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習志野バプテスト教会の週報

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最も大切なこと(2)

   ▽「わたしは、
    よみがえりです。
    いのちです。
    わたしを
    信じる者は、
    死んでも
    生きるのです。」
   (ヨハネ一一・二五)
   


  〝私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと〟 Ⅰコリント一五章三、四節 先週は、キリストが私たちの罪のために死なれたことについて考えた。次のポイントに行く前に、もう少しキリストの身代わりの死について考えてみたい。    

 私たちは人との関係で律法を考えるが、イエス様は、「『心を尽くして神である主を愛せよ』という律法が第一の戒めである」とおっしゃった。神様よりも自分を愛することが罪の根なのであろう。神様よりも自分を愛する人は、様々な罪を犯していく。このように罪深い私たちに代(か)わってイエス様は十字架の上で罰(ばつ)を受けられた。神様の大きな愛が示された。    

 Ⅰペテロに記されている以下のみ言葉を黙想(もくそう)しよう。〝正しい方(キリスト)が悪い人々(私)の身代わりとなっ〟て死んでくださった(三・一八)。〝そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負(お)われ 〟(二・二四)た。〝傷(きず)もなく汚(けが)れもない小羊のようなキリストの、尊(たっと)い血(ち) 〟(一・一九)が流された。    

 聖なる神様の御前には、どのような罪も汚れたものであり、罪の代価(だいか)(死)が要求される。罪を知らないお方(キリスト)の死は、私たちの罪のためであった(Ⅱコリント五・二一)。    

◇キリストは墓(はか)に葬(ほうむ)られた    

 生きている人を墓に葬ることはない。蘇生(そせい)するかもしれない人を墓に埋(う)めることはない。確(たし)かに死んだ人を埋葬(まいそう)するのである。    

 イエス様は、私たちに愛を示すポーズをおとりになったのではない。大きな愛をお示しくださったのである。しかも、〝私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔(ふけいけん)な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情(なさ)け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった…〟(ローマ五・六~八)のである。    

 イエス様は〝ヨナは三日三晩 大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいる…〟(マタイ一二・四〇)とおっしゃった。イエス様は、墓の中に三日間葬られていた。    

 主イエス・キリストは、私たちの罪のために死んでくださった。しかし、死んで、葬られて、すべてが終わったのではない。復活されたのである。あなたには復活の希望があるであろうか。復活の主を信じよう。    

   

  ◎ 暗誦聖句  エペソ書 一章三節前半
〝讃(ほむ)むべきかな、我(われ)らの主(しゅ)イエス・キリストの父(ちち)なる神(かみ)… 〟

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最も大切なこと(1)

   ▽「律法を
    行なうことに
    よっては、
    だれひとり
    神の前に
    義と
    認められない」
    (ローマ三・二〇)
   


  〝私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、…〟
      Ⅰコリント一五章三節    

 パウロが「最も大切なこととして伝えた」ことであるから、最大限の注意を払って聞くべきである。    

◇キリストは私たちの罪のために死なれた    

〝義人はいない。ひとりもいない。〟ローマ三・一〇 〝すべての人は、罪を犯した…〟ローマ三・二三    

 聖書は、義なる神様の前では全ての人が罪人であると記している。「私は完全ではない。罪を犯した。」と人は認めることだろう。しかし、「人殺しではないし、強盗でもない。ウソやズル、ちょっとした悪いことは他の人もやっている。私はそんなに悪くない。」と思っているのではないだろうか。すなわち。キリストが鞭(むち)で打たれ、傷つけられ、十字架の上で身代わりの死をとげなければならなかったほど、私はひどい罪を犯していないと考えているのだ。    

〝律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。 〟
  ヤコブ二章一〇節    

 山の頂上に杭(くい)が打ち付けられ、いくつもの環(わ)がつながって出来た一本の鎖(くさり)を支えている。あなたが山の上から垂(た)れている鎖をたよりに山を登っているとしよう。杭から近い環であれ、自分の手元の環であれ、一つでも環が壊れるならば、あなたは下に落ちていくことになる。同じように、どんなに神様の戒めを守っていても、一つの戒めを破るなら、すべてを犯した者となるというのだ(ウェルチ先生の例話集より)。    

 あなたの好きな飲み物は何であろう。大好きな飲み物に毒(どく)が一滴混ぜられた。あなたは飲むであろうか。一滴でも人の命を奪(うば)う毒ならば、量は関係ない。一滴でも毒は毒である。決して飲まないであろう。    

 ある人々は、「神様は私の罪を裁くことをなさらない。私は十分よい人間だから。ひどい罪を犯していないから。」と考えている。ひどい罪とは何であろう。子どもは人を殺したり、強盗(ごうとう)を働くことは出来ないであろう。大きな罪、小さな罪、ひどい罪、軽い罪はない。聖なる神様はどんな罪をもお嫌(きら)いになる。一滴でも毒は毒であるように、一つの罪も人の命にかかわる恐ろしい罪である。〝罪から来る報酬は死〟(ローマ六・二三)である。それゆえに、キリストはあなた(私)のために死なれたのである。正に福音である。    

救いは自分のよい行いでは決して手に入れることはできない。神様からのプレゼントである。〝罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物(たまもの)は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです〟(ローマ六・二三)。キリストを信じ、救いをいただこう。    

   

  ◎ 暗誦聖句  ヨハネ伝 一一章二五節
〝イエス言(い)い給(たも)う『我(われ)は復活(よみがえり)なり、生命(いのち)なり、我(われ)を信(しん)ずる者(もの)は死(し)ぬとも生(い)きん。 〟

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まことに主は大いなるお方(13)

▽「…わたしは、
     わたしを尊ぶ者を
     尊ぶ。…」
       (Ⅰサムエル二・三〇)
   


  『神様の御栄光のために創造された』(バーグ博士著)から要約    

 自分の思いと決断が間違った優先順位にある人は、この世の考えに流されて生きている人である。そのような人は、自分勝手な「クリスチャン神話」の中で生き、人生に満足を見いだせないことであろう。そのような人は、神様よりも自分自身を第一にしている故に、神様に敵対していることを知っているのである。    

 以下の質問は、思慮深く、成長しているクリスチャンならば、実生活ですでに直面し、「神様こそ私にとって一番のお方である」ことを示す応答をしていることであろう。以下の質問が奇異に感じられたり、正直に答えることが出来ないならば、クリスチャンとしての成長を目指す前に、多くのことが取り扱われなければならない。神様を最優先に考え、その事実に基づいた生活こそ、活力と喜びに満たされたクリスチャン生活の第一歩である。    

◇ 熟考する時間を持とう(質問に答えてみよう)    

一、「自分のために生きている」と感じ、神様にお返しすべき御栄光を自分のものにしていることの故に心が打ち砕かれた経験があるだろうか。神様があなたの心中にある「自己中心」という神様への反抗をお示しくださったときのことを書いてみよう。その時のあなたの反応は?あなたは今も、神様に示されたその事実を意識しながら生活しているであろうか。    

二、あなたにとっての最大の誘惑が何か考えよう。神様こそ私にとって一番である、という神様の最優先性の事実を喜んでいるとき、神様のどのようなご性質を意識しているのであろう。あなたが見つめている神様のご性質の故に、誘惑にあうとき、正しい決断ができるのである。誘惑に勝利するために、神様の最優先性について自分自身に語るべきことを書きだそう。アダムが自分自身に語るべきであったこと(四月一三日号)を復習し、自分自身が誘惑されるときにどのように適応すべきか考えよう。    

三、あなたも神様の「愛する大切な人(ペット)」の一人であり、神様ご自身の喜びのために創造されたのである。あなたは、今日、どのようにして神様に喜ばれることができるであろうか。    

四、神様の御言葉を読み、学ぶことは、あなたの生活でどのような優先順位にあるのであろう。目には見えない神様について学んだことで、人生の様々なことを見る視点が変えられたり、人生そのものが変えられたり、という経験が最近あったであろうか。    

五、神様について間違った見方をしていたことがないだろうか。すなわち、聖書が啓示している神様とは別の、自分自身で勝手に想像し、思い込んでいた「神観」を持っていなかったであろうか。それはどのようなものであったのか。    

   

  ◎ 暗誦聖句  ピリピ書 四章一三節
〝我(われ)を強(つよ)くし給(たも)ふ者(もの)によりて、凡(すべ)ての事(こと)をなし得(う)るなり。 〟

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まことに主は大いなるお方(12)

▽「この方(ナザレ人
     イエス・キリスト)
     以外には、 だれに
     よっても救いは
     ありません。」
     (使徒四・十二)

   


  『神様の御栄光のために創造された』(バーグ博士著)から要約    

 ◇伝道を通して、神様が私たちにとって一番でいらっしゃることを示すことができる。  このテーマについてここで詳しく取り上げないが、世界宣教の基本的な動機についてダビデが述べたことを見ておきたい。詩篇九六・三~一〇を読もう。ダビデが言っていることは以下のように要約できる。    

「神様にお返しすべき御栄光を何人も差(さ)し控(ひか)えてはいけない。神様はすべての人に誉(ほ)め称(たた)えられるべきである。よって、すべての国々に出て行って『私たちの神は、全てを統(とう)治(ち)なさる』『神様こそすべての一番であられる』と伝えるべきである。」    

 神様がすべてを治められ、全てに優先されるべきことをダビデのように理解していない信者は、自分たちが手にした知らせを他の人たちに伝えようとはしないのである。ダビデの言葉は、宣教師の心からの叫(さけ)びでもある。神様を最高位のお方として見ている者の心から、自然とあふれ出てくることが伝道である。    

【まとめ】    

 A・W・トウザーは “The Pursuit of God”(邦訳『新版 神への渇き』いのちのことば社)の中で、私たちが考えてきたことを次のようにまとめている。    

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「あなたが高められますように」という言葉は、日日勝利を味わっている霊的経験の語る言葉である。それは恩(おん)寵(ちょう)の大宝庫の扉をあけるための小さな鍵である。求道している人が口先だけでなく心から、「あなたが高められますように」といつも言えるところまで進んで来れば、数知れぬ小さな問題はたちどころに解決されてしまう。    

彼の信仰生活は以前のように複雑なものではなくなり、極(きわ)めて単純なものになってくる。…私たちは神のかたちに造られたのだから、神を再び自分のすべてとして受け入れることは少しも不思議ではない。神は私たちの一番初めの住居であった。だから、私たちの心はその美しい昔の家に再び入るとき、本当の安らぎを感じるのである。    

神が最高の位置を要求なさるのには、それだけのれっきとした論拠があるのだということをはっきり理解していただきたい。その位置は当然神の権利に属するものである。その神のものである位置を私たちが奪(うば)っている間は、私たちの人(じん)生(せい)航(こう)路(ろ)は混乱せざるをえない。私たちの心が「神を高めよう」という大決心をするまでは、何ものも秩(ちつ)序(じょ)を回復することはできない。    

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 あなたの人生の王座に神様がいらっしゃるだろうか。トウザーの言葉をよく考えてみよう。    (続く)    

   

  ◎ 暗誦聖句  使徒行伝九章二〇節

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