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習志野バプテスト教会の週報

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◆ ロマ書の学び(406)

         ▽ み言葉に生きる


  〝イエス・キリストを宣(の)ぶる事(こと)とによりて、汝(なんじ)らを堅(かと)うし得(う)る、 唯一(ゆいいつ)の智(かしこ)き神(かみ)に栄光(えいこう)、 世々(よよ)限(かぎ)りなくイエス・キリストに由(よ)りて在(あ)らんことを、アァメン。 〟
      ロマ書一六章二七節

  この習志野バプテスト教会の建物は、皆さんが祈りながら、二〇年以上かけてささげ物をして、ようやく建(た)った。しかしこの建物は、決して自慢(じまん)すべきものではない。確(たし)かに私たちの信仰の証(あかし)であった。けれども、私が毎年行くフィリピンや開拓伝道の地では、壁はなく、屋根は椰子(やし)の葉っぱでできた風通しのよいのが教会である。そういう所でも、クリスチャンたちは一生懸命伝道をし、魂が救われている。「ああ、これが教会だ。」と思う。

  建物が教会ではない。神様の御言葉によって救われ、喜びに満(み)ちた、エネルギーに満ちた信者の姿、召し出された人たちの集まりこそが教会なのである。実際には、建物などなくてもよいのだ。この私たちの教会が建(た)った時、毎月のように見せてほしいという方がいらっしゃった。神様のあわれみを証(あかし)する意味では感謝だが、建物が教会ではない。

  私はむしろ、建物を見せてほしいという方に、日曜日に皆さんの顔を見てほしいと思う。ここに集まる人たちは、失礼ながら億万長者(おくまんちょうじゃ)ではない。しかし、神様を信じ、イエス様を愛し、イエス様に従っている人たちである。その人々の信仰の証を見てほしい。クリスチャンの喜びにあふれた顔を見てほしいと思う。

  〝されど神は智(かしこ)き者を辱(はずかし)めんとて弱き者を選び、有る者を亡(ほろぼ)さんとて世の卑(いや)しきもの、軽んぜらるる者、すなわち無きが如(ごと)き者を選び給(たま)えり。〟
   コリント前書一章二七、二八節

  〝汝(なんじ)等(ら)みづから心(こころ)せよ、又(また)すべての群(むれ)に心(こころ)せよ、聖靈(せいれい)は汝(なんじ)等(ら)を群(むれ)のなかに立てて監督(かんとく)となし、神(かみ)の己(おのれ)の血(ち)をもて買(か)ひ給(たま)いし教會(きょうかい)を牧(ぼく)せしめ給(たも)う。

われ知る、わが出で去るのち、暴(あら)き豺狼(おおかみ)なんぢらの中(なか)に入りきたりて、群(むれ)を惜(おし)まず、又(また)なんぢらの中(なか)よりも、弟子(でし)たちを己(おのれ)が方(かた)に引(ひ)き入(い)れんとて、曲(まが)れることを語(かた)るもの起(おこ)らん。

されば汝(なんじ)ら目(め)を覺(さま)しをれ。…われ今(いま)なんぢらを、主(しゆ)および其(そ)の惠(めぐみ)の御言(みことば)に委(ゆだ)ぬ。

御言(みことば)は汝(なんじ)らの徳(とく)を建(た)て、すべての潔(きよ)められたる者(もの)とともに嗣(し)業(ぎよう)を受(う)けしめ得(う)るなり。

…我(われ)すべての事(こと)に於(おい)て例(れい)を示(しめ)せり、即(すなわ)ち汝(なんじ)らも斯(か)く働(はたら)きて、弱(よわ)き者(もの)を助(たす)け、また主(しゆ)イエスの自(みずか)ら言(い)ひ給(たま)ひし「與(あた)ふるは受(う)くるよりも幸福(さいわい)なり」との御言(みことば)を記憶(きおく)すべきなり』 〟
   使徒行伝二〇章二八~三四節

    (ロマ書講解メッセージ終)

 

  ◎ 暗誦聖句 マタイ伝六章三三節

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◆ ロマ書の学び(405)

         ▽ み言葉に生きる


  〝兄弟(きょうだい)よ、われ汝(なんじ)らに勧(すす)む、おおよそ汝(なんじ)らの学(まな)びし教(おしえ)に背(そむ)きて分離(ぶんり)を生じ、躓(つまず)きをおこす者(もの)に心(こころ)して之(これ)に遠(とおざ)かれ。

かかる者(もの)は我(われ)らの主(しゅ)キリストに事(つか)えず、反(かえ)って己(おの)が腹(はら)に事(つか)え、また甘(あま)き言(ことば)と媚(こび)諂(へつらい)とをもて質朴(しつぼく)なる人(ひと)の心(こころ)を欺(あざむ)くなり。

汝(なんじ)らの従(じゅう)順(じゅん)は凡(すべて)ての人(ひと)に聞こえたれば、我(われ)なんじらの為(ため)に喜(よろこ)べり。

而(しか)して我(われ)が欲(ほっ)する所(ところ)は汝(なんじ)らが善(ぜん)に智(さと)く、悪(あく)に疎(うと)からんことなり。〟
    ロマ書六章一七~一九節

  お金持ちが教会を作るかというと、そうではない。かえってお金持ちの献金は教会の成長のじゃまになることさえある。何故ならば、お金持ちは自分が献金しなければこの教会はつぶれるという傲慢(ごうまん)さを知らず知らずのうちに持ってしまうからだ。すべてのお金持ちがそうではないが、お金は人間の心を動かす。お金は人間の魂をさえ奪(うば)うことができる。

  『ファウスト』という小説をお読みになったことがあるだろうか。あの小説を読むと、人間がいかにお金や富に対して弱いかということがわかる。

  仮に、この教会に毎月一五〇万円の献金をする人がいたとする。知らず知らずのうちに、それが誰だか分かってくる。私は会計帳簿を見ていないから、どなたがどれだけささげてくださっているか、わからない。もし、牧師が毎週チェックして「今週は○○さんが何万円ささげた。」とわかったとすると、牧師はその人のところにあいさつに行くだろう。

  これは、神様の御言葉をのべ伝える者としてふさわしくない態度(たいど)である。私たちはどうしても、たくさん献金をささげる人に心がいってしまう。心がいくと、やたらとペコペコするようになる。その人のご機嫌(きげん)をとるようになり、教会が、恵まれない人たちに対して粗野(そや)になることが使徒行伝に書いてある。教会が不公平になってはいけない。すべての人に公平に仕(つか)えるようにと、教会に執事がおかれるようになったのである。

  私たちは、数が多くなる、あるいはお金持ちの人たちが多く集まるというと、どうしてもそれが強い教会と考える。しかし聖書は、そうではないと言う。

  まず第一に、「この世から分離をせよ」。神様に聖別された人だけの集まり、これが教会の力となる。人間の価値観、はかりで量(はか)ってはいけないと神様はおっしゃる。では神様は、何を基準となさるのだろうか。「服従」である。私たちは神様の御言葉に忠実に従うということがなければ、どんなに立派な建物が建っても、どんなに多くの人々が集まっても、それは教会にとって正しい意味での証(あかし)にはならない。
      (続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇四八篇九節
〝神(かみ)よ我(われ)らはなんぢの宮(みや)のうちにて仁慈(みいつくしみ)をおもえり 〟

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◆ ロマ書の学び(404)

         ▽ み言葉に生きる


  〝唯一(ゆいいつ)の智(かしこ)き神(かみ)に栄光(えいこう)、世々(よよ)限(かぎ)りなくイエス・キリストに由(よ)りて在(あ)らんことを、アァメン。 〟
        ロマ書一六章二七節

  イエス様の生(しょう)涯(がい)を見ると、イエス様の周(まわ)りには多くの病(や)める人々が集まったことを見ることができる。と同時に、経済的な貧しさを抱(かか)える人たちも集まってきた。今日の世界各地で、どの国が一番多くの人が教会に集まってくるか。

  一〇年以上前のことであるが、世界各地を伝道しておられる先生たちがおっしゃった。「今、神様の御手(みて)が置かれている地が二つある。著しい成長を遂(と)げている国が二つあるというのだ。その一つはフィリピン。もう一つはブラジルである。」と。フィリピンは今日、世界で一番神様に祝福されている国だと言われる。経済的には貧しいが、霊的に覚醒(かくせい)されている。そして、二番目に祝福されている国が、ブラジルだというのだ。

  なぜ、日本の教会は遅々(ちち)として進まないのだろうか。それは、あまりにも私たちがこの世の流れの中にどっぷりつかり過ぎているからだ。

  夏目(なつめ)漱石(そうせき)の小説ではないが、私たちはこの世の中の「義理(ぎり)人(にん)情(じょう)」に流されてしまう。そして、クリスチャンとしての証(あかし)をしっかりたてようとしていない。神様を第一とするならば、必ず神様はその人を祝福してくださり、神様の証人として生かしてくださる。教会の力は、人間の価値観(かちかん)とか数(かず)ではない。

  皆さん覚(おぼ)えておられると思うが、旧約聖書のギデオンは敵と戦う時に、何万人もの兵卒を率(ひき)いて行(い)っただろうか。神様は、「まだ多い。まだ兵隊の数が多い。」とおっしゃって、最終的に何人になっただろうか。三百人である。神様にとって、人数が多いということなど、ものの数ではない。神様の御(お)力(ちから)をあらわすには、わずか三百人の精(せい)鋭(えい)で十分であった。

  神様はどのようにしてその三百人をお選(えら)びになっただろうか。力の強い者、格好(かっこう)のいい者、背の高い者だっただろうか。その選びの方法は、どうやって水を飲むかということであった。いつ敵が襲(おそ)ってくるかわからない状(じょう)況(きょう)下(か)で、兵隊たちがどのようにして水を飲むかがテストされたのであった。

  神様は人間の「数(かず)」を求めていらっしゃらない。また、人間の持つ「富」も求めておられない。私たちは、「会社の社長であるとか、事業家が大勢いるとか、弁護士、銀行マン、医者などが大勢集まっている教会は献金が多くなっていい。」などと考えるかもしれないが、それは単なる人間の考えである。神様の基準は、そうしたお金持ちではない。

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇四七篇六節
〝ほめうたえ、神をほめうたえ 〟

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