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習志野バプテスト教会の週報

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◆ 教会創立四九周年にあたって

    ▽キリストは〝教会を愛し、
     教会のためにご自身を
     ささげられた〟
     (エペソ五・二五)

         


  〝…あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたし の教会を建てます。…〟      

マタイ伝一六章一八節 首記の聖句が意味することが何なのか、何世紀にもわたって議論(ぎろん)された。ローマ・カトリック教会は、「『この岩』とはペテロである。イエス様は、ペテロを土台としてご自身の教会(カトリック教会)をお建てになると言われたのだ」と説明する。    

しかし、「ペテロ」はペトロスというギリシャ語で、一つの岩を意味し、「この岩」はペトラであり、家を建てることが出来るような大きな床岩(とこいわ)を意味する。故に、「この岩=ペテロ」とするローマ・カトリック教会の説明は正しくない。さらに、「 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」(エペソ二・二〇)というみ言葉から、ペテロだけが、特別な権威(けんい)を持っていたのではないことがわかる。では、「この岩の上に」とは、どのような意味であろうか。    

 ステュワート・カスター博士は、「『この岩』を、キリストご自身のことと説明する人がいるが、この聖句は、イエス・キリストが教会をお建てになることを教えている。使徒たちの教え、伝道という土台の上に教会は建てられていく、というのがより良い説明であろう」とマタイ伝注解書(ちゅうかいしょ)に記している。ペテロは、イエス・キリストの福音を曲げることなく人々に語った【ペンテコステの日(使徒二・一四以降)、コルネリオの家族に(使徒一〇・三四以降)】。パウロは、〝あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石(そせき)〟であると教えた。使徒たちの教えと伝道は、十字架につけられたキリスト(Ⅰコリント一・二三)についてであった。    

 首記の聖句から二つのことを学ぶ。①教会建設は、人間の業(わざ)ではなく、イエス様のみ業(わざ)である。②「この岩の上に」が「使徒たちの教えと伝道の上に」の意味であるならば、教会は託(たく)されたイエス・キリストの福音を曲げることなく、語り続けなければならない。    

 習志野バプテスト教会の最初の礼拝は、一九六二年一月七日にもたれ、最初の週報は翌週の一月一四日に発刊された。習志野の地に、イエス・キリストの福音の種がまかれはじめた。イエス様を信じて救われる人が教会に加えられ、一九六三年一一月三日、八人の教会構成員をもって、「習志野バプテスト教会」が正式に組織された。ご自身の尊い血をもって贖(あがな)われた、イエス様の教会である。この四九年間、イエス様は、習志野バプテスト教会をお支え下さり、豊かに祝福してくださった。主イエス・キリストの御名を高らかに誉(ほ)め讃(たた)えよう。そして、これからもイエス様に忠実に従っていく決心をしよう。    

   

  ◎ 暗誦聖句 マタイ伝七章七節
〝求(もと)めよ、さらば與(あた)へられん。〝

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◆ 罪のためのいけにえ

         ▽「神は、罪を知らない方
         (キリスト)を、
          私たちの代わりに
          罪とされました。」
          (Ⅱコリント五・二一)
         


  〝それから、彼らは王および集団の前に、罪のためのいけにえとする雄やぎを引いて来て、それらの上に自分たちの手を置いた。 それから、祭司たちはこれらをほふり、その血を祭壇にささげて、罪のためのいけにえとし、全イスラエルのために贖いをした。全焼のいけにえと罪のためのいけにえを、王が全イスラエルのために命じたからである。〟
    Ⅱ歴代誌二九章二三、二四節    

 全イスラエルが直面していた問題は、神様への不信と背信の罪によると知っていたヒゼキヤ王は、神様との関係を回復することを願った。王の命令によって、祭司、レビ人は、自らを聖別し、宮をきよめ、罪のためのいけにえをささげようとしていた。雄牛、雄羊、子羊を七頭ずつほふり、それらの血を祭壇に注いだ。    

 そして最後に、雄やぎを引いてきた。祭司たちは、雄やぎの上に手を置いて、ほふった。手を置くことは、いけにえの上に全イスラエルの罪が転嫁し、その動物が罪を負って、身代わりに死ぬことを意味した。律法によれば、すべてのものは血によってきよめられ、血を注ぎ出すことがなければ罪の赦しはなかった(ヘブル九・二二)。    

 旧約時代であっても、罪のいけにえをささげるだけで罪が赦されたのではない。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心」(詩篇五一・一七)であり、そのいけにえを神様は喜ばれるからだ。罪を悔い、神様の御前に砕かれた心でささげた罪のためのいけにえは神様に受け入れられた。ヒゼキヤ王と民は、神様に近づくことがゆるされた。    

 目に見える問題を解決するよりも、その問題を生み出す原因を解決することの大切さを、ヒゼキヤ王から学ぶ。    

神様との関係をそれぞれに確認しよう。神様と共に歩んでいるだろうか。神様との交わり(聖書を学び、祈る時間)をもち、神様のみ心の内に生きているだろうか。    

 まだ、神様の御前に自分の罪を認めて、イエス・キリストを救い主として信じていないなら、あなたがまず解決すべきことは、諸問題の根である罪についてである。キリストは、「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられた」(ヘブル九・一二)。    

 罪を知らないイエス・キリストがあなたの罪を負って、十字架の上で罪のいけにえとして死んで下さったのだ。罪を悔い、神様の前にあって心が砕かれているならば、イエス・キリストをあなたの救い主として信じよう。    

   

  ◎ 暗誦聖句  ペテロ前書五章七節
〝又(また)もろもろの心(こころ)勞(づかい)を神(かみ)に委(ゆだ)ねよ〝

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◆ 伝道、奉仕の前に必要なこと

   ▽「御霊に満たされなさい。」
     (エペソ五・一八)
         


〝そこで、レビ人は立ち上がった。〟
      Ⅱ歴代誌二九章一二節    

 「今、私の願いは、イスラエルの神、主(しゅ)と契約(けいやく)を結ぶことです。そうすれば、主の燃える怒りが私たちから離れるでしょう。 子たちよ。今は、手をこまねいていてはなりません。主はあなたがたを選んでご自分の前に立たせ、ご自分に仕えさせ、ご自分のために、仕える者、香をたく者とされたからです。」 という王の言葉を受けて、レビ人はすぐに従った。    

 レビ人はまず自分自身を聖別(せいべつ)し、その後、聖なる神様の宮に入った。彼らは、宮(本堂)にあった汚れたものをすべて外に運び出し、キデロン川に捨てた。次に、神様を礼拝するために必要なものを運び入れた。「アハズ王が、その治世(ちせい)に、不信(ふしん)の罪を犯して取り除いたすべての器具を整えて、聖別」(Ⅱ歴二九・一九)するために九日間を要した(一七節)。こうして主の宮は全部きよめられた。    

 すべてを御支配(ごしはい)なさり、真の王であられる神様の願いは何であろう。〝 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられ〟る(Ⅰテモテ二・四) 。〝ひとりでも滅(ほろ)びることを望まず、すべての人が悔(く)い改(あらた)めに進むことを望んでおられる〟(Ⅱペテロ三・九)。 私たちも、ヒゼキヤ王時代のレビ人のように、神様の願いをはたすためにすぐに立ち上がろう。    

 すぐに伝道や奉仕を始めたい気持ちは分かるが、レビ人にならおう。彼らはまず、自分自身を聖別した。私たちは、テレビ、ラジオ、携帯、パソコンなどのスイッチをまず切る必要があるだろう。〝私たちは生ける神の宮(聖所)〟である(Ⅱコリント六・一六)。私たちは、アハズ以上に、神様が忌(い)み嫌(きら)われるものを神の宮に持ち込むことがありうる。神様の前に静まり、わかっている罪があれば、それを悔い改めよう。伝道、奉仕をする前に、この聖別が必要である。    

 聖霊なる神様に自分自身を明け渡すなら、次にすべきことが導かれる。イエス様を知らずに、滅びに向かっている人たちの救いのために祈らずにはいられないようになるだろう。聖書を読み、神様のお心を学ぼう。    

 神様のみ言葉を通して、聖霊は最もよく導いてくださる。さらに、聖霊は、私たちに必要な一切(勇気、智恵、洞察力(どうさつりょく)、語るべき言葉、証の機会(きかい)など)をお与えくださる。証、伝道は私たちの働きではなく、神様のお働きであることを知る。私たちは神様と共に働く者であり、神様ご自身が、豊かな刈り入れを私たちに見させてくださるのだ。    
  ◎ 暗誦聖句  ルカ伝一一章一節
〝『主(しゅ)よ、ヨハネの其(そ)の弟子(でし)に教(おし)へし如(ごと)く、祈(いの)ることを我(われ)らに教(おし)へ給(たま)へ』 〝

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◆ 機会を十分にいかそう

   ▽「主のみこころは
     何であるかを、
     よく悟(さと)りなさい。」
         (エペソ五・一七)
         


  〝子たちよ。今は、手をこまねいていてはなりません。
 主はあなたがたを選んでご自分の前に立たせ、ご自分
 に仕えさせ、ご自分のために、仕える者、香をたく者
 とされたからです。〟
     Ⅱ歴代誌二九章一一節   

 アハズ王とイスラエルの民(たみ)の罪の結果(けっか)、神様の燃(も)える怒(いか)りがくだり、〝息子(むすこ)たち、娘(むすめ)たち、妻(つま)たちは、とりこになって〟いた。故に、〝今は、手をこまねいていては〟いけないとヒゼキヤはレビ人に訴(うった)えた。   

 表現(ひょうげん)は違(ちが)うが、新約聖書も同じことを訴えている。〝生まれながら御(み)怒(いか)りを受けるべき子〟(エペソ二・三)であった私たちが、イエス・キリストによって救われたのだから、「主に喜ばれることが何であるかを見分け」(エペソ五・一〇)、〝機会(きかい)を十分に生かして用いなさい〟(五・一六)と命じられている。多くの人が、イエス・キリストを知らずに、悪魔に捕(と)らえられたまま、永遠(えいえん)の滅(ほろ)びに向(む)かっている。神様の願いは、〝すべての人が救われて、真理を知るようになる〟(Ⅰテモテ二・四)ことである。そのために、愛する御子イエス様をこの世にお遣(つか)わしになった(ヨハネ三・一六)。   

 「機会を十分に生かすためには、置かれた状況を判断するために、また物事の優先順位(ゆうせんじゅんい)を正しく決めるために、み言葉を学ばなければならない。祈り、み言葉を読むこと、そして日毎に聖書の教えに従っていく時に、時を贖(あがな)うという責任を全うする力が強められていく」(フリーモン博士)。あなたの優先順位は、神様がお喜びになるものであろうか。   

 〝神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。〟(エペソ一・四)。神様は、私たちを奴隷(どれい)として酷使(こくし)するためではなく、ご自身の子どもにするために、愛をもって私たちをお選びくださった(エペソ一・五)。これほどまでに私たちを愛してくださる神様にお仕えすることを第一とするのか、自分自身の満足を第一とするのか決心しなければならない。イエス様は、今、あなたの「主」でいらっしゃるだろうか。   

 首記の聖句は、レビ人に対するものであり、香をたく奉仕が記されている。クリスチャンは、神様と世の人々の間に立つ祭司である(Ⅰペテロ二・五)。クリスチャンの大切な奉仕は、神様の御名を賛美し、人々のためにとりなしの祈りをすることである。 私たちには、毎日、しなければならないことが多くある。神様に祈り、み言葉から力をいただこう。そして他の人のために熱心に祈ろう。とくに、まだ救われていない人たちの救いのために、執り成しの祈りを続けよう。時を効果的に用いるために、優先順位を正しく決められるように神様に祈ろう。   

   

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