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習志野バプテスト教会の週報

◆ 神をおそれよ(8)

   ▽主はすべてのものを
    ご自分の目的のために造られた
           (箴言一六・四)


  ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった。」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか。〟
     イザヤ書二九章一六節

   首記の聖句は、預言者イザヤの時代にイスラエルの民が主を恐れなかった三つめの理由を説明している。イスラエルの民は、神様が創造主であられ、支配者であられることを否定した。それ故に、彼らは主を恐れることがなかった。民は、神様が彼らの人生のマスター(主人)でいらっしゃることを望まなかった。自分の思うままに生きたいと願った。私たちはどうだろうか。創造主なる神様の私たちに対するご計画を意識しているだろうか。

  神様は、陶器師と陶器の例をお用いになった。被造物が創造主に「あなたは私の創造主ではない。故に、あなたは私の主人ではない。私の人生に口出しをしないでほしい。」ということを、「あなたがたは、物をさかさに考えている」と神様はおっしゃった。人間のそうした言葉は、創造主に対する愛と感謝の気持ちの欠如をも表している。子どもが「私は、自分で願ってこの家の子どもになったのではない」と言ったらどうであろう。自分の時間、生命を惜しむことなく愛してきた子にそのように言われたら、言葉にできないほどの大きな悲しみとなるだろう。イエス・キリストを信じ、救われるまで私たちも神様に同じことを言ってきたのだ。「あなたは私の創造主でも、神でもない。私は救いなど必要ない」と。

  イザヤ書二九章一三~一六節を学んで分かることは、もし私たちが主を正しく恐れているならば、

  【①主を愛し、主に私たちの持てる最高のもの、すなわち私たちの心をささげたいと願う。
 ②神様は大いなるお方でいらっしゃり、すばらしいことをしてくださることを信じる故に、神様に近づくことを願い求め、神様の知恵と助けをもとめる。言い換えると、神様と神様のお力を信じる。
 ③主と私たちの関係を正しく理解し、創造主のお導きを喜び、それに従う。】

  ということだ。私たちは主を恐れているだろうか。そのように願っているだろうか。

  『国語辞典』(旺文社)の説明を見てみよう。

  【恐れる・△畏れる】
 ①危険などを感じて恐ろしく思う。こわがる。
 ②悪い結果になるのではないかと心配する。気づかう。
 ③敬いの心を生じてかしこまる。恐縮する。

   私たちが学んでいる「主を恐れる(文語体では畏れる)」とは、③の意味(畏敬)である。   (続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇五〇篇一四節前半 
〝感謝(かんしゃ)のそなへものを神(かみ)にささげよ(なんぢのちかひを至上(いとたかき)者(もの)につくのへ)〟

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◆ 神をおそれよ(7)

   ▽「主を恐れる人は、
     主の大いなるお力を
     信じる人」

  〝ああ。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らはやみの中で事を行ない、そして言う。「だれが、私たちを見ていよう。だれが、私たちを知っていよう。」と。〟
          イザヤ書二九章一五節

  イザヤが神様にお仕えした当時のイスラエルの民は、神様を恐れているように見えたが、形だけのものであった。神様に対する愛、畏敬の思いがなかったのだ。首記の聖句から、イスラエルの民の心に主を恐れる思いがなかった別の理由を学び、私たちの反面教師としよう。

    第一に、彼らは自分たちの思いを主にゆだねることがなかった。なぜ、全てをご存じでいらっしゃり、私たちに良いことをご計画くださる主に、導きを求めなかったのか。彼らは、「自分たちの方が神様よりも知恵があり、自分たちのために良い計画をたてることができる」と考えていたのだろう。

  悪いことだと知っていながら、どうしても自分の思いを制御できず、神様に隠れてしようとしたのだろう。新改訳聖書の太字の主は、文語訳ではエホバであり、ヘブル語はヤハウェである。このお名前は、神様とイスラエルとの密接な関係、特に契約関係を示している、と言われる。主は独立自存であって、現在も生きておられ、人間を救い、助け、祝福し、契約を守られるお方である。次のみ言葉を心に刻もう。

  〝あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。…主はすべて心おごる者を忌みきらわれる。確かに、この者は罰を免れない。恵みとまことによって、咎(とが)は贖(あがな)われる。主を恐れることによって、人は悪を離れる〟(箴言一六・三、五、六)。 

  第二に、彼らは「神様は私たちを見てはいない」と考え、自分たちの計画を隠(かく)そうとした。イエス様は、闇の中で生活する者について次のように仰った。〝…光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。〟(ヨハネ三・一九~二〇)。

  神様を恐れたダビデとは対照的である。ダビデは、①神様のそば近くにいることを願った(詩篇八四・一〇)。②神様はいつも私をご覧下さり、困った時にはすぐに助けて下さる、と信じていた(詩篇一三九)。③神様は大いなるお方であり、すばらしい御わざをなしてくださると信じていた(詩篇八六・一〇)。

  イスラエルの民が主を恐れることがなかったのは、神様と神様のお力を信じていなかったからだ。                    (続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇五一篇一七節前半 
〝神(かみ)のもとめたまふ祭物(そなえもの)はくだけたる霊魂(たましい)なり 〟

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◆ 神をおそれよ(6)

   ▽「私は、豊かな恵みによって、
     あなたの家に行き、あなたを
     恐れつつ、あなたの聖なる宮に
     向かってひれ伏します。」
    (詩篇五・七)

  〝そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。〟
   イザヤ書二九章一三節

   神様は、預言者イザヤを通してご自分の民に、「あなたがたは私を本当には恐れていない。あなたがたの心には、私に対する愛がない。」と仰(おっしゃ)った。この時、イスラエルの民は神様を賛美し、礼拝をささげ、表面的には神様を愛し、敬っているように見えた。しかし、神様は彼らの心をご覧になっていた。〝…人はうわべを見るが、主は心をみる。〟(サムエル前一六・七)

   イスラエルの民は主を恐れていなかった。第一に、彼らは形式的な礼拝をささげていたが、彼らの「心」を主にささげていなかった。第二に、神様に対する愛と尊敬の思いはなく、「恐れなければいけない」と教えられてのことにすぎず、畏敬の思いはなかった。

   イエス様は、パリサイ人と律法学者に対して、首記の聖句を引用して次のようにおっしゃった。〝偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」(マタイ伝一五・七~九)

   ここに登場するパリサイ人と律法学者も、イザヤの時代の民と同じく、神様を心から愛することなく、形だけ神様のお言葉に従おうとしていた。ご自分の生命をもお与え下さった主イエス様に対する私たちの愛は冷え切っていないだろうか。それぞれに、心を点検しよう。

  イエス様は、「恐れる」という言葉の代わりに「拝んでも」と仰(おっしゃ)った。神様を恐れることは、礼拝と関係があるということだ。神様を礼拝することについて、首記の聖句から次のことを学ぶ。①他の人から言われてすることではない=自らの意志でするもの。②神様に近づくこと=神様の御前にでること。③神様をおそれ敬うこと=心から神様を慕い求めること。

  健康の理由や家族の介護で、礼拝に毎週は集えない方がいる。そうした兄姉にとって、日曜日に教会で兄姉とともに主を賛美し、主を礼拝できる日は、大きな喜びであり、神様に感謝をささげていることだろう。毎週集っている私たちは、礼拝が習慣的になることがないように注意をしよう。心からの礼拝をささげよう。(続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 ロマ書五章二〇節後半 
〝されど罪(つみ)の増(ま)すところには恩惠(めぐみ)も彌(いや)増(ま)せり。〟

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◆ 神をおそれよ(5)

   ▽「たとい、死の陰の谷を
     歩くことがあっても、
     私はわざわいを恐れません。
     あなたが私とともにおられます
     から。」(詩篇二三・四)
               


  二月に入った。今年の目標は守られているだろうか。守れているなら、主に感謝をしよう。目標を忘れていたなら、今日から再スタート出来るように主に祈ろう。

  先週の礼拝でロン・ホワイト博士を通していただいた神様のみ言葉を思い起こそう。「私のいのちの日の限り」というテーマで詩篇二三篇六節がテキストであった。

一、この地上での人生は短い

   〝私たちの齢(よわい)は七十年。健(すこ)やかであっても八十年。 しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。 それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。…そ れゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教え てください。そうして私たちに知恵の心を得させてく ださい。〟(詩篇九〇・一〇、一二)

    誕生日に、私は「もう七〇だ」と言ったが、神様は 「あなたは二五四〇六だ」と仰(おっしゃ)った。私たちは  「年」で数えるが、神様は「日」で数えられる。人生 は短いので、一日一日をムダにしてはいけない(伝道 の書一二・一、エペソ書五・一六参照)。

    たった一度の人生、しかもすぐに終わりがくる。キ リストのためにしたことだけが永遠にのこる。

二、地上での人生には限りがある(詩篇三九・四~五)

    「主よ教えてください」と祈ろう。①私の終わり、 私の齢がどれだけなのか。②私がどんなにはかないか。 ③私の一生は全くむなしいことを。ヨブ記一四・一、 五にも「私の日数は限られている」「私の日数は困難 で満ちる」「私の日は終わりを迎えようとしている」 とある。この地上の人生には限り(終わり)がある。 この地上に生を受けた時から息を引き取るまで、長さ よりも、どのように生きたかが重要である。

三、この地上での人生は祝福である

    主が私の羊飼いでいらっしゃるので、私は乏(とぼ)しい ことがない。しかし、全ての人が羊飼いをもっている のではない(マタイ伝九・三六)。神様の慈(いつく)しみと 恵みは私たちから離れることがない。このすばらしさを 経験しているならば、「私のいのちの日の限り…私は、 いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇二三 ・六)は私たちの強い願いになる。この地上の生命は 始まりがあり、終わりがある。永遠の生命は始まりが あるが、終わりはない。主イエス様にお仕えできる今、 愛する主のために、精一杯生きよう。証(あかし)をしよう。

     (ロン・ホワイト博士、礼拝説教要旨)

☆主を信頼する(恐れる)人は死をも恐れない。(続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 コリント前書四篇四節後半
〝我(われ)を審(さば)きたまふ者(もの)は主(しゅ)なり。〟

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