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習志野バプテスト教会の週報

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神をおそれよ(7)

▽「私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなた
の聖なる宮に向かってひれ伏します。」(詩篇五・七)

〝そこで主(しゅ)は仰(おお)せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわ
たしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れる
のは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。〟
   イザヤ書二九章一三節
神様は、預言者イザヤを通してご自分の民に、「あなたがたは私を本当には恐
れていない。あなたがたの心には、私に対する愛がない。」と仰(おっしゃ)った。
この時、イスラエルの民は神様を賛美し、礼拝をささげ、表面的には神様を愛し、
敬(うやま)っているように見えた。しかし、神様は彼らの心をご覧になっていた。
〝…人はうわべを見るが、主は心をみる。〟(サムエル前一六・七)
イスラエルの民は主を恐れていなかった。第一に、彼らは形式的な礼拝をささ
げていたが、彼らの「心」を主にささげていなかった。第二に、神様に対する愛
と尊敬の思いはなく、「恐れなければいけない」と教えられてのことにすぎず、
畏敬(いけい)の思いはなかった。
 イエス様は、パリサイ人と律法学者に対して、首記の聖句を引用して次のよう
におっしゃった。〝偽善者(ぎぜんしゃ)たち。イザヤはあなたがたについて預言
しているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、そ
の心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝(おが)んでも、むだな
ことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」(マタイ伝一五
・七~九)
 ここに登場するパリサイ人と律法学者も、イザヤの時代の民と同じく、神様を
心から愛することなく、形だけ神様のお言葉に従おうとしていた。ご自分の生命
をもお与え下さった主に対する私たちの愛は冷え切っていないだろうか。それぞ
れに、心を点検しよう。
イエス様は、「恐れる」という言葉の代わりに「拝んでも」と仰(おっしゃ)っ
た。神様を恐れることは、礼拝と関係があるということだ。神様を礼拝すること
について、首記の聖句から次のことを学ぶ。①他の人から言われてすることでは
ない=自(みずか)らの意志でするもの。②神様に近づくこと=神様の御前(みまえ)
にでること。③神様をおそれ敬うこと=心から神様を慕(した)い求めること。
健康の理由や家族の介護で、礼拝に毎週は集(つど)えない方がいる。そうした
兄姉にとって、日曜日に教会で兄姉とともに主を賛美し、主を礼拝できる日は、
大きな喜びであり、神様に感謝をささげていることだろう。毎週集っている私た
ちは、礼拝が習慣的になることがないように注意をしよう。心からの礼拝をささ
げよう。
                    (続く)

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神をおそれよ(6)

▽「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あ
なたが私とともにおられますから。」
(詩篇二三・四)

一年の四分の一が過ぎた。今年の目標は守られているだろうか。守れているなら、
主に感謝をしよう。目標を忘れていたなら、今日から再スタートをしよう。
二〇一二年一月二九日の礼拝でロン・ホワイト博士を通していただいた神様の
み言葉を思い起こそう。「私のいのちの日の限り」というテーマで詩篇二三篇六
節がテキストであった。
一、この地上での人生は短い
  〝私たちの齢(よわい)は七十年。健(すこ)やかであっても八十 年。しかも、
その誇りとするところは労苦とわざ わいです。それは早く過(す)ぎ去り、私た
ちも飛び去 るのです。…それゆえ、私たちに自分の日を正し く数えることを
教えてください。そうして私たち に知恵の心を得(え)させてください。〟(詩
篇九〇・ 一〇、一二)
  誕生日に、私は「もう七〇だ」と言ったが、神様 は「あなたは二五四〇六
だ」と仰(おっしゃ)った。私達は「年」で数えるが、神様は「日」で数えられる。
人生 は短いので、一日一日をムダにしてはいけない(伝 道の書一二・一、エ
ペソ書五・一六参照)。
  たった一度の人生、しかもすぐに終わりがくる。 キリストのためにしたこ
とだけが永遠にのこる。
二、地上の人生には限りがある(詩篇三九・四~五)
「主よ教えてください」と祈ろう。①私の終わり、私の齢がどれだけなのか。
②私がどんなにはかないか。③私の一生は全くむなしいことを。ヨブ記一四・一、
五にも「私の日数(ひかず)は限られている」「私の日数は困難で満ちる」「私の
日は終わりを迎えようとしている」とある。この地上の人生には限り(終わり)
がある。この地上に生(せい)を受けた時から息を引き取るまで、長さよりも、ど
のように生きたかが重要である。
三、この地上での人生は祝福である
  主が私の羊飼いでいらっしゃるので、私は乏(とぼ)しい ことがない。しか
し、全ての人が羊飼いをもってい るのではない(マタイ伝九・三六)。神様の
慈(いつく)し みと恵みは私達から離れることがない。このすばら しさを経験
しているならば、「私のいのちの日の限 り…私は、いつまでも、主の家に住ま
いましょう」 (詩篇二三・六)は私たちの強い願いになる。この 地上の生命
は始まりがあり、終わりがある。永遠の 生命は始まりがあるが、終わりはない。
主イエス様 にお仕えできる今、愛する主のために、精一杯生き よう。証(あか
し)をしよう。
☆主を恐れ、信頼する人は死をも恐れない。(続く)

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神をおそれよ(5)

▽「主はご自身を恐れる者と親しくされる」(詩篇二五・一四)

〝あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。
「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。そ
れによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼
らがその子どもたちに教えることができるように。」〟  申命記 四章一〇節
申命記は約束の地に入る直前のイスラエルの人々に対して、モーセがモアブの
荒野で語った最後の言葉である(申命記二・八)。
「民をわたしのもとに集めよ。」と主はモーセに命じられた。教会は主イエス
様のものである。この教会の全ての集いは、主イエス様がご自分のみ言葉をご自
身の民に聞かせるためにお開きになっていることを覚えよう。神様のご命令に従
うと同時に、神様のお言葉を伺えることがどれほど大きな恵みであるかも覚えよ
う。「主のことばを聞くことのききん」(アモス八・一一)が私たちを襲えば、
神様の憐れみと恵み、赦しと祝福は与えられない。私たちクリスチャンもイエス
様によって救われるまで、そのような暗やみの中で生活していた。自由に見えて
いて実は不自由な、罪の力に支配された生活に戻りたい人はいないだろう。日曜
学校、礼拝、午後の集会、聖書研究会、婦人集会の全てに出席して、み言葉を学
んだとしても、霊的に激しい戦いを強いられるこの世で生活して行くには十分で
はない。神様の御前にでて、み言葉を毎日いただこう。
 神様のご命令は、「地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、子
どもたちにそのことを教えよ」である。申命記四章一〇節は、神様を恐れる者と
なりたいならば、「神様のみ言葉を学べ」と教えている。神様は私たちに『聖書』
をお与えくださり、いつでも神様のお言葉を伺う事ができるようにしてくださっ
た。み言葉を読むだけでなく、理解し、実践しよう。そして、私たちは忘れやす
い者だから、学んだみ言葉の真理を、神様のお恵みを記録して、復習しよう。
当教会の夜間神学校で教えていたとき、実は、教える私自身の学びの時であっ
た。教えることは、一番よい学びの機会である。次の世代に「主を恐れること」
を教えるためには自ら学んでいなければならない。この学びに卒業はない。「地
上に生きている日の間」学ぶべき重要な課題である、と主はおっしゃる。私もあ
なたも、主の御前に出る時がくる。主を恐れる者とされることを強く願おう。
(続く)

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