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習志野バプテスト教会の週報

◆ ロマ書の学び(403)

         ▽ み言葉に生きる


  神様のお建てになる教会、それは、人々を救いに導く力を持つ教会でなければならない。〝主(しゅ)イエスを信(しん)ぜよ、さらば汝(なんじ)も汝(なんじ)の家族(かぞく)も救(すく)わるべし。〟という、あの使徒行伝一六章三一節の御言葉のように、イエス様を信ずることによってその魂が救われ、更にその人は自分の家族に福音を伝えていくのである。

  使徒行伝の一章八節を見ると〝然(さ)れど聖霊(せいれい)なんじらの上に臨(のぞ)むとき、汝ら能力(ちから)をうけん〟とある。聖霊が私たちを導いてくださる時に、聖霊の力によって私たちは全世界に出て行って、イエス・キリストの福音の証人となるのである。クリスチャンの働きは何かというならば、自分が幸福になるということが最大の眼目(がんもく)ではない。ここで皆さんに考えていただきたい。「なぜあなたは、教会に来たのか?」「なぜあなたは、クリスチャンになったのか?」その問(と)いに対して、もし「幸(しあわ)せになるためだ。」と答えるならば、それは間違(まちが)いである。

  「聖書の中心は何か?」と聞かれて「それは人間が幸福になるための手引きだ。」と答えるなら、それも違(ちが)う。使徒パウロはロマ書一章において、聖書の中心はイエス・キリストであると明確(めいかく)に書いた。聖書の中心は人間の幸福ではない。イエス・キリストの御(み)栄(さか)えのためであると、はっきりと書かれている。

  私たちは、あまりにも人間の救いということにポイントを置きすぎているのではないか。もっと神様の御(み)栄(さか)えをあらわすように、私たちは神様のご栄光をあらわすために創(つく)られた被造物(ひぞうぶつ)であるということを忘れてはいけない。

  〝まず、神(かみ)の国(くに)と神(かみ)の義(ぎ)とを求(もと)めよ。〟(マタイ伝六章三三節)と、イエス様はおっしゃった〝汝(なんじ)、心(こころ)を尽(つ)くし、精神(せいしん)を尽(つ)くし、思(おも)いを尽(つ)くして汝(なんじ)の神(かみ)を愛(あい)すべし。〟(マタイ伝二二章三七節)と、神様は仰せになられたのだ。すべての物をお創(つく)りになった真(まこと)の神様を愛する、神様をあがめ、神様をほめたたえる、これが全人類の最大の義務であり、祝福である。

  〝然(さ)れど彼(かれ)すなわち真理(しんり)の御霊(みたま)きたらん時(とき)、なんじらを導(みちび)きて真理(しんり)をことごとく悟(さと)らしめん。〟
              ヨハネ伝一六章一三節

  今の時代、私たちは聖霊(せいれい)の内住(ないじゅう)をいただく。そして、聖霊の導きを頂(いただ)いて日々の生活に力をいただく。

   第二に、「教会の力はどこにあるのか?」

  〝平和(へいわ)の神(かみ)は速(すみ)やかにサタンを汝(なんじ)らの足(あし)の下(した)に砕(くだ)き給(たも)うべし〟
 ロマ書一六章二〇節

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇四六篇一節
〝 神(かみ)はわれらの避所(さけどころ)また力(ちから)なり なやめるときの最(いと)ちかき助(たすけ)なり〟

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◆ ロマ書の学び(402)

         ▽ み言葉に生きる


  〝永遠(えいえん)の神(かみ)の命(めい)にしたがい、預言者(よげんしゃ)たちの書(ふみ)によりて信仰(しんこう)の従(じゅう)順(じゅん)を得(え)しめん為(ため)に、もろもろの国人(くにびと)に示(しめ)されたる奥義(おくぎ)の黙示(もくし)にしたがえる我(わ)が福(ふく)音(いん)と、イエス・キリストを宣(の)ぶる事(こと)とによりて、汝(なんじ)らを堅(かと)うし得(う)る〟
  ロマ書一六章二六節

  ロマ書一六章二六節から二七節においては、大きなテーマがある。「教会の目的とは何か?」と「人間の主要なつとめは何か?」ということである。人間にとって一番大きなつとめは何かというならば、それはすべての物をお創造(つくり)になられた創造主である神様を仰(あお)ぎ見て、神様の御名(みな)を誉(ほ)め称(たた)えるということである。神様のご栄光のために自分たちが生きていく、これが人間にとって最大の、最高の人生の目的と思っていただきたい。

  この世に生きる人たちは、神様をないがしろにする。自分自身の名誉や地位、権力、富を求めて、神様の御言葉に耳を傾けようとしない。飲むにも、食べるにも、何をするにも、ただひたすら私たちは神様の御(み)栄(さか)えを追い求めて生きるということがたいへん大事なことだと思う。私がまだ若い時、多くの宣教師、牧師たちは口を開けばこういうことを言っていた。「私たちは、博士号とか学位、名誉にとらわれては、いけない。クリスチャンはみんな神様の御(み)前(まえ)にあって、ひたすら神様のご栄光をあらわすように生きよ。」と。

  現在では、多くの教会の牧師や献身者が博士号を取らなければ伝道者ではないような雰囲気(ふんいき)がかもし出されてきている。大学で資格(しかく)を持つことは、それはそれで大事なことである。けれども、伝道者にとって必ずしも博士号が必要ではない。にもかかわらず、最近の日本においてもキリスト教関係の書物を見ると、博士号を持っていない伝道者は人並(ひとな)みではないといった雰囲気(ふんいき)が目立(めだ)つようになった。しかし、それは大きな間違いであると思う。神様の働きとして、御(み)言葉を学んで話すことはたしかに大事なことではあるが、しかしそれがすべてではない。

  伝道者にとっての第一の目的は、人々をイエス様のもとに連(つ)れてくるという救霊の働きである。第二は、その救われた人々が神様の御(み)栄(さか)えをあらわすように生きてもらう、実(じっ)践(せん)してもらうために働くことである。博士号を持たなければ、良い羊飼いになれないというものではない。羊が何を食べ、何を好み、どういうことに対して病気にかかりやすいかということを知らなければ、羊飼いにはなれない。同じように、伝道者はこの世から分離をされた者である。私たちのその最大の目的は、学位や称号ではなく、神様にすべてを明け渡し、おささげすること。ひたすら魂を愛し、魂を追い求め、イエス様に近づく魂を養い育てることこそが、伝道者の主眼でなければいけないと思う。

  ◎ 暗誦聖句 黙示録一九章一節
〝『ハレルヤ、救(すくい)と榮(えい)光(こう)と權力(ちから)とは、我(われ)らの神(かみ)のものなり。〟

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◆ ロマ書の学び(401)

         ▽ み言葉に生きる


  多くの皆さんは日常的に、巧(たく)みなセールス・トークを聞いておられると思う。「エアコンを千円で掃除してあげます。」と電話がかかってきたりする。あれはまやかしだと、先日テレビで報じていた。

  日本には昔から「タダより怖(こわ)いものはない」という言葉がある。タダより怖いものはないと知りながら、私たちは安いとすぐ飛びついてしまう。テレビショッピングで、「三枚で一万円。いえ、今回特に更に三枚つけて…カバーもつけて…送料も無料で…。」などというのを聞くと「早く注文しないと損だ!」と、飛びついてしまう。こうしたオマケ付きには、オマケの方が高いものがあったりする。これを買うとカメラがついてくるなど…私もそういう買い物をして、我が家(や)には時計があちらこちらにある。こうした罪の世界にあって、気をつけないと次から次へと購買(こうばい)意欲(いよく)をかきたてられ、いらない物まで買ってしまう。そして、本当に必要(ひつよう)不可欠(ふかけつ)な物が買えなくなる。

  まず遠ざけよ=avoid(アボイド)、そしてよく自分で気をつけて、どれが正しいかどれが悪いかを見(み)極(きわ)めよ=mark(マーク)ということだ。

  〝この世はつまずきあるによりてわざわいなるかな。つまずきは必ず来たらん、されどつまずきを来たらする人はわざわいなるかな〟(マタイ伝一八章七節)と、イエス様は仰(おお)せになられた。同じく六節には、〝我を信ずるこの小さき者の一人をつまづかする者は、寧(むし)ろ大(おおい)なる碾臼(ひきうす)を頸(くび)に懸(か)けられ、海の深みに沈められんかた益なり。〟とある。

  聖書の教えといわれるものを、世界中の人々が知恵の宝庫として、また人間の生きる道筋(みちすじ)として聖書から断片的(だんぺんてき)に取り上げている。しかもそうした本当の意味でのクリスチャンでない人たちは、自分たちの都合のいいように御言葉を使う。マタイ伝四章を見ると、イエス様が荒野で悪魔に試(こころ)みをお受けになられた時に、サタンは神様の御言葉を使ってイエス様を誘惑(ゆうわく)した。悪魔は天使の装(よそお)いをもって、神様を信じる民を神様から引き離(はな)そうとかかってくる。

  教会の中に、分裂(ぶんれつ)、分派(ぶんぱ)を引き起こそうとする人が来る。そうした人たちに対しては、くれぐれも注意をしなければならない、とパウロはここで書いた。私たちは、イエス・キリストのおそば近くにはべるということ、そして、自分たちが御言葉を経験し、生きた証(あかし)を持つことがこの一六章一七節における御言葉に対する私たちの証(あかし)であろうと思う。  ( 続 く )

 

  ◎ 暗誦聖句 ロマ書八章三七節
〝 (されど凡てこれらの事の中にありても、)我(われ)らを愛したもう者(もの)に頼(よ)り、勝(か)ち得(え)て餘(あまり)あり。〟

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◆ ロマ書の学び(400)

         ▽ み言葉に生きる


  信仰生活は私たちの人間的な努力、あるいは勉強だけで成長するわけではなく、神様の御言葉によってきよめられていくものである。その過程(かてい)において、はっきりと良くないことだとわかるものから遠ざからなくてはならない。

  最近、アメリカで出版されたキリスト教系のカウンセリングに関する本を見ると、ほとんど二、三章にわたって現在アメリカが苦しんでいる、そして世界的に問題になっているポルノグラフィーを取り上げている。日本ではポルノと言っているが、パソコンや様々な方法でこうした性的な不道徳が蔓延(まんえん)している時代なのだ。かつてはこうした肉の欲望のとりことなっていた私たちそれぞれが、神様の御言葉を読むにしたがってそういう思いがどんどん縮(ちぢ)まっていき、神様の御手(みて)によって取り去られていく姿を学ぶ。私たちは、万引きや、税金のごまかしなど様々な誘惑と出合う。そういう時に、「皆がやっているから。」などと周(まわ)りを見ているなら、なかなかやめることは出来ない。

  なぜなら、皆がやっているからという基準で見ているからだ。しかし、神様の御言葉を読んで「私はイエス様に従っていこう。」と思う時に、「ほかの人はどうであれ、自分はこうしなければならない。」という風に少しずつ変(か)えられていく。私も皆さんの前で「罪から離れよ。」と、大きな声で言う資格は持っていない。自分も罪に負けやすい者だということをよく知っている。私は自分が弱いから、むしろこうした弱い者が神様によって伝道者の世界に召し出されたと思う。もし伝道の世界に入ってなければ、私は多分、皆がやっているからという基準で生きて、そして同じように罪の世界に沈(しず)み込んでいたと思う。

  この「聖化」という過程は、神様の御(み)力(ちから)によって変えられることを覚(おぼ)えていただきたい。英語の聖書では、二つの言葉が使われている。一つはavoid(アヴォイド)(=そういうものを遠ざけよ。避けよ)、ということだ。そしてもう一つはmark(マーク)(=注意してよく見よ)、ということ、印(しるし)をつけて、そうしたものから遠ざからなければならない、という意味である。

  ここではっきりすることは「分離」ということが、クリスチャン生活の中で大変重要な神様の教えであるということだ。この世から分離をする、罪の世界から分離をする。自分自身の性向から分離をする。

  使徒パウロはロマ書八章六節で〝肉の思いは死であり、霊の思いは命であり平安である。〟と記している。私たちはよく見ないと、情報過多の中にあって何が善で何が悪であるかを見(み)分(わ)けることが難(むずか)しい。   (続)   

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇四四篇八節
〝われらはひねもす神(かみ)によりてほこり、
 われらは永遠(とこしえ)になんぢの名(みな)に感謝(かんしや)せん セラ 〟

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