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習志野バプテスト教会の週報

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◆ 愛の神を見つめる(6)

   ▽「神は
    高ぶる者に
    敵対し、
    へりくだる者に
    恵みを
    与えられる… 」
    (Ⅰペテロ五・五)
   


  "God is more than enough"(神様は私にとって十分以上のお方)ジム・バーグ博士著からの翻訳    

 高校時代、私は多くのことで神様と両親を敬っていなかった。両親と神様の願いに反して、私はロックバンドでギターを弾(ひ)いていた。週末は家に帰らないことも多かった。「仕事がまだ終わらなくて帰りが遅くなるから上司の家に泊まらせてもらう」と両親に伝えていた。ある時はその通りであったが、そうでない場合も多くあった。そして私は欲しいものがあると盗むようになった。上司、友人、店、そして高校からも盗んだ。私はボブ・ジョウンズ大学に入る前に、一人の女性と出会い、結婚したいと考えていた。一年が終わったら家に戻り、我慢していたすべてのことを楽しもうと考えていた。    

 神様は私の人生に別のご計画をお持ちだったことを感謝している。大学のチャペルで語られる説教を通して、私は自分がいかに罪深いか気づいた。一年後期であったが、ボブ・ジョウンズ大学は"Flame in the Wind"(風に揺(ゆ)られる炎)という長編の映画を発表した。最初の上映会に行った。神様はこの映画を通して私の心に強くせまってくださった。私は最早(もはや)自分の罪を隠しておくことが出来ず、招きに応じた。私は神様の御前で全ての問題を解決し、神様との正しい関係をいただいた。    

 両親、高校、友人、上司そしてボブ・ジョウンズ大学に対して犯してきた罪を赦していただき正しい関係を回復するためにすべきことが多くあった。盗(ぬす)んだものを全て返し、権威(けんい)に対する不従順をお詫(わ)びして和解を求めた。罪を犯してきた人々に対して自分が出来うることは全てして、赦しを願った。これまでの罪を赦してもらうために、色々としていた時期のある晩、寮の部屋に戻ろうとしていた。大学内は静まりかえっていた。キャンパス入り口の噴水(ふんすい)にかかっている橋を歩いていた。星明かりの下で私は立ち止まり、今自分がいる場所について静かに考えていた。   

「私は今、ボブ・ジョウンズ大学のキャンパスにいる。盗みの罰として刑務所にいても不思議ではないのだ。あの女性と結婚していたら今どうなっていただろう。反抗的な態度をとっていた自分には数々の災いが起こりえたのに、私は今ここにいる。」というような思いが頭の中を駆け巡(めぐ)っていた。私がそこに立っていられたのは、私を愛してくださる天の神様がいらっしゃったからである。私はその時のことを決して忘れないだろう。                    (続く)    

   

  ◎ 暗誦聖句  エペソ五章一八節後半
〝…御霊に満たされなさい。〝

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◆ 愛の神を見つめる(5)

   ▽私たちの神様は
   「あらゆる恵みに
    満ちた」お方
   (Ⅰペテロ五・一〇)
   


   "God is more than enough"(神様は私にとって十分以上のお方)ジム・バーグ博士著からの翻訳    

 私があなたに気付いてほしいことは、シャンノンは「良い」ルームメイトについて誤解していたためにルームメイトに対する期待はゆがんだものであった、ということである。多くのクリスチャンは、「良い」神様はこのようにして下さるはずだと考えて、神様がそのようになさらない時にがっかりする。そのようなクリスチャンは神様についての正しい理解をもっていない。    

 事実は、神様はいつでも神様としてA++(満点)という評価をお受けになるのだ。神様は卓越したお方である。すなわち神様のすべての部分が理想にかなっているのだ。もし私たちが何かのことで神様は不十分なお方だとして、神様によくない評価をつけるなら、私たちは偶像礼拝の罪を犯すことになる。この章のはじめに記したトウザーの説明を思いだそう。私たちは神様について聖くないことを考えるべきでない。神様に対して不敬の罪、すなわち最も重い罪を犯すことになる。そしてそれだけでなく、事実とは全く違う誤った神観をもって私たちはこの世で生活をし、自分自身が分裂状態になっていく。    

 神様は善であられるということは、神様は慈悲深く善意に満ちたお方であると意味する。すなわち、「神様は私にとってすばらしいお方、最善をなしてくださるお方」である。サタンはアダムとエバに正にこの点について疑いをもたせ、神様に不従順の罪を犯させたのである。サタンは善意ではなく、悪意に満ちたものだ。もし私たちが神様の善性、すなわち神様の愛を少しでも疑うならば、霊的に最も危険な状態に自らを置くことになる。私たちは、神様ご自身の御言葉を通して、そして神様の御業(みわざ)を通して神様の愛をお示しください、と神様に願い求めるべきである。    

 私はボブ・ジョウンズ大学の一年生の時、神様の愛に捕らえられた。両親は少なくとも一年間はクリスチャンの大学に行くようにと執拗に命じた。私は嫌(いや)だったが、仕方なく一九七〇年にボブ・ジョウンズ大学に入学した。私は一年だけ我慢したら、家に戻り、自分の夢を追いかけ、これまで楽しんできた罪を再び満喫しようと考えていた。当時の私の夢も罪深い生活も私の人生に対する神様の召しではなかった。                (続く)    

   

  ◎ 暗誦聖句  詩篇七三篇二六節後半
〝されど神(かみ)はわがこころの磐(いわ)わがとこしへの嗣(ゆ)業(づり)なり 〟 

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◆ 愛の神を見つめる(4)

   ▽「主に信頼して
     善を行なえ。
     地に住み、
     誠実を養え。」
   (詩篇三七・三)
   


   "God is more than enough"(神様は私にとって十分以上のお方)ジム・バーグ博士著からの翻訳    

 同様に、神様がすごいお力を持つことを知っていても、神様の愛をまだよく知らない人は、恐れの気持から解放されない。事実、絶対的な力をお持ちの神を持っていても、その神があなたのことを大好きなことを知らなければ、何の慰めにもならないのだ。    

◇ 神様の愛の本質(神様の愛とは何か)    

 神様の愛は、善という神様の偉大な属性からあらわれるものである。神様が善であられるという事実は、二つの側面を含む。    

 神様が善でいらっしゃるということは第一に、神様はすぐれたお方であるということを意味する。神様はご自身のすべての部分をもってお答えになり、神としてふさわしい理想的な属性をお持ちになる。このような意味で善が用いられる時は、「良い」車、「良い」コンピューター、「良い」子ども、「良い」結婚、「良い」ルームメイト、あるいは「良い」仕事という時に私たちが意味していることである。    

 神様がすぐれたお方であるということは、あなたが最初に考えているよりも重要である。もし神様が智恵に優れていなければ、神様が義において卓越していなければ、私たちは神様のご命令の正当性と必要性を疑うかもしれない。神様がどんなに卓越したお方かを正確に知らなければ、神様に正しく期待することは出来ない。実例をあげて示そう。    

 数年前のことだが、ボブ・ジョウンズ大学の一年生に大変裕福な家庭出身の学生がいた。シャンノン(仮名)は小さい時から彼女のために全てのことをしてくれるお手伝いさんがいた。お手伝いさんはシャンノンの髪をとかし、洋服をすべてそろえ、浴槽に水を汲み、ベッドを整え、おやつを準備し、勉強をともにし、…などをしていた。    

 シャンノンが学生寮に入った時、ルームメイトがお手伝いさんに代わって全てのことをしてくれるとシャンノンは期待していた。ルームメイトが期待通りにしてくれないと、シャンノンはルームメイトたちは「良くない」と考えてしまった。幸いにも、シャンノンの部屋には、霊的なことに関心をよせる上級生が一人いた。その先輩がシャンノンの必要に気付き、シャンノンが他の人と良い関係を築けるように助けた。最初は、シャンノンが自分で何も出来ないので、その上級生は色々なことをシャンノンのためにしてあげたのだ。この先輩ルームメイトがシャンノンの人生に大きな影響を与えた。(続く)    

   

  ◎ 暗誦聖句  マタイ伝一一章二八節 
〝 凡(すべ)て勞(ろう)する者(もの)・重(おも)荷(に)を負(お)ふ者(もの)、われに來(きた)れ(われ汝(なんじ)らを休(やす)ません。) 〟

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◆ 愛の神を見つめる(3)

   ▽「…神は私たちに
    対するご自身の愛を
    明らかにしておら
    れます。」 
    (ローマ五・八) 
   


   "God is more than enough"(神様は私にとって十分以上のお方)ジム・バーグ博士著からの翻訳    

 ローマ八章三一~三九節を読んでみよう。この真理が人間の魂にどれほどの安定をもたらすか分かるだろうか。神様の御言葉を通して、私たちを個人的に愛してくださる神様を知らなければ、誰も神様が教えてくださる真の満足を味わうことができない。エペソ三章から、イエス・キリストの愛の「広さ」、「長さ」、「深さ」を御霊によって教えられることが、私たちの内なる人が霊的に強められる源泉である、と学ぶ(一四~二一節)。私たちは、この驚くべき愛を知らなければならない。    

 三人の娘がまだ小さいとき、私の両親が飼っていたティンカー・ベルという大きなシャム猫が怖くてしかたがなかった。両親の敷地に入った瞬間に、娘たちは「ティンカー・ベルは家の中?」といつも聞いた。ティンカー・ベルがいるならば、家の中に入りたくなかったからだ。    

 私は農場で育ったため、いつも動物と一緒であった。故に娘たちがティンカー・ベルを怖がる理由が分からなかった。しかし、娘たちの視点で状況を考えると、なるほどと思った。ティンカー・ベルは、私にとってのボブ・キャット(野生の赤オオヤマネコ)のような存在であったのだ。山を散策中にボブ・キャットが目の前に出てきたら、確かに恐ろしいことである。同じ理由で娘たちは怖かったのだろう。    

 娘たちがティンカー・ベルに近づく時は、私が膝(ひざ)の上にティンカー・ベルをのせ「来てごらん、なでてごらん」と呼ぶ時だけであった。恐(おそ)る恐る小さな手を出して用心しながら一回か二回ティンカー・ベルを触って逃げて行った。娘たちは勝ち誇った感じで「ママ、ママ、ネコを触れたの。ネコをなでたのよ。」というのだった。    

 娘たちから恐怖心を除いたのは何であったのか。私の体が大きかったからではない。祖父がティンカー・ベルを膝の上に抱いて「おいで。なでてごらん」と娘たちを呼んでも、彼女たちは、ティンカー・ベルの所には近づかなかった。娘たちは、私の父がその猫よりも大きく力があることを知っていた。しかし、三歳と五歳の娘たちは、私の父が彼女たちを愛し、守ってくれるということを理解するほど、祖父と時間を過ごしていなかったのだ。娘たちは私がティンカー・ベルよりも大きいということだけでなく、私が彼女たちを愛し、危険から必ず守ってくれるということを知っていたのだ。(続く)    

   

  ◎ 暗誦聖句  詩篇一〇三篇一九節 
〝主(しゅ)はその寳座(みくら)をもろもろの天(てん)にかたく置(すえ)たまへり その政權(まつりごと)はよろづのもののうへにあり 〟

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