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習志野バプテスト教会の週報

◆ 積極的な愛

   ▽「私たちは、
     真理に逆らっては
     何をすることもできず、
     真理のためなら、
     何でもできるのです。」
     Ⅱコリント一三・八
          
           


  (先週からの続き)最後に、愛は相手がその愛に応じてくれない時にも相手を思いやる。愛は「怒らない」。すでに見てきたように、愛は厚い上皮をもち耐久性にすぐれている。愛はみかえりを要求しない。怒りを爆発させるまでの導火線を決して短くしないし、かっとなって自制心を失うことがない。

  誰かが失敗をしても、愛は「人のした悪を思わない」のだ。愛は罪を犯す者、失敗をする者を「価値なし」と言ってすぐに切り捨てようとはしない。愛のある、思いやり深いクリスチャンは人間の弱さを理解し、相手が受けるにふさわしくないとしてもなお、その人にとってもっとも必要なあたたかな言葉をかけ、行動をとっていく。愛は執拗に相手のあら捜しをせず、また疑念をいだかないのだ。

  〝不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、 すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。〟
    コリント前書一三章六、七節

  積極性がもつ大切なことの一つは、正しいことを喜ぶことである。パウロは、愛は「不正を喜ばずに真理を喜びます。」と書いた。悲劇、不正行為、虚偽、あからさまな悪意を喜ぶことは神様に対する罪である。真理を喜ぶとは、正しさ、誠実さ、真に霊的なことそして特に神様のみ言葉を喜ぶという意味である。

   クリスチャンから積極性と信仰に満たされた人生観を奪おうとするものがこの世にはたくさんあるし、人生はそうした出来事で満ちている。故にパウロは先手をうって、愛は「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(七節)と記した。仲間であるクリスチャンとまだ救われていない人々があなたに対していやがらせや腹立たしいことをしてくる時があるだろう。愛をもってがまんし、相手の悪意を愛でおおうということは平安で霊的な人生を維持するために不可欠なことである。

  ペテロは「愛は多くの罪をおおう」(Ⅰペテロ四・八)と書いている。ソロモンも「人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の栄光は、そむきをゆるすことである。」(箴言一九・一一)と書いている。積極的な生き方をする人は相手(人々)を肯定的にみている。相手がたとえ好意的でなくても協力的でなくてもである。愛の故に、あなたはすべてを信じるのである。もちろん、聞いたことを全て、すなわち愚かなことやいつわりも含めて全てを信じろ、という意味ではない。

  ※先週号から、スティーヴン・ハンキンズ博士の解説(Biblical Viewpoint 掲載)を翻訳したものです。(続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 コリント前書一三章四節
〝愛(あい)は寛容(かんよう)にして慈悲(じひ)あり。〟

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◆ 思いやり

   ▽「愛する者たち。私たちは、
     互いに愛し合いましょう。
     愛は神から出ているのです。」
    (Ⅰヨハネ四・七)
          
           


  〝(愛は)礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、 怒らず、人のした悪を思わず。〟Ⅰコリント一三章五節 愛はどのようにあらわれるのか、パウロは説明を続ける。首記の聖句に含まれる四つのことは、「深い思いやり」とまとめることができるだろう。「思いやる」とき、他の人々の人格、必要、そして感情を高く評価し、相手に配慮をする。

  キリストを信じる者が「礼儀に反することを」しないとは他の人の傷つきやすい感情を理解し配慮をすることだ。クリスチャンは常に他人に対して適切な態度をもつ。沈黙を守るべき時と話すべき時をわきまえる。服装(身なり)も極端に派手でも、地味でもなく、品のあるものを身につける。他の人の親切には感謝を伝え、年長者と指導者には敬意をあらわし、両親と伴侶にはいつでも尊敬と感謝の気持ちをあらわす。親しみやすく、ゲストをもてなし、悲しむ人を慰め、喜ぶ人と共によろこぶ。

  ふるまいが適切であると同時に、クリスチャンは機転のきく人である。その場の微妙な雰囲気を察知し、言うべきこととするべきことを見極める訓練をしている人だ。黙って見ていることが最善である時には、叱責することを控え、「その時」をまって、必要なことを言う。相手と自分との関係を正しく計り、また相手の性質をふまえてコメントをする。公の場で誰かが失敗をする時、その人が恥ずかしい思いをしないように配慮をする。

  「礼儀に反すること」をしないには、道徳的に正しい行動をとることも含まれる。性的関係を想像させるようなことは一切口にしないし、そぶりもみせない。性的な感情を相手にいだかせるような、肌を露出する服や、体のラインがくっきり見えてしまう服は決して着ない。

  他の人の傷つきやすい感情に配慮することに加えて、愛を身につけているクリスチャンは他の人の願いにも配慮をする。パウロは、愛は「自分の利益を求めず」と記している。「だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」(Ⅰコリント一〇・二四)とパウロは既に教えていた。

  後には「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたがキリストの貧しさによって富む者となるためです。」(Ⅱコリント八・九)とも教えている。愛は自己中心ではない。愛は常に相手にとって何がベストであるのか、そしてキリストのために何がベストなのかを考えている。(続く)

 

  ◎ 暗誦聖句は天国に関する聖句から各自で選びましょう。

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◆ イエス・キリストの愛

   ▽「私のからだを焼かれる
     ために渡しても、
     愛がなければ、
     何の役にも
     立ちません。」
    (コリント前書一三・三)
         


  〝愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。〟
    コリント前書一三章四節

   寛容は短気の正反対である。私たちをいらいらさせ、あるいは傷つける者に対して忍耐を与える。寛容とは、相手より受けた悪に対して復讐せず、その人を赦す態度である。

  「…神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ四・三二)とある。イエス様は、ご自分を侮辱する者、あざ笑う者、悪口を言う者、「十字架につけろ!」と訴える者のために、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られた。「私は彼らを赦していますから、父よ、彼らをお赦しください」との執り成しの祈りである。

  私たちは、他の人から受けた悪をなかなか忘れられないし、その人を赦すことができない。イエス・キリストは私とあなたの悪に対しても寛容であられ、救いに招いてくださった。イエス様の大きな愛に感謝しよう。そして、「あなたがたは…寛容を身に着けなさい。」(コロサイ三・一二)というお言葉に従えるように祈ろう。

   親切は相手の悪を赦すだけでなく、その人の役に立とうとして、良いことをする機会を捜す積極的な態度である。ヨセフは自分を奴隷として売った兄弟たちの悪を赦すだけでなく、彼らのために最善を尽くした。反対に、不親切は失礼、思いやりの欠如、軽率な応対、残酷さ、無関心である。

  自分に対して悪を行う者に対していらいらしないことでさえ難しいのだから、その人を赦すことは大変難しく、さらにその人に対して親切にすることは至難の業である。自分の力ではできないことを素直に認め、イエス・キリストの愛によって自己中心的で冷ややかな心が溶かされるよう祈ろう。

   愛は人を妬まず、自慢せず、高慢にならない。すなわち、謙虚な態度である。ねたみは相手を引き落とそうとし、自慢は自分を引き上げようとする。しかし、愛は他の人からの賞賛や拍手を期待しない。愛は自分を忘れる。こんなにも醜い私たちを愛し、身代わりに死んでくださったイエス様を仰ごう。

  イエス様は、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、私たちと同じようになられた。 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた(ピリピ二・六~八)。  

 

  ◎ 暗誦聖句 ヨハネ二〇章二八節
〝トマス答(こた)えて言(い)う『わが主(しゅ)よ、わが神(かみ)よ』 〟

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◆ イエス・キリストの救い

   ▽「神は、すべての人が救われて、
     真理を知るようになるのを望んで
     おられます。」
         


  〝「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来 られた。」ということばは、まことであり、そのまま 受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしら です。 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、 イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを 得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対 してこの上ない寛容を示してくださったからです。〟
     テモテ前書一章一五、一六節

  「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者」(テモテ前書一・一三)であり、罪人のかしら(第一級の重罪を犯した者)でした、とパウロは告白している。イエス様は、罪人を救うためにこの世に来られた、とは驚くべきことであり、私たち罪人にとってはこれ以上にない幸いな知らせである。首記の聖句は、罪が赦されるために必要なことは以下のことであると教える。

一、自分の罪を正直に認め、自分自身では罪の問題をど うすることも出来ないことを認めること。

二、神様の憐れみにより頼み、神様がお与えくださった 救いの方法に従うこと。すなわち、私たちのために苦しみをお受けくださり、十字架の上で死んで下さった イエス・キリストを「私の救い主」と信じること。

 聖書は神様のお言葉である。この聖書が、〝「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。〟と記しているのだ。受け入れよう。神様は、憐れみに富んだお方でいらっしゃり、罪を悔い改める者に対しては「あなたの罪は重すぎるので、救えません。」とはおっしゃらない。  

「こんな大きな罪を犯した自分は、救われるはずがない。罪がゆるされるはずがない。」と絶望している人がいるならば、パウロの救いを考えよう。クリスチャンを縛り、暴力を加えるほどの激しい迫害をしたパウロであったが、イエス・キリストは彼をもお救いくださった。パウロは「罪人のかしらである私が救われたのだから、救われることができない人は、いない」と証している。イエス様ご自身が、そのことの証明としてパウロを「見本」になさったのだ。

  イエス様の十字架上での身代わりの死を信じる者は、神様を無視する傲慢で自己中心の罪の性質、およびこれまでの全ての罪をゆるされる。罪を完全におゆるしくださる神様は、キリストを信じる者をご自分の子どもとしてくださり、永遠の生命と一切の霊的祝福をお与えくださる。イエス・キリストをあなたの救い主と信じよう。

  クリスチャンはこのすばらしい福音を出来るだけ多くの人に証しよう。今週、あなたにとって一番大切な人の救いのために特に祈り、証が出来るように祈ろう。

 

  ◎ 暗誦聖句 テサロニケ前書五章一七節
 ”絶(た)えず祈(いの)れ”

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