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習志野バプテスト教会の週報

◆ イエス・キリストの愛

   ▽「♪ああ十字架、
     ああ十字架、
     カルバリの十字架、
     わがためなり」
    (聖歌三九九番)
         


 パウロは「イエス・キリストの愛の〝広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知(じんち)をはるかに越(こ)えたキリストの愛を知ることができるよう〟」と信者のために祈った(エペソ三・一八、一九)。人知をはるかに越えたキリストの愛を、私たちはどれほど理解しているだろうか。私たちこそ、キリストの愛の広さを知るために祈る必要があるだろう。    

 パウロは「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」(コリントⅡ五・一四)と記している。キリストの愛を知ったパウロは、〝もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえられた方のために生き〟ると決心した(コリントⅡ五・一二)。私たちはどうであろう。パウロと同程度までにイエス様の愛を知ることが出来ないとしても、イエス・キリストの愛を今よりもよく知ることができるなら、私たちの人生は変わるはずである。    

 「人知をはるかに越えた」ことを簡単に理解することはできない。父なる神様の御前にひざまずき、御霊(みたま)の助けによって、神様の大きな愛を理解できるように祈ろう。〝…彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕(くだ)かれた。彼への懲(こ)らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた〟(イザヤ五三・五)を黙想しよう。    

 自分のことばかり考える心の醜(みにく)い者であり、様々な罪に汚れた私のために、どうしてイエス様は死んでくださったのだろう。「イエスなんて知らないし、信じない」と言ってイエス様を侮辱(ぶじょく)し、拒絶(きょぜつ)していた私のために、どうして身代わりとなって十字架の上で死んでくださったのだろう。イエス様の一方的な愛がその答えである。    

〝信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離 さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた 喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を 忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、 罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考え なさい。それはあなたがたの心が元気を失い、疲れ果 ててしまわないためです。〟ヘブル書一二章二、三節    

 誰かにつけられた傷と自分自身の罪のためにつけてしまった傷を見つめるのをやめよう。心が疲(つか)れ果(は)ててしまい、悲しみと後悔(こうかい)だけの人生になってしまう。私たちの全ての罪を負って、十字架の上に死んでくださったイエス様の傷を見つめよう。イエス様の愛は永遠に変わることがない(ヘブル一二・八)。   

   

◎ 暗誦聖句

(3月24日) 箴言二〇章二四節
〝 人(ひと)の歩履(あゆみ)は主(しゅ)による。人(ひと)いかで自(みずか)らその道(みち)を明(あきら)かにせんや 〟

(3月31日) マタイ伝一一章二九節後半
我(われ)に學(まな)べ、さらば靈魂(たましひ)に休息(やすみ)を得(え)ん。

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◆ 聖書が示す、聖書を学ぶ理由(8)

      ▽「私に悟りを
        与えてください。
       私はあなたの
       みおしえを守り、
       心を尽くして
       それを守ります。」
      (詩篇一一九・三四)
         


   ステュワート・カスター博士がお書きになった "Tools for preaching and teaching the Bible"(聖書を説教し、教えるために必要な道具) という本からの続き。    

 主イエス・キリストは、聖書の講解説教者の模範でいらっしゃる。主は決して無知を奨励なさらなかった。復活後主が弟子たちに現われた時、ご自身について記されているみ言葉を理解出来るようにして下さった。〝 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて〟(ルカ二四・四五)、彼らにメシヤについて預言されているみ言葉をご説明になった。弟子たちが福音を宣教するために、彼ら自身がそのみ言葉の意味を理解しなければならなかった。    

 同じように、「主が私たちにもみ言葉を悟らしめてくださるように」求めなければならない。使徒ペテロはペンテコステの日にヨエル書のみ言葉を説明し、その聖句を説き明かした(使徒行伝二・一四~一七)。使徒ペテロは明らかに、彼が主から聞いたことを説明したのである。ペテロはまた、新約聖書的説教の方法を開始した。すなわち、一つの聖句をかかげ、そのみ言葉の意味を説き明かす方法である。二〇世紀の間、この説教の方法は、テキスト説教と講解説教それぞれにとって一般的方法である。    

 聖書には、聖書を学ぶ者は他の人達よりも善良であると記している。〝ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた〟(使徒行伝一七・一一)。ベレヤのクリスチャンたちの模範は、全ての信者が神様のみ言葉を系統立てて、熱心に学ぶように励ましている。現在においても、人は神のみ心を求めてみ言葉を学び、探求する時、その人の品性は研(みが)かれて、よい人格を形造るのである。    

 聖書の中で最も心を動かされる所の一つは、使徒パウロが信仰による息子であるテモテへ獄中から書いた手紙の中にある。〝 あなたが来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙(ようひし)の物を持って来てください〟(Ⅱテモテ四・一三)。使徒パウロは長く険しい伝道者生涯を終えようとする時にも、聖なる神の御言葉を熱心に学んでいた。    

 「書物を、特に羊皮紙の物」とは、聖書か聖書に関する本に違いない。聖霊に導かれて神のみ言葉を多く記したパウロであったが、み言葉の学びは必要がないと考えなかった。死の間際(まぎわ)まで、パウロは入手可能な全ての物を用いてみ言葉を学ぼうとした。使徒パウロの誠実な学びの姿勢は、「み言葉の学びを継続すること、そしてみ言葉をより深く学ぼうと決意することは、すべての信者の責任である」と訴えている。(おわり)    

  ◎ 暗誦聖句  ペテロ前書一章三節前半
〝 讃(ほ)むべきかな、我(われ)らの主(しゅ)イエス・キリストの父(ちち)なる神(かみ)〟

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◆ 聖書が示す、聖書を学ぶ理由(7)

    ▽「人はパンだけで
      生きるのではなく、
      神の口から出る
      一つ一つの
      ことばによる」
      (マタイ伝四・四)
         


   ステュワート・カスター博士がお書きになった "Tools for preaching and teaching the Bible"(聖書を説教し、教えるために必要な道具) という本からの続き。    

 詩篇一一九篇で、記者は神様のみ言葉を学び、黙想することの祝福を繰り返している。〝 どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。… 私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。〟(一一九・九七、九九)    

 彼はみ言葉を学ぶときに得た喜びについても記している。〝あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです〟(一一九・一〇三)。彼はまた、み言葉の学びから与えられた神の導きについても語っている。〝あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です〟(一一九・一〇五)。今日の信者も、詩篇の記者と同じく、み言葉を黙想すべきである。個人的にみ言葉を学ぶことによって、信者は判断力、導き、そして喜びを得ることが出来る。    

 預言者ダニエルは御言葉を個人的に学ぶことの祝福を説明している。〝 すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃(こうはい)が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った〟(ダニエル九・二)。    

 ダニエル自身も聖霊の導きをうけ、神のみ言葉を書きしるした預言者であったが、他の預言者、エレミヤが記した神のみ言葉を学んだ。そして、神がイスラエルを七〇年のあいだ荒れ果てるようになさったことを知った。ダニエルでさえそのようにしてみ言葉を学んだのであれば、神様が私達にお与えになった目的が何であるかを知るために、み言葉を学ぶことは当然のことである。    

 イスラエル人がバビロン捕囚から解放され、イスラエルに戻った時、学者エズラは御言葉を系統立(けいとうだ)てて学ぶように指導した。〝 彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した〟(ネヘミヤ八・八)。    

 捕囚から解放された時には、イスラエル人はアラム語を話していたので、ヘブル語で書かれた聖書を理解するには少し困難があった。エズラは人々がみ言葉の意味を理解出来るように通訳をした。今日の説教者にとってこれは大きなチャレンジである。この時代にも生きていらっしゃる神のみ言葉を会衆が理解出来るように説き明かすことは大きな責任である。会衆は読まれた聖書の箇所を残念ながら理解しない場合が多い。説教者も御言葉を説明するために十分な時間を取らないことが多い。(続)    

  ◎ 暗誦聖句  ヘブル書一二章二節前半
〝信(しん)仰(こう)の導(みちびき)師(て)また之(これ)を全(まっと)うする者(もの)なるイエスを仰(あお)ぎ見(み)るべし。〟

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◆ 聖書が示す、聖書を学ぶ理由(6)

    ▽「私の舌はあなたの
      みことばを歌うように
      してください。あなたの
      仰せはことごとく
      正しいから。」
     (詩篇一一九・一七二)
         


   ステュワート・カスター博士がお書きになった "Tools for preaching and teaching the Bible"(聖書を説教し、教えるために必要な道具) という本からの続き。    

 信者が世に答えうる最もよい答えは、自分が希望をおいているみ言葉である。監督の資格のひとつは「よく教える」ことである(Ⅰテモテ三・二)。そして教えるべきことは神様の御言葉であることは明白である。    

 信者が希望をもち、大切に心に抱(いだ)いている祝福に満ちた御言葉の真理を他の人に分かちあうこと以上に他の人への祝福となることはない。人びとに信仰を分かち合えることは特権である。信者はみな和解の務めを委ねられ、キリストの大使である(Ⅱコリント五・一八~二〇)。他の人に祝福を分かちあうことは信者自身の祝福が減ることではない。なぜなら、信者の祝福は流れる小川のようなものだから。    

 他の人に祝福をもたらす時ほどクリスチャンとして強くなる時はないのである。祈りつつ御言葉を毎日学ぶことは説教者にだけ必要とされるのではない。全ての新生(しんせい)したクリスチャンが豊かな霊的祝福を得るために必要なのである。信者は、時間を無駄(むだ)にさせる色々な誘惑に囲まれている。また、数多くの異端や新興宗教の間違った教えに取り囲まれている。この世の活動や間違った習慣に呑(の)みこまれないためにも、神様のみ言葉を毎日学ぶことが必要である。    

 今日ほど、神様と交わり、神のみ言葉を黙想する静かな時間が必要とされる時はない。信者は日毎にみ言葉を黙想し、そのみ言葉の内にある神様の御心をお示し下さるように、そしてその日に必要な祝福と力をお与えくださるように祈るべきである。    

 聖書には、み言葉を学ぼうとする人に大変参考になる例が多く記されている。モーセは、将来イスラエルに民を治める王が誕生するならば、その王は聖書をよく学ばなければならないと、厳しく命じた。    

 〝彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、 自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである 〟(申命記一七・一八~一九)。    

 私たちも、一人一人自分の聖書を手元(てもと)にもち、生涯み言葉を学ばなければならないことは同じである。(続)    

☆ 聖書が示す「聖書を学ぶべき理由」を七つあげられますか。週報を読み返しながら、確認してみましょう。    

  ◎ 暗誦聖句  ヘブル書一章二節前半
この末(すえ)の世(よ)には御(み)子(こ)によりて、我(われ)らに語(かた)り給(たま)へり。〟

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