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習志野バプテスト教会の週報

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◆ 愛を追い求めよう

   ▽「愛は決して
     絶えることが
     ありません。」
         (Ⅰコリント一三・八前半)
          
           


  先週、船橋聖書バプテスト教会の開拓四五周年記念集会がもたれ、私たちも午後の賛美集会に合流しました。船橋教会から記念誌をいただきました。出席出来なかったかたは是非ご覧ください。流山伝道所のために更に祈りを積み、習志野バプテスト教会のために祈りを積んでいきましょう。来年一一月には、NBCの教会創立五〇周年を迎えます。

   神様は、BJU日本宣教チームを通して豊かな祝福をお与えくださいました。主イエス様の御名を崇めます。BJUチームの集会を通して来会なさった方々のために、続けて祈りましょう。皆さまの主にある交わりと愛によって、BJUチームの一人一人もNBCでの時間を、主イエス様に感謝していました。彼らのこれからの人生にとっても大きな意味をもつ滞在だったようです。一一月三〇日~一二月二日までジリスピー一家(一一人家族による音楽隊)をお迎えする予定です。その時も応援をお願いいたします。

   神様は、ジェレミー・パターソン先生を通して、私たちに必要なメッセージ(ルカ伝一〇章二五~三七節)をお語りくださいました。お休みだった方は五月一三日の礼拝と午後の集会の録音をお聞きください。私の心に強く残っている一つは、「人々はクリスチャンをみて、キリスト教とはこういうものかと理解する。この世の人々は、私たちの生活から何を見ているだろう。そして本当は、何を見るべきだろう。」ということです。良きサマリヤ人に見る愛を私たちも追い求めていきましょう。

   四月一五日号から、コリント前書一三章の愛について学んでいます。四~八節を暗記したくて、それから毎日、英語と日本語で四~八節を読んだり、書いたりしていますが、なかなか覚えられません。実践するのはもっと難しいです。だからこそ、パウロは、一三章の教えを終え、再び、霊の賜物について話をはじめる前に「 愛を追い求めなさい。」(Ⅰコリント一四・一)と 繰り返して、命じているのでしょう。少しずつであっても、キリストの愛を実践できるように祈り求めていきましょう。コリント前書一三章の四~八節をぜひ暗誦しましょう。

  〝4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 6 不正を喜ばずに真理を喜びます。7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。8 愛は決して絶えることがありません。〟

 

  ◎ 暗誦聖句 詩篇五一篇一〇節
〝ああ神(かみ)よわがために清(きよき)心(こころ)をつくり わが衷(うち)になほき霊(みたま)をあらたにおこしたまへ〟

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◆ 愛は聖化のゴール

   ▽「愛を追い求めなさい」
     (Ⅰコリント一四・一前半)
       
           


  ☆愛は聖化の過程のゴール(Ⅰコリント一三・一一~一三)

  人が大人になっていくと、子どもっぽいことをやめるように(一一節)、信者はある日、聖書に記されている啓示を理解するための努力をしなくてもよくなる。

  〝今、私たちは鏡にぼんやり映(うつ)るものを見ていますが〟(一二節前半)とあるように、信者は主イエス様を深く知ろうと最大限の努力をしても、今はそれがかなわない。一世紀のクリスチャンが得(え)た、主のお姿を拝するといった特別な経験は出来ない。このような理解度のために、信者は部分的に、そしてゆっくりとしかキリストのお姿に似る者として変えられていかない。「キリストのお姿に似る」とは、神様と、他の人をもっと深く、より完全に愛するようになることであり、愛でいらっしゃる神様のご人格に似る者となることである。

  ある日、このゆっくりとした「部分的な聖(せい)化(か)」は終わる。神様が私たちの心を完全にご存じであるように、私たちも愛に満ちた神様のお心を完全に知るようになるのだ。

  〝その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。〟(一二節後半) これこそ、聖化のクライマックスである。その瞬間、その信者は、「新しい生命」に移され、最も純粋な感覚で「愛」を経験し、また表現するようになる。信者は、神様を信じてこの永遠の時を待ち、贖(あがな)われた者に与えられる「永遠の祝福」を期待してきたのだ(一三節)。

  コリント前書一三章の「愛」は、神様のご栄光と、他の人の益のために自分自身を喜んで最大限に犠牲にすることの選択である。愛は、クリスチャンがこの世で生きていくうえで欠くことの出来ないものであり、その他すべての一時的および霊的プロセスのゴールである。愛は、人間に示された、神様ご自身のご性質のもっとも純粋なあらわれである故(ゆえ)に、絶(た)えることがない。

  パウロもヨハネも「愛は最もすばらしいものであり、全(すべ)ての中心である」ということをクリスチャンに繰り返し教えている。パウロはコロサイ書三章一四節で〝そして、これらすべての上に、愛を着(つ)けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。〟と記した。クリスチャンの美徳(びとく)のすべてを完全な調和をもって束(たば)ねるのが「愛」である。

  愛こそ、均衡(きんこう)のとれた健全(けんぜん)な人格をもつための鍵(かぎ)である。ヨハネは〝愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。〟(Ⅰヨハネ四・七~八)と記した。

  【BIBLICAL BIEWPOINT (一九九八年四月号)に掲載された、スティーヴン・ハンキンズ博士の解説終わり】

 

  ◎ 暗誦聖句 テモテ前書二章四節
〝神(かみ)は凡(すべ)ての人(ひと)の救(すく)はれて、眞(しん)理(り)を悟(さと)るに至(いた)らんことを欲(ほっ)し給(たも)ふ。〟 

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◆ 消えていくものと永遠に続くもの

   ▽「愛を追い求めなさい」
     (Ⅰコリント一四・一前半)
     お母さんの愛に
     感謝の気持ちを
     伝えよう
           


  愛の章を締めくくるこの区分(八~一三節)は、時間的制約のもとにある二つの重要な過程を示している。この世にあって愛を促進させるための僕である信者にのみ与えられる過程である。一つは、啓示が与えられる過程であり、もう一つは、聖化の過程である。この二つのゴールは愛である。 この章の最後(一三節)に、クリスチャンの心を支配する、もっともすぐれた愛と、信仰と希望との関係が記されている。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」

  ☆愛は啓示が与えられていく過程のゴール(八~一〇節)

  預言(預言者を通して神様から直接に与えられる啓示)、異言(解き明かす人がいるならば、神様からのメッセージを人々に伝えることが出来た、超自然的な霊の賜物)、知識(これまでに与えられた黙示を理解する力)はみな、神様のご性質とご意志を理解する大切な手段であった。しかし、預言、異言、知識はすべて一時的なものであり(八節)、神様のご性質とお心を部分的に知ることが出来るものにすぎない。パウロは「私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。」(九節)と言っている通りである。

  神様を理解するための一時的、かつ部分的な手段であるこれら三つのうち、もっとも議論を呼んでいるのが異言である。近代の異言に関することを含め、異言についてカリスマ運動がもたらした神学的混乱と非聖書的な教えに関しては詳しく、しかも分かりやすく、ポイントを押さえた論文が多く書かれているので、ここでは簡単に三つのことに触れておこう。

  ①異言という霊的賜物は、超自然的に外国語を話す力であり、未信者に対するしるしであった。また、教会の創生期において、神の民に啓示が与えられる手段でもあった。聖書は、異言について明確に教えている。使徒二・四~一一、エペソ二・一九~二二、Ⅱコリント一二・一二、ヘブル二・三~四を参照せよ。

  ②異言は、数多くある霊的賜物の一つにすぎない(新約聖書には五ヶ所で、一九の霊的賜物が記されている)。すべての信者が異言の賜物を与えられたとは記されていないし、異言の賜物は救いの確証でも、御霊に満たされることのしるしでもなかった。

  ③「異言ならばやみます」(八節)の動詞「やみます」は中態(ギリシャ語には、能動態、受動態、中態がある)で、何か外部の影響で消滅するのではなく、自ら自然に消滅していくことを示している。

  【ハンキンズ博士解説より】(続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 テモテ前書二章四節
〝神(かみ)は凡(すべ)ての人(ひと)の救(すく)はれて、眞(しん)理(り)を悟(さと)るに至(いた)らんことを欲(ほっ)し給(たも)ふ。〟 

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◆ 積 極 的 な 愛(二)

   ▽「すべてのことを、
     つぶやかず、疑わずに
     行ないなさい。」
     ピリピ二・一四
          
           


  (先週の続きで【S・ハンキンズ博士解説】から)
「すべてを信じる」という意味は相手に関していつも最善を信じ、別の人が言いふらしている誹謗や中傷を信じないことである。罪に対する訴えは、うわさではなく、二人か三人の正式な訴えがある場合にのみ、取りあげるという原則(Ⅰテモテ五・一九参照)にクリスチャンは従うべきである。

  クリスチャンから積極性を奪うかもしれない別のことは、私たちの願い通りに計画が進まない、あるいは期待はずれな事がおこる、ということである。故に、愛に満ちた生活をおくりたいと願うクリスチャンは、「すべてを期待」しなければならない。望み通りに物事が進まなくても失望せず、悲観的にならず、ぼんやりとしない。「もう、努力しても無駄だ。何一つ変わりはしない。思うようには何一つならない。」とつぶやくことはしない。

  難しい状況におかれ、状況は更に悪くなることしか考えられない時、そのプレッシャーは大きく、クリスチャンから相手を思う心遣いや、与えようとする心を奪ってしまう可能性がある。そうであると、フォーカスは自分の内面にむかい、自己憐憫(れんびん)におちいってしまう。それ故、使徒パウロは、愛に満たされたキリストの弟子はすべてを耐え忍ばなければならない、と命じた。キリストを信じる者が、主に従う決心をし、状況がどんなに悪くてもそこにとどまり続けると決めるならば、聖霊なる神様は助けてくださる。正しい働きのためであるならば、どんな困難をも耐えぬく力を信者にお与えくださるのだ。

  〝愛は決して絶えることがありません。預言の賜物なら ばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすた れます。 というのは、私たちの知っているところは 一部分であり、預言することも一部分だからです。

  完全なものが現われたら、不完全なものはすたれま す。私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

  今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が 完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 〝こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 〟 コリント前書一三章八~一三節
       (続く)

 

  ◎ 暗誦聖句 テモテ前書 二章四節

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