシャンコになっていたりして、姿勢(しせい)が悪くなってくる。姿勢が悪いだけならいいが、皆さんの体から背骨をとってしまったらどうなるだろうか。それこそ、クラゲのようになってしまって、立つことすらできなくなる。

  クリスチャンの信仰も同じである。イエス様が処女(しよじよ)降誕(こうたん)されたこと、神様であるということ、あるいは十字架、そして神様の預言(よげん)の通りに復活なさったということは聖書全体の福音(ふくいん)、骨(ほね)組(ぐ)みである。そうした骨組みを骨抜きにしていく人たち、イエス・キリストがただ愛の化身(けしん)であるとか、神は愛であるから誰とでも仲良くしましょう、手をつなぎましょう、というだけでは聖書のとらえ方(かた)が間違(まちが)っているのだ。

  パウロはここで何と書いているだろうか。〝汝らの学びし教えに背(そむ)きて分離(ぶんり)を生(しよう)じ、つまづきをおこす者に心してこれに遠(とおざ)かれ〟とロマ書一六章一七節に書いている。遠(とおざ)かりなさい。分裂、分派を起こす者たちは、不平、不満、批判(ひはん)、あるいはうわさ話に明け暮(く)れたり、議論をふっかけるとか、また、愛がない状態であったり、間違った教えを人々に吹(ふい)聴(ちよう)するという人々である。

  間違った教えを持ってくる人たちも、聖書の言葉を使うが、聖書全体の重要な教理、骨格(こつかく)をはずしてしまう。そして、聖書を自分の都合(つごう)にあわせて断片的(だんぺんてき)にとらえて「これがクリスチャンの信仰ですよ。」と、呈示(ていじ)しようとする。なぜそうした人たちから私たちは遠ざからなければならないのか。それは、その人たちから悪影響を受けて私たちの信仰自体の屋台骨(やたいぼね)が崩(くず)れてしまう危険があるからだ。

  〝その誡命(いましめ)はこれなり、即(すなわ)ち我(われ)ら神(かみ)の子(こ)イエス・キリストの名(な)を信(しん)じ、その命(めい)じ給(たま)いしごとく互(たがい)に相愛(あいあい)すべきことなり〟ヨハネ第一の手紙三章二三節

  〝互に相愛する。〟教会に来ている人たちが皆、互に愛し合っているのは麗(うるわ)しいことであるが、その愛するということには、イエス・キリストを信じ、イエス様に従っていくという前提がある。健全な信仰を抜きにして、健全な兄弟愛は生まれてこない。教会を荒(あら)そうとする人たちは、聖書、聖書とやって来るけれども、一番大切な聖書の根本的(こんぽんてき)な教理を捨(す)て去ってしまっている。そして生半可(なまはんか)なやさしい言葉で愛によって結ばれようというのは決して正しい信仰の立場ではない。

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇四〇篇八節前半
〝 わが神(かみ)よわれは聖意(みこころ)にしたがふことを樂(たのし)む
 (なんぢの法(のり)はわが心(こころ)のうちにありと)〟

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◆ ロマ書の学び(395)

         ▽ み言葉に生きる


  〝兄弟よ、われ汝らに勧(すす)む、おおよそ汝らの学びし教(おしへ)に背(そむ)きて分離を生じ、躓(つまづ)きをおこす者に心して之(これ)に遠ざかれ。かかる者は我らの主キリストに事(つか)えず、反(かえ)って己(おの)が腹に事(つか)え、また甘き言(ことば)と媚諂(こびへつらい)とをもて質朴(しつぼく)なる人の心を欺(あざむ)くなり。〟
      ロマ書一六章一七~一八節

  「教えに背(そむ)く」とは何だろうか。世の中には数多くの教会がある。しかし、キリスト教会と名乗っていても、イエス様を神様として信じない教会が大変多く、聖書を神様のお言葉としてそのまま受け止めない教会も数多くある。

  「聖書の中には間違いがある」とか、「創世記は神話である」とか……日本の有名な作家もそのように書いている。朝日新聞で懸賞を取った一人の女性作家の作品は一躍有名になって映画化されたりしたが、彼女は創世記を神話であるという。岩波書店から出した本を読むと、聖書を神様のあやまりのないお言葉として信じていないことを知った。それまですばらしい作家であると思っていただけに、私は唖然(あぜん)とした。聖書は神様の言葉と信じているにもかかわらず、自分の作品を通して、ここは神話だからと言って聖書を切り刻み、多くの人々につまづきとなってしまったのだ。

  多くの日本の出版社、あるいは教会の人たちは、彼女をすばらしいクリスチャンだと言ってほめちぎり、彼女の作品をどんどん広めている。これは明らかに、ロマ書の聖句と照らし合せるならば、皆さんが学んだ教えに背いている行為である。

  では、根本的な教理とは何か。聖書は誤りのない神のお言葉である。これは使徒パウロがテモテへの手紙の中ではっきりと書いている。イエス・キリストが処女マリアから生まれたということを処女降誕という。旧約聖書イザヤの預言、さらにはマタイ伝、ルカ伝を見るならばこの処女降誕は、聖書の基本的な核心であることがわかる。

  イエス様が十字架におつきになって私たちすべての人間の罪けがれを背負って下さり、血を流して下さった。その血によって私たちは罪汚(けが)れを赦(ゆる)されるということもまた、聖書の基本的な教えである。イエス様が死んで葬られ、三日目によみがえられた。これもまた、聖書が示すところである。こうした大切な事柄、絶対にこれだけは欠いてはいけないというものが基本的な核心、骨格としてあるのである。

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇四〇篇八節前半
〝 わが神(かみ)よわれは聖意(みこころ)にしたがふことを樂(たのし)む
(なんぢの法(のり)はわが心(こころ)のうちにありと)〟

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