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習志野バプテスト教会の週報

神をおそれよ(4)

▽「主を恐れることは悪を憎むことである」(箴言八・一三)
   


  〝これらの後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨(のぞ)み、こう仰(おお)せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾(たて)である。あなたの受ける報(むく)いは非常に大きい。」〟
       創世記一五章一節    

主は、繰り返し「恐れるな」とお命じになる。〝見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた(イザヤ一二・二)。〟〝彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ(エレミヤ一・八)。〟全能の神様を信じ、神様を恐れるなら、私たちは何をも恐れる必要がない。    

ヤコブの子ヨセフは主を恐れた人物であった(創世記三七章以下参照)。ヨセフは兄弟に憎まれ、外国に売られてしまう。ヨセフはエジプトのパロに仕える侍従長、ポティファルに買われる。「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人」(創世記三九・二)となった。主が共におられたので、ヨセフは、何も恐れることがなかった。主を恐れる人は主の御臨在の内に生きる人である。    

ヨセフは、体格がよく、美男子で、何事にも誠実であった。ポティファルの妻はヨセフに「私と寝ておくれ」とせまる(三九・七)が、彼は拒(こば)んで言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」ヨセフは以下のことを恐れた。    

ア、自分と共におられ、祝福をお与えくださる神様に対して罪を犯すこと。=神様の愛に反する恐れ。    

イ、神様が罪とおっしゃることを行うこと=神様のご 命令にそむくことの恐れ。    

ウ、神様の正しい裁き=罪は必ず裁かれ、神様のために苦しむ時は、神様の正しい裁きが必ずあるとの確信。    

エ、罪の実を刈り取ること=神様とのよい関係を失い、ポティファルの信頼を失い、ポティファルの妻との正しい関係も失う。    

ヨセフは苦境(くきょう)に立っても、主が共におられることを確信し、主に罪を犯すことは出来ないと言った。私たちも、主が共におられることを覚(おぼ)えて生活しよう。これは、主をおそれる者の生活である。    

      (続く)    

   

  ◎ 暗誦聖句  各自でお決め下さい。

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神をおそれよ(3)

▽「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。」(詩篇二五・一二)
   


  〝あなたのことばを、あなたのしもべに果たし、あなたを恐れるようにしてください。〟 
    詩篇一一九篇三八節    

 神様を恐れることを学ぶ目的は、知識を得るためではなく、神様を正しく恐れるためである。「あなたを恐れるようにしてください」と私たちも祈ることから始めよう。神様はお喜びくださり、その祈りにお答えくださる。神様を恐れるものと私たちはかえられるであろう。    

 「神様を恐れるようになるために、あなたのことばを、あなたのしもべにはたしてください」と詩篇記者は祈っている。神様のお言葉はすべて実現することを知るならば、私たちは神様を正しく恐れることができる。「神様を恐れる人は、神様のお言葉は必ずその通りになると信じている人」とも言えよう。    

 神様のお言葉は絶対にその通りになる、と信じていたので、「自分自身が、神様のみ言葉に背(そむ)くことがありませんように」と祈っている(詩篇一一九・一〇)。私たちは、神様のお言葉に従って生きる決意をもっているだろうか。「神様は、み言葉に従わない高ぶった者、のろわるべき者をお叱りになる」ことを確信しているだろうか(詩篇一一九・二一)。    

 神様を恐れる人は、神様に叱(しか)られることを恐れて、神様から遠ざかる人ではない。もちろん神様は、〝正しい審判者、日々、怒る(宣告を下す)神〟(詩篇七・一一)でいらっしゃるので、罪の中に生き、悪を平気で行う人は神様の裁きを恐れるべきである。しかし、イエス・キリストの身代わりの死によってすでに罪の罰から救われている私たちは、〝私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕(した)い、砕(くだ)かれています。〟(詩篇一一九・二〇)と言いたいのである。    

 神様を正しく恐れる人は、愛に満ちた、恵み深い神様のもとにさらに近づきたいと願う者である。私たちは、神様を慕い求めているだろうか。神様の裁きを慕っているだろうか。み言葉に従って、神様のみ心の内を生きる決心をしているだろうか。    

 私たちは神様のしもべであろうか。神様のみ心のために仕えることを喜んでいるだろうか。自己主張の多い、心がまだ砕かれていない者だろうか。「イエス・キリストのしもべ」と称したパウロは、キリスト・イエスの心を自分の心とした。神様を恐れる人は、「あなたのみこころをおこなうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから」(詩篇一四三・一〇)と祈る人でもある。神様を恐れる者になりたい。熱心に祈ろう。(続く)    

   

  ◎ 暗誦聖句  マタイ伝二六章三三節「」内

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神をおそれよ(2)

▽「(主は)主を恐れる者を祝福してくださる。」(詩篇一一五・一三)
   


  この週報をお読みになっている皆さんはどのようにして毎週の週報を保管なさっているのであろう。パンチで穴をあけて綴(と)じる方、封筒に入れる方、特に保管はしない方、様々であろう。方法はどのようであってもよいが、おすすめしたいことが一つある。時々、過去の週報を読み返していただきたいのである。自分で書いているのだから、変に聞こえるかもしれないが、過去の週報を読んでいながら多くのことを教えられるのである。書いていた本人でさえ、その時に理解できていなかった御言葉の素晴らしさに気がつき、感動し、驚くのである。このような前置きをして、私が週報を担当し始めた二〇一二年一月からの原稿をそのまま、あるいは一部手直しをして掲載することをおゆるしいただきたい。実は、先週号からである。神様をおそれる、というテーマは非常に大切である。    

 聖書はいつの時代も「最先端」であり、人々の必要を満たす。変わることのない神様のお言葉を宣教する方法は、時代によって変わってよい部分と変わらなければならない部分があるだろう。ただし、妥協(だきょう)は神様のみ心ではない。    

神様は、私たちが新しいプログラムを始める前に、一つの大切なことを教えてくださった。Ⅱ歴代誌一六章九節は、「神様が求めていらっしゃるものは、新しいプログラムではなく、神様のお心を自分の願いとする人(すなわち、神様がご自身のお力を自由に表すことのできる人)である」と教えている。私たちは、神様に信頼して力を頂くよりも、プログラム(自分たちの考え)に頼ってしまう弱さがあるので、この学びが必要であった。    

 今年も、「神を恐れよ」ということを教えられている。ソロモン王を通して、神様は「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道の書一二章一三節)と教えてくださっている。私たちは神様を恐れているだろうか。そもそも、神様を恐れるということを正しく理解しているだろうか。    

私はボブ・ジョウンズ大学で勉強している時に、神様を恐れるのではなく、人を恐れるという失敗をした。神様に対して大変申し訳ない気持ちで一杯だった。罪を悔い改め、二度と同じ失敗をすることがないようにと神様に祈った。神様は、その罪を赦してくださり、神を恐れることについての学びをお与えくださった。    

 神様はこの学びをするようにと導いてくださっている。人間にとって「すべてである」という神様のご命令を、もう一度ご一緒に学んでいきたい。(続く)    

   

  ◎ 暗誦聖句  エペソ書四章三二節
〝 汝(なんじ)らも互(たがい)に赦(ゆる)せ。 〟

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神をおそれよ

▽神様が喜ばれるいけにえは「砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心」である。(詩篇五一・一七)
   


  〝主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。〟
      詩篇一三〇篇一~四節    

 以下は、スポルジョンの首記聖句解説の一部である。    

この詩人は、どんな低い所に行っても祈りをやめない。深みは普通、飲み込むすべてを沈黙させる。しかし、この深さの極みの中から、彼は主に叫んだ。祈りが出来れば、どこにいるかは問題でなくなる。深い場所は深い献身を生み出す。ダイヤモンドが最も輝くのは暗闇の中である。「深い淵から」の祈りは、「いと高い」栄光を神様におささげする。私たちの苦しみが大きければ大きいほど、勇敢に主に信頼する信仰はすぐれたものとなる。それ故、主に訴え、主にのみ頼(たよ)ろう。深い淵の中から祈る人は、その淵から沈むことはない。苦難の中から叫び声をあげる人は、すぐにも高い所で歌を歌うことになる。    

もしすべてを見通される主が、すべての人を義に欠ける者として厳格(げんかく)に裁(さば)かれたら、人はどこに居場所があるだろう。主は、私たちのすべての罪を記録しておられる。もし人が、わざ以外何の基準もなく裁かれるとしたら、私たちのだれが主の裁きに耐えることができるだろうか。詩人は、自分自身の義では偉大な王なる神様の前には立てないことを認めている。「善を行う人はいない。ひとりもいない」(ロマ三・一二)のである。    

しかし、神様は赦(ゆる)してくださる。何の代価も求めず、十分でこの上ない赦しが偉大な王の御手にはある。それこそ神様の赦しの大権であり、それを表現するのを喜ばれる。主のご性質は憐れみであり、罪を贖(あがな)うためのいけにえを備えられたので、罪を告白して御前に来る者すべてのために赦しがある。赦しの力はいつでも神様と共にある。この瞬間も赦しを備えておられる。    

主を恐れることは、実り豊かな敬虔な人生の根である。赦しの愛を経験した人のように主を恐れる者は誰もいない。赦しへの感謝は罪によって生み出された恐怖にまさって、神様を恐れさせ、敬わせる。もし主がすべての人に対し義を行われたら、神様を恐れる人は一人もいないだろう。主の御怒りを理解するだけなら、絶望によって心を頑(かたく)なにし、神様を恐れないだろう。恵みこそ、聖なる神様への顧(かえり)みと神様を悲しませることについての恐れに導くのだ(『ダビデの宝庫』Ⅲより)。    

   【二〇一二年三月一八日号を再掲載】    

   

  ◎ 暗誦聖句  ロマ書三章二九節
〝 然(しか)り、また異邦人(いほうじん)の神(かみ)なり。 〟

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バプテストの特徴(八)

▽信仰の自由を奪い、福音宣教を妨げる法律が制定されないように祈ろう(特に、ミャンマーと日本のために)
   


   最後に取り上げる特徴は、政治(国家)と教会の分離(Separations of Church and State)である。この原則はマタイ二二・一七~二二に教えられている。国家は教会を保護して、クリスチャンは政治に従う。しかし、結合しているのではない。神様は、家庭、教会、国家という三つの組織を創立された。この一つ一つはそれぞれの範囲の中にあって使命を持っている。    

 クリスチャンは政治に対して責任を果たす。税金を納め、従い、敬い、そして国の指導者のために祈る。  「人はみな、上に立つ権威(けんい)に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。    

 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣(つるぎ)を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒(いか)りをもって報います。 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心(りょうしん)のためにも、従うべきです。    

 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務(つと)めに励(はげ)んでいる神のしもべなのです。 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」(ローマ一三・一~七)    

 「 そこで、まず初めに、このことを勧(すす)めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。 それは、私たちが敬虔(けいけん)に、また、威厳(いげん)をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」(Ⅰテモテ二・一~二)    

 そして政治は、教会の信仰、良心的自由を保護する責任を持っている。政治はどんな宗教に対しても特別扱い、または制限を加えてはならない。ただ、道徳、あるいは私財が脅かされている場合にのみ、これは許されるのである。    

 (レスリー・フレイジャー博士著の『バプテストの特徴』を土台にしています。)    

   

  ◎ 暗誦聖句  ヘブル書一二章二節
〝 信仰(しんこう)の導師(みちびきて)また之(これ)を全(まっと)うする者(もの)なるイエスを仰(あお)ぎ見(み)るべし。〟

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