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習志野バプテスト教会の週報

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◆ 神をおそれよ(4)

   ▽「主はご自身を恐れる者と
     親しくされる」
        (詩篇二五・一四)


  〝あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」〟
     申命記 四章一〇節

  申命記は約束の地に入る直前のイスラエルの人々に対して、モーセがモアブの荒野で語った最後の言葉である(申命記二・八)。

  「民をわたしのもとに集めよ。」と主はモーセに命じられた。教会は主イエス様のものである。この教会の全ての集いは、主イエス様がご自分のみ言葉をご自身の民に聞かせるためにお開きになっていることを覚えよう。 神様のご命令に従うと同時に、神様のお言葉を伺えることがどれほど大きな恵みであるかも覚えよう。

  「主のことばを聞くことのききん」(アモス八・一一)が私たちを襲えば、神様の憐れみと恵み、赦しと祝福は与えられない。私たちクリスチャンもイエス様によって救われるまで、そのような暗やみの中で生活していた。自由に見えていて実は不自由な、罪の力に支配された生活に戻りたい人はいないだろう。日曜学校、礼拝、午後の集会、聖書研究会、婦人集会の全てに出席して、み言葉を学んだとしても、霊的に激しい戦いを強いられるこの世で生活して行くには十分ではない。神様の御前にでて、み言葉を毎日いただこう。

   神様のご命令は、「地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、子どもたちにそのことを教えよ」である。申命記四章一〇節は、神様を恐れる者となりたいならば、「神様のみ言葉を学べ」と教えている。神様は私たちに『聖書』をお与えくださり、いつでも神様のお言葉を伺う事ができるようにしてくださった。み言葉を学ぼう(読むだけではなく、理解し、実践しよう)。そして、私たちは忘れやすい者だから、学んだみ言葉の真理を、神様のお恵みを記録して、復習しよう。

  当教会の夜間神学校は三年目に入った。神学生のための授業であるが、実は、教える私自身の学びの時となっている。教えることは、一番よい学びの機会である。次の世代に「主を恐れること」を教えるためには自ら学んでいなければならない。この学びに卒業はない。「地上に生きている日の間」学ぶべき重要な課題である、と主はおっしゃる。私もあなたも、主の御前に出る時がくる。主を恐れる者とされることを強く願おう。(続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇五一篇九節 
〝ねがはくは聖(み)顔(かお)をわがすべての罪(つみ)よりそむけ
 わがすべての不義(ふぎ)をけしたまへ〟

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◆ 神をおそれよ(3)

   ▽「主を恐れることは
     悪を憎むことである」
           (箴言八・一三)


   〝これらの後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨(のぞ)み、こう仰(おお)せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾(たて)である。あなたの受ける報(むく)いは非常に大きい。」〟          創世記一五章一節

  主は、繰り返し「恐れるな」とお命じになる。〝見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた(イザヤ一二・二)。〟〝彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ(エレミヤ一・八)。〟全能の神様を信じ、神様を恐れるなら、私たちは何をも恐れる必要がない。

  ヤコブの子ヨセフは主を恐れた人物であった(創世記三七章以下参照)。ヨセフは兄弟に憎まれ、外国人に売られてしまう。ヨセフはエジプトのパロに仕える侍従長、ポティファルに買われる。「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人」(創世記三九・二)となった。主が共におられたので、ヨセフは、何も恐れることがなかった。主を恐れる人は主の御臨在の内に生きる人である。

  ヨセフは、体格がよく、美男子で、何事にも誠実であった。ポティファルの妻はヨセフに「私と寝ておくれ」とせまる(三九・七)が、彼は拒(こば)んで言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」ヨセフは以下のことを恐れた。

  ア、自分と共におられ、祝福をお与えくださる神様に対して罪を犯すこと。=神様の愛に反する恐れ。

  イ、神様が罪とおっしゃることを行うこと=神様のご命 令にそむくことの恐れ。

  ウ、神様の正しい裁き=罪は必ず裁かれ、神様のために 苦しむ時は、神様の正しい裁きが必ずあるとの確信。

  エ、罪の実を刈り取ること=神様とのよい関係を失い、 ポティファルの信頼を失い、ポティファルの妻との 正しい関係も失う。

  ヨセフは苦境(くきょう)に立っても、主が共におられることを確信し、主に罪を犯すことは出来ないと言った。私たちも、主が共におられることを覚(おぼ)えて生活しよう。これは、主をおそれる者の生活である。     (続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇五〇篇一五節
  〝なやみの日(ひ)にわれをよべ、我(われ)なんぢを援(たす)けん。而(しか)してなんぢ我をあがむべし〟

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◆ 神をおそれよ(2)

   ▽主を恐れる人は、だれか。
    主はその人に選ぶべき道を
    教えられる。(詩篇二五・一二)


  〝あなたのことばを、あなたのしもべに果たし、  あなたを恐れるようにしてください。〟
         詩篇一一九篇三八節

   神様を恐れることを学ぶ目的は、知識を得るためではなく、神様を正しく恐れるためである。「あなたを恐れるようにしてください」と私たちも祈ることから始めよう。神様はお喜びくださり、その祈りにお答えくださる。神様を恐れるものと私たちはかえられるであろう。

   「神様を恐れるようになるために、あなたのことばを、あなたのしもべにはたしてください」と詩篇記者は祈っている。神様のお言葉はすべて、その通りになるということを知るならば、私たちは神様を正しく恐れることができるということだ。「神様を恐れる人は、神様のお言葉は必ずその通りになると信じている」とも言えよう。

   神様のお言葉は絶対にその通りになる、と信じていたので、「自分自身が、神様のみ言葉に背(そむ)くことがありませんように」と祈っている(詩篇一一九・一〇)。私たちは、神様のお言葉に従って生きる決意をもっているだろうか。「神様は、み言葉に従わない高ぶった者、のろわるべき者をお叱りになる」ことを確信しているだろうか(詩篇一一九・二一)。

   神様を恐れる人は、神様に叱(しか)られることを恐れて、神様から遠ざかる人ではない。神様は、

 〝正しい審判者、日々、怒る(宣告を下す)神〟
 (詩篇七・一一)

でいらっしゃるので、罪の中に生き、悪を平気で行う人は神様の裁きを恐れるべきである。しかし、イエス・キリストの身代わりの死によってすでに罪の罰から救われている私たちは、

〝私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕(した)い、砕(くだ)かれています。〟
  (詩篇一一九・二〇)

と言えるのだ。神様を正しく恐れる人は、愛に満ちた、恵み深い神様のもとにさらに近づきたいと願う者である。私たちは、神様を慕い求めているだろうか。神様の裁きを慕っているだろうか。み言葉に従って、神様のみ心の内を生きる決心をしているだろうか。

  私たちは神様のしもべであろうか。神様のみ心のために仕えることを喜んでいるだろうか。自己主張の多い、心がまだ砕かれていない者だろうか。「イエス・キリストのしもべ」と称したパウロは、キリスト・イエスの心を自分の心とした。神様を恐れる人は、

  「あなたのみこころをおこなうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから」
(詩篇一四三・一〇)

  と祈る人でもある。神様を恐れる者になりたい。祈ろう。(続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇五〇篇一五節
〝なやみの日(ひ)にわれをよべ、我(われ)なんぢを援(たす)けん。而(しか)してなんぢ我をあがむべし〟

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◆  神をおそれよ(1)

   ▽主は、主を恐れる者を
    祝福してくださる。
    (詩篇一一五・一三)


   四〇六号続いた「ロマ書の学び」は昨年末に終わった。今号より、週報は松山牧師の担当になる。この原稿を書こうとしても、一〇五〇字という限られた紙面と、教会の必要を満たすべきものと考えると先に進まない。礼拝説教テープから原稿をおこした「ロマ書の学び」以前は、四〇年以上にわたって丸山牧師が毎週、原稿を書きおろしてくださった。大きな働きだと改めて思った。週報は年に二回の休刊日と二回の特別プログラムを除いて、毎週発刊される。この働きを継続できるように祈りで支えてほしい。

   昨年は、日曜英語クラスの開始とそれに伴う日曜学校、礼拝時間の変更などがあった。クリスマス発表会も例年とは違うプログラムであった。聖書は決して時代遅れで はないし、将来も時代遅れになることはない。聖書はいつの時代も「最先端」であり、人々の必要を満たす。変わることのない神様のお言葉を宣教する方法は、時代によって変わってよい部分と変わらなければならない部分があるだろう。ただし、妥協は神様のみ心ではない。

  神様は、私たちが新しいプログラムを始める前に、一つの大切なことを教えてくださった。歴代誌Ⅱ一六章九節は、「神様が求めていらっしゃるものは、新しいプログラムではなく、神様のお心を自分の願いとする人(すなわち、神様がご自身のお力を自由に表すことのできる人)である」と教えている。私たちは、神様に信頼して力を頂くよりも、プログラム(自分たちの考え)に頼ってしまう弱さがあるので、この学びが必要であった。

   今年は、「神を恐れよ」ということを教えられている。

  ソロモン王を通して、神様は「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道の書一二章一三節)と教えてくださっている。私たちは神様を恐れているだろうか。そもそも、神様を恐れるということを正しく理解しているだろうか。

  私はボブ・ジョウンズ大学で勉強している時に、神様を恐れるのではなく、人を恐れるという失敗をした。神様に対して大変申し訳ない気持ちで一杯だった。罪を悔い改め、二度と同じ失敗をすることがないようにと神様に祈った。神様は、その罪を赦してくださり、神を恐れることについての学びをお与えくださった。

   神様は再度、この学びをするようにと導いてくださっている。人間にとって「すべてである」という神様のご命令を、次号から共に学んでいきたい。(続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇五〇篇一五節
 〝なやみの日(ひ)にわれをよべ、我(われ)なんぢを援(たす)けん。而(しか)してなんぢ我をあがむべし〟

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