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習志野バプテスト教会の週報

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◆愛の神を見つめる(2)

▽「私たちが
  神を愛した
  のではなく、
  神が私たちを
  愛して
  くれました。」
     (Ⅰヨハネ四・一〇)
   


  God is more than enough"(神様は私にとって十分以上のお方)ジム・バーグ博士著からの翻訳    

 あなたが持っている神様の写真を教会のスクリーンにプロジェクターで映(うつ)しだせば、あなたがどれほど思いわずらいやすいのか、いかに他人を赦すことが難しく、苦い思いを持ちやすいのかを推測することが出来る。更に、あなたがどれほど容易(ようい)に落胆(らくたん)し、どれ程多くの時間を絶望への道である自己憐憫(れんびん)に使っているかも分かってしまうだろう。あなたがふしだらなことを考える性向があるかどうか、欲望にかられやすいかどうかも明らかになるだろう。これら全てのことは、あなたが神様をどのように見ているかを示す指標(しひょう)となる。    

 この学びを通して、あなたが神様をより適切(てきせつ)に見ることができるように願い、神様のご性質の中でも重要な点を短く見ていく。驚(おどろ)くほどにすばらしい神様を十分には説明できないが、あなたの神様についての見方を正しい方向に導くことと思う。信者が、神様の御言葉そのものに向かう時間を多く持つならば、神様を慕い求める魂に、神様はご自身をお示しになられる。信者は、神様をより良く知ることが出来る。    

 神様の愛という最も重要なご性質から見ていこう。多くの人は、神様が力の強いお方であることを受け入れる。特に、神様がお造りになったすばらしい被造物を見渡せば、神様のお力のすごさがわかる。しかし、私たちはあまりにもしばしば私たちに対する神様の愛を疑ってしまう。神様の愛について良く知らない信者は以下のような質問をしてしまう。    

「もし神様が私を愛しているなら、どうして私はこれほどまでに傷ついているのか」    

「私の結婚生活はなぜ上手くいかないのか」    

「罪の誘惑になぜ勝利することが出来ないのか。」    

「もし神様が私を愛しているなら、なぜ母を死なせたのか」    

「なぜ私はガンになったのか」   

「なぜ私には伴侶(はんりょ)がいないのか。」    

「もし神様が私を愛しているなら、なぜ子どもの時にひどい虐待(ぎゃくたい)を受けたのか」   

「なぜ、請求書の支払いをするお金がないのか。」    

 聖書の中で、神様の愛以上に明確に記されている神様の属性はない。しかし、人生に何かしらの問題が起こると、人はすぐに神様の愛を疑う。これは大変興味深い。神様の驚くほどにすばらしい愛を私たちが理解するために、パウロが神様の愛について記したローマ人への手紙八章から見ていこう。(続)    

   

  ◎ 暗誦聖句 (文語訳) 詩篇九一篇二節
〝主(しゅ)はわが避(さけ)所(どころ)わが城(しろ)わがよりたのむ神(かみ)なりといはん〟

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◆愛の神を見つめる

▽「人知をはるかに
 越えた
  キリストの愛を
  知ることがで
  きますように。」
  (エペソ三・一九)

   


  "God is more than enough"(神様は私にとって十分以上のお方)ジム・バーグ博士著から    

「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 …しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 」
     ローマ八章三一、三二、三七節    

 子どもや孫をもつ人の多くは、愛する彼らの写真を財布や携帯電話のデータに入れて持ち歩いている。誰かに家族について聞かれると、写真を見せて話をしたいのだ。同様に、しかし異なった理由で、私たちは心の中の「財布」に神様の写真を入れて持ち歩いている。それは私たちにとって最も大切なものである。A.W.トウザーは、"The Knowledge of the Holy(邦訳は『神の再発見』)"というすばらしい本の中で次のように言っている。    

 神様について考え、心に浮かぶことは、私たちにとって最も大切なことである。……もし私たちが「神様について考えると、どんなことが心に浮かぶか」という質問の答えを正確に引き出せるなら、その人の霊的未来を正しく予測することは難しくない。……神様について正しい信念を持っている人は、この地上で起こりうる多くの問題から解放される。なぜなら、その人は人生の諸問題に心を奪われることがなく、本当の問題は、神様に信頼するか否かであると気付いているからである。    

 人間の心が傾きやすい罪の中で、偶像崇拝ほど神様に忌(い)み嫌(きら)われるものはないだろう。というのは、偶像崇拝の罪の根は、神様のご人格に対する誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)であるからだ。偶像崇拝者の心は、神は神ご自身以外のものだと決めつけている。これ自体が大きな罪である。さらに偶像崇拝者は、真の神様に加えて、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物を神として拝んでいる。……偶像崇拝とは目に見える対象の前にひざまずいて礼拝をささげるだけのことで、文明人には関わりのないことといった誤った考えを、プライドの故に受け入れることがないように注意しよう。    

 偶像崇拝の本質は、神様についてふさわしくないことを考え、楽しむことである。    (続く)    

   

  ◎ 暗誦聖句 (文語訳) ロマ書一〇章一三節 
〝すべて主(しゅ)の御名(みな)を呼(よ)び求(もと)むる者(もの)は救(すく)はるべし〟

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◆聖書を読み、学ぶことを習慣に

▽「純粋な、
  みことばの乳を
  慕い求めなさい。」
      (ペテロの手紙第一
        二章二節)
  


  【ジム・バーグ博士の著書 "God is more than enough"(神様は十分以上のお方)の一二章の一部を翻訳したもの】    

 み言葉を読むことは準備運動でありストレッチである。それほど努力しなくても多くの大人は聖書を一年に一度通読できる。通読は聖書の深い学びではないし、み言葉の黙想でもない。通読は正に最初の一歩だ。み言葉を読むことは準備運動で、集中力と理解力の筋肉をストレッチする。み言葉を学び、熟考(じゅっこう)すること、すなわち黙想することが本当の運動にあたる。    

 身体の運動と同じく、最初は少しだけ聖書を読み、少しだけ学ぶかもしれない。ラケットボールを始めたばかりの私は、ボールを追ってコートを走ったが上手くいかず、とても格好(かっこう)が悪かった。同じように、聖書を読み、その意味を考えても、意味不明で、最初は上手くいかないかもしれない。毎日聖書を読み、その意味を考える習慣(しゅうかん)がない人には、以下の簡単なヒントが聖書通読を始める助けになるだろう。    

 聖書を読む時間を決める。一日の最初に霊的なことを考えるのが良いと考える人が多い(詩篇五・三)。    

 一人になる。可能なら、人やパソコン、携帯等に気が散らされないよう、一人になろう(マタイ六・六)。    

 ペンと紙を用意する。箴言一〇・一四は「知恵のある者は知識をたくわえ」と教える。神様がみ言葉から差し示してくださる時に、それを書きとめよう。    

 神様とあなたとの静かな時間に次の要素を含めよう。    

●聖書を読む。読む前に、必要なことをお示しください、と神様に祈り求めよう(詩篇一一九・一八)。毎日、適当に読まないように通読表に従おう。通読表に加えて箴言を一章(その日付の章)を読めるならば、大きな助けとなるだろう。神様が、あなたに必要なことをお示しくださるまで聖書を読もう。聖句とその聖句から教えられたことを書きとめよう。み言葉によって罪が示されるなら、その罪から離れたいというあなたの決意を紙に書き、神様に罪を告白し、罪の力、誘惑(ゆうわく)に勝てるように祈り求めよう。神様はみ言葉を用いて私たちを清めてくださる(ヨハネ一五・三)。み言葉の通読で神様がお示しくださった真理の故に、神様に感謝をささげ、そのすばらしい御言葉とあなたが学んだ真理を、他の人に分け与えよう(Ⅰヨハネ一・三)。    

●祈る。P.R.A.Y.(祈れ)という言葉の頭文字が意味することを考えながら、祈りの日記をつけよう。    

 Praise=神様を誉(ほ)めたたえたい出来事。Repent=神様に悔い改めるべき罪。Ask=神様に祈り求めるべきこと。Yield=神様に委(ゆだ)ねなければならないこと。    

   

  ◎ 暗誦聖句 (文語訳) ヤコブ書一章二五節 〝自由(じゆう)の律法(おきて)を懇(ねんご)ろに見(み)て離(はな)れぬ者(もの)は、業(わざ)を行(おこな)ふ者(もの)にして、聞(き)きて忘(わす)るる者(もの)にあらず、〟

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◆神様のみ言葉を黙想しよう

▽「まことに、その人は
  主のおしえを喜びとし、
  昼も夜も
  そのおしえを
  口ずさむ。」
  (詩篇一・二)
   


  〝ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。〟 ヤコブ書一章二五節 首記の御言葉から、黙想には心の集中が必要であることを先ず教えられる。ヤコブは、「完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人」と書いている。    

「一心に見つめる」というギリシャ語(パラクプト)は、何かにもたれかかる、そして一つのものを食い入るように見つめる、という意味を持つ。コンタクトレンズを絨毯(じゅうたん)の上に落として探すときの様子が、このギリシャ語の意味である。コンタクトレンズを踏(ふ)んでしまわないように、他の人がその周りに来ないようにし、両手両足を床につけて、コンタクトレンズを見つけようとする。その人は、コンタクトレンズがないか、カーペットを「食い入るように見つめている」。このことから分かるように、黙想には、熱心さと集中力とをもって探求することが含まれる。    

 黙想は、「ディボーションをしなくては」と言って、御言葉を急いで読むことではない。神様と神様のご計画についての知識を探求するといった目的をもって聖書を開き、読むことが黙想である。神様がお語りくださることを伺うといった明確な目的をもって聖書を読むとき、私たちは神様の御言葉を口ずさみ、黙想することができる(ヨシュア一・八)。神様と共に歩くことの「最もすばらしい目標」は、キリストのお姿に似る者となることであり、ヤコブの言葉を借りるなら「事を実行する人」になることだ(ヤコブ一・二五)。そのための「最も良い方法」は、神様と神様のご計画を理解するという明確な目標をもって、聖書を読み、調べ、学ぶことである。    

 黙想は、継続をも要求する。ヤコブは、「…一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にならない…」(一・二五)と書いている。注意深く見つめるときに、どれくらい継続すればよいのだろう。ヤコブは、み言葉が教えている真理とそれを私の生活に適応する方法とを忘れることができなくなるまで、と教える。み言葉の真理が心に焼き付けられるまでには、一つの聖句を毎日、何週間も黙想しなければならない時がある。    

 私たちが、繰り返して御言葉を黙想し、真理を知ろうと熟考した後で、神様は私たちの霊の目を開いてくださり、聖霊の助けによって、真理を悟り理解出来るようにしてくださる。神様の御言葉を黙想しよう。    

 ジム・バーグ博士の著書 "God is more than enough"(神様は私にとって十分以上のお方)の一二章の一部を翻訳したものです。    

   

  ◎ 暗誦聖句 (文語訳) イザヤ書六章八節後半
〝 われ此(ここ)にあり我(われ)をつかはしたまへ 〟

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