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習志野バプテスト教会の週報

◆ 信仰の実践

   ▽「信仰は望んでいる事がらを
     保証し、目に見えないものを
     確信させるものです。」
    (ヘブル一一・一)

         


   家庭、職場、学校、地域のなかで生きていれば、何かしらの問題にぶつかる。そんな時、「自分が直面している問題について、聖書はどのように教えているのか」という思いで聖書を学んでみよう。聖書の読み方が変わってくるだろう。自らの意志で読むのだから、楽しくなる。しかも、神様があなたに必要なみ言葉をお与えくださり、これまで気がつかなかった真理を知る喜びも与えられる。神様が生きておられること、あなたを愛してくださっていることもわかり、もっと聖書を読みたくなる。神様との関係は強められ、神様への信頼は強められていく。    

 ①あなたの心にある重荷(おもに)、②あなたから喜びをうばっていること、③あなたが直面している問題を紙に書いてみよう。聖書がそれらについて何と教えているのかを調べてみよう(参照・Ⅱペテロ一・三、コロサイ二・三、マタイ七・七)。どこを読めばよいのか検討がつくなら、紙と筆記用具をもって聖書を読もう。関連する聖句が見つかれば、引照(いんしょう)聖句を追っていこう。聖句を紙に写(うつ)し、暗(あん)誦(しょう)しよう。一つの聖句でよいから、だいたいの意味ではなく、正確におぼえよう。    

 次に、そのみ言葉に従えるように、または神様にその問題を一〇〇%委(ゆだ)ねられるように祈ろう。覚(おぼ)えた聖句を黙想(もくそう)しよう。そのテーマに関する聖句がどこにあるのか分からなければ、牧師に尋(たず)ねよう。目的を持って聖書を読んでみよう。ただし、自分の考えに聖書をあわせるのではなく、神様のみ言葉に自分が従うことを心に刻(きざ)もう。    

 夫婦の関係から、信仰の実践(じっせん)について考(かんが)えてみよう。永遠(えいえん)の愛(あい)を誓(ちか)って結婚(けっこん)をしても、互(たが)いに愛し合い、赦(ゆる)し合うことは難(むずか)しい。〝おのおの自分の妻(つま)を自分と同(どう)様(よう)に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬(うやま)いなさい〟(エペソ五・三三)というみ言葉を暗誦し、従(したが)えるように神様に助(たす)けを求(もと)めよう。    

 長く一緒(いっしょ)に生活(せいかつ)をしていると相手(あいて)のだらしのないところ、醜(みにく)いところが目につく。しかし、あなたに良(よ)いところがあるように、相手にも良いところがある。それを見つけよう。伴侶(はんりょ)の内に神様がおつくりくださったすばらしい部分を知らずに生涯を終(お)えることは残念(ざんねん)であり、悔(く)いを残(のこ)すであろう。    

 Ⅰコリント一三・四~八を暗誦しよう。愛する人との地上の別れは必ずやって来る。後悔(こうかい)しない人生をおくるために、一歩を踏(ふ)みだそう。「でも、夫婦愛の修復(しゅうふく)は難(むずか)しい」が心の声であろう。だからこそ神様の助けが必要であり、信仰を働かせる最大の場である。多くの夫妻が問題を抱(かか)えているのだから、大きな証(あかし)となるだろう。    

   

  ◎ 暗誦聖句  テサロニケ前書五章一七節
〝絶(た)えず祈(いの)れ〟

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◆ 不信がもたらす結果

         ▽ 「イエス・キリストに
         信頼する者は、
         失望させられる
         ことがない。」
         (ロマ一〇・一一)

         


  〝…不信(ふしん)の罪を犯(おか)し、私たちの神、主(しゅ)の目の前に悪を行ない、この方を捨て去って、その顔を主の御(み)住(す)まいからそむけ、背を向けたからです。 〟Ⅱ歴代誌二九章六節    

 首記の聖句は、神様に対する不信感が招く結果を示している。神様のお約束に対する疑いは、神様の存在を否定し、神様を恐れることがないために罪を犯し、自分勝手な生き方へと導く。神様を信じない罪は、悲劇(ひげき)を招く。    

 私たちは、日常生活の中で、多くのことを信じている。例えば、水道の蛇(じゃ)口(ぐち)をひねれば水が出ること、電気のスイッチを押せば明かりがつくことを疑わない。毎日の生活で、実際にそのことを見ているからである。    

 〝彼(イエス・キリスト)に信頼(しんらい)する者は、失望(しつぼう)させられることがない〟(ロマ一〇・一一)、〝求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです〟(ヨハネ一六・二四) といったお約束やご命令が与えられている。    

 私たちは、毎日の生活でみ言葉に生きることが必要である。よく考えてみれば、壁にあるボタンを押すだけで、部屋の電気がつく流れを正しく理解してはいないだろう。でも、暗くなればボタンを押し、電気をつける方法を知っているのである。    

 私たちクリスチャンが、「イエス様におまかせすれば大丈夫」、「神様に必要なものを求めるならば、神様が必要を満たしてくださる」ということを、蛇口をひねれば必ず水が出ること以上に、確かなこととして信じることは出来ないのであろうか。もし、私たちが生活の中で、み言葉を実践(じっせん)するならば、神様のみ言葉は必ずその通りになる、ということを自分の経験として知ることが出来る。    

 〝 何も思い煩(わずら)わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願(ねが)いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい 〟(ピリピ四・六)を読んだなら、「そうは言っても」とか「でも」とか言わずに、神様のお言葉なのだから、信じて実践してみよう。神様はみ言葉をお守りになる方だと確信でき、神様への信頼が強められ、さらに大きな問題に直面する時に、「神様におまかせしよう。また、必ず助けてくださる」と信仰を働かすことが出来るようになる。信仰生活はいきいきとしたものに変えられていくはずだ。    

 信仰を毎日の生活で働かせよう。「神様のみ言葉は生きていて、力がある」(ヘブル四・一二)ということを毎日体験し、実感しよう。神様を疑う「不信の罪」が私たちの心に入り込む余地(よち)はなくなるだろう。    

   

  ◎ 暗誦聖句  ヨハネ伝六章三八節後半
〝(夫(それ)わが天(てん)より降(くだ)りしは、…) 我(われ)を遣(つかわ)し給(たま)いし者(もの)の御意(みこころ)をなさん爲(ため)なり。〟

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◆ なぜ疑うのか

   ▽「イエス・キリストに
     信頼する者は、失望させられる
     ことがない。」
    (ロマ一〇・一一)
         


  〝というのも、私たちの父たちが不信(ふしん)の罪を犯し、…〟
        Ⅱ歴代誌二九章六節    

 私たちは時にウソをついてしまうことがある。それにもかかわらず、他人に信じてもらえない時、悲しく辛(つら)い思いをする。つねに真理(しんり)をお語りになる神様を信じない人間は、どれほど神様を悲しめているのだろう。逆に、神様のお言葉を額面(がくめん)通りに信じて、神様によりたのむ人をどれほど神様は喜ばれることだろう。    

〝信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。 〟       ヘブル一一章六節    

 病気や介護で思うように奉仕が出来なくても、献金が出来なくてもがっかりしてはいけない。神様のお約束を信じて、神様によりたのんで生きているならば、神様はあなたの信仰をご覧になり、喜んでくださるのだ。    

 あなたは、神様のお言葉を額面通りに信じ、神様によりたのんで生活しているだろうか。「神様は生きておられる。御子イエス様の身代りの死によって私をお救い下さった神様は、私の求めに必ずお答え下さる」という信仰がなければ、立派なことをしていても、神様は決して喜ばれない。    

 私たちは神様を信じ、神様を否定することはない。しかし、人生に試練が襲(おそ)ってくる時、「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント一〇・一三)というお約束を額面通りに信じることが出来ない時がある。ご自分の命をお捨てになるほど私たちを愛してくださった方を思い出そう。私たちと共にお住まいになる助け主(聖霊)は、イエス・キリストのお言葉を思い出させてくださる。静まって神様のお約束を黙想(もくそう)しよう。    

 イエス様のお言葉を信じて水の上を歩き出したペテロは、主から目をそらした瞬間(しゅんかん)に風を見、おそれて沈(しず)みかけた。「主よ。助けてください」と叫ぶと、イエス様はペテロを助けられ「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われた。イエス様から目を離すことがないように、神様のみ言葉をいつも口ずさもう。神様が下さっている他の多くの約束を教えていただこう。人生の嵐に、心が乱(みだ)される時、イエス様のお言葉を思い出そう。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」この言葉には「私を信じなさい。そうすれば大丈夫だ。」という意味が込められている。イエス様を信頼しよう。    

   

  ◎ 暗誦聖句  ヨハネ伝六章三八節前半
〝夫(それ)わが天(てん)より降(くだ)りしは、我が(わ)意(こころ)をなさん爲(ため)にあらず、〟

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◆ 生ける神の宮

         ▽「…何をするにも、ただ
         神の栄光を現わすために
         しなさい。 」
         (Ⅰコリント一〇・三一)
         


  〝あなたがたの父祖(ふそ)の神(かみ)、主(しゅ)の宮(みや)を聖別(せいべつ)し、聖(せい)所(じょ)から忌(い)まわしいものを出(だ)してしまいなさい。〟
    Ⅱ歴代誌二九章五節    

 ヒゼキア王の父アハズは、ダマスコの神々にいけにえをささげるために祭壇(さいだん)をつくり、主の宮においた。アハズは、「アラムの王たちの神々は彼らを助けている。この神々に私もいけにえをささげよう。そうすれば私を助けてくれるだろう。」(Ⅱ歴二八・二三)と考えたのだ。    

 日曜の朝、あなたが礼拝堂に入ると、いつもの講壇がなく、あやしげな偶像とそのための祭壇がおかれていれば、びっくりすることだろう。エルサレムにあった神殿で実際におこったことである。「神様がおきらいになる物を教会から出し、主の家を聖別しよう」と私たちは言わなければならない。    

 イエス・キリストを信じ救われた者は、「聖霊の宮」(Ⅰコリント六・一九)、「神の宮」(Ⅱコリント六・一六)である。宮や神殿と訳されているギリシャ語は、ヒエロンとナオスという二つの言葉である。ヒエロンが神殿全体を指すのに対して、ナオスは祭司以外は入ることの出来ない聖所と大祭司しか入ることの出来ない至聖所を指すという(『新聖書辞典』六五六頁)。    

 既述の「聖霊の宮」「神の宮」はどちらもナオスである。すなわち、クリスチャンの体は神の聖所、至聖所である、という意味である。聖霊なる神様が内住(ないじゅう)なさるのだから、その意味がよくわかる。故にパウロは、「自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(Ⅰコリント六・二〇)とすすめ、〝汚(けが)れたものに触(ふ)れないようにせよ〟との神様のご命令を思い出させ、神の宮と偶像の宮がいかにかけはなれたものかを強調した(Ⅱコリント六・一六、一七)。    

 私たちの心の内に、神様がお嫌いになるもの、忌まわしいものはないだろうか。「悪いことをする者は光を憎(にく)み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」(ヨハネ三・二〇)と記されている。もし、聖書を読むこと、祈ることを避けている理由が神様に近づいて、自分の罪が示されるのが恐(こわ)いためなら、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ一・七)という神様のお約束を信じて、神様に近づこう。    

 聖霊なる神様が私たちの心をご支配くださり、忌まわしいものを取り除いて下さり、私たちが神様のみ心をおこなうことが出来るよう導き助けて下さいますようにと祈ろう。    

  ◎ 暗誦聖句  ルカ一一章一節
〝主よ、祈ることを我らに教え給え。〟

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◆ きよい生活

   ▽「どのようにして若い人は
     自分の道をきよく保てるでしょ
     うか。あなたのことばに従って
     それを守ることです。」
         


  〝レビ人たち。聞きなさい。今、あなたがたは自分自身を 聖別(せいべつ)しなさい。〟      Ⅱ歴代誌二九章五節    

 イスラエルの民とアロンが金の子牛を造って堕落(だらく)した時、「だれでも、主につく者は私のところに」とのモーセの呼びかけに従って、神様の側(がわ)に立ったのがレビ人であった(出エジプト三二章)。荒野(あらの)の生活の間中、レビ人たちは、幕(まく)屋(や)の奉仕、契約(けいやく)の箱の運搬(うんぱん)、聖所(せいじょ)での奉仕(ほうし)にあたった。    

ソロモンの息子(むすこ)レハブアム王の時に、王国は北(ヤロブアム王)と南(レハブアム王)に分裂(ぶんれつ)した。ヤロブアム王は主の祭司とレビ人から職(しょく)を取り上げ、偶像礼拝(ぐうぞうれいはい)のために自分たちの祭司を任命(にんめい)した。主の祭司とレビ人は自分たちの放牧地(ほうぼくち)と所有地(しょゆうち)を捨てて、レハブアム王のもとに来て、神様に忠誠(ちゅうせい)を尽くした。レビ人たちの神様への忠実(ちゅうじつ)さを私たちも持てるように祈り求めよう。    

 祭司はレビ人の中から任命された。Ⅰペテロ二・五でクリスチャンは「聖なる祭司としてイエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」と命じられている。故に、首記(しゅき)の聖句は、クリスチャンへの命令でもある。祭司の聖別(せいべつ)については、出エジプト二八、二九章を学ぼう。イエス・キリストの十字架の御業(みわざ)をより深く理解(りかい)することが出来る。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Ⅰヨハネ一・七)というお約束をしっかりと心にとめよう。    

 すべての罪を赦(ゆる)された私たちではあるが、これまでの罪深(つみぶか)い生活ではなく、清(きよ)い生活をおくるためにはどうしたらよいのだろう。    

 光であられる神様と日々交わることである。神様のみ言葉を読み、理解(りかい)し、従(したが)うことである。神様は、み言葉を通して、私たちの欠けたところ、弱いところ、罪をお示しくださる。それと同時に、清めの方法と罪に打ち勝つ力をもお与え下さる。み言葉によって養(やしな)われよう。「私に必要なみ言葉をお与え下さい。そのみ言葉を信じ、従えるようにお助け下さい。」と祈り求めよう。昼も夜もみ言葉を口ずさもう(詩篇一・二、ヨシュア一・八)。 次に、この世の罪で自分の「身(み)を汚(けが)すまいと心を定め」よう(ダニエル一・八)。もし今、罪に負けているならば、神様にその罪を告白(こくはく)し、悔い改め、赦(ゆる)しと清めをいただこう。罪の力に打ち勝つ力を神様に求めよう。    

〝もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実(しんじつ) で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から 私たちをきよめてくださいます。〟Ⅰヨハネ一章九節    

   

  ◎ 暗誦聖句  ヨハネ伝一六章二四節
〝求(もと)めよ、然(さ)らば受(う)けん〟

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