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習志野バプテスト教会の週報

盲 目 (英語バイブル・タイム翻訳)

「そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光(ひかり)を輝(かがや)かせないようにしているのです。」 Ⅱコリント四・四
 光のない闇(やみ)の世界を想像(そうぞう)したことがありますか。視力(しりょく)がとても良い私は、近視(きんし)や遠視(えんし)の方の不便(ふべん)さを想像しにくいです。首記(しゅき)の聖句によると、イエス様を救(すく)い主(ぬし)として信じない人の心は闇で覆(おお)われています。こういう人は神様にお会いすることができません。神様について何も理解することができません。神様がどのようなお方であるのかを心の中で思い描(えが)くことができません。その人たちの心と魂(たましい)は真っ暗な闇です。

日曜学校の中学生クラスで、目を閉(と)じるよう、子どもたちにお願いしました。ある男の子に、私の腕時計(うでどけい)のバンドの色を尋(たず)ねました。「金色(きんいろ)」と答えました。別の男子に私の洋服(ようふく)の色を尋ねました。「分からない」という答えでした。今度は女の子に、「私は指輪(ゆびわ)をしていますか」と質問しました。「していません」という答でした。私は別の男の子に、私の口紅(くちべに)の色を尋ねました。彼は「赤」と言いました。答はみんな間違(まちが)いでした。腕時計のバンドは黒でした。私の服は、緑色の花柄(はながら)のドレスでした。私は指輪をはめていて、口紅の色はダークピンクでした。私は生徒たちと一緒(いっしょ)に部屋にいましたが、彼らは目を閉じていたために、正しく答えられなかったのです。彼らは目が見えない状態(じょうたい)にありました。私は彼らのすぐそばにいたのですが、彼らは私を見ることができませんでした。私についての質問に正しく答えることができませんでした。

神様は私たちから遠く離(はな)れた所ではなく、近くにいらっしゃる、と聖書は教えています。神様は私たちのそばにいらっしゃるのに、私たちが暗闇(くらやみ)に覆われていると、神様にお会いすることも、神様のご人格について理解することもできません。どうしたら私たちの心の目が開かれて、神様を拝(はい)することができるでしょう。イエス様は地上にいらした時、盲人(もうじん)の目を開かれました。イエス様は私たちをも見えるようにしてくださるのです。イエス様は肉体(にくたい)の目だけでなく、私たち心の目をも開いてくださるのです。

 イエス様は私たちを愛していらっしゃいます。私たちの罪のために、十字架上で死ぬために、この地上においでになりました。イエス様は、私たちを罪(つみ)の縄目(なわめ)と罪の罰(ばつ)から救いたいと願っていらっしゃいます。神様がどれほどすばらしいお方かを知ることができるように、私たちの心の目を開きたいと願っていらっしゃるのです。あなたはイエス様に、心の目を開いてくださいとお願いしましたか。 (マーサ・カクラン宣教師(せんきょうし))

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先延ばしにする(英語Bタイム翻訳)

「 聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売(しょうばい)をして、もうけよう。』と言う人たち。 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現(あら)われて、それから消えてしまう霧(きり)にすぎません」。 ヤコブ四・一三、一四

アメリカには、「今日出来る事は明日に先(さき)延(の)ばししてはいけない」という諺(ことわざ)があり、子どもの時から聞いていますが、未(いま)だに物事を先延ばしにしてしまいます。来客(らいきゃく)があるまで、家の掃除(そうじ)を先延ばしします。体調が悪いときも、ひどくなるまで病院(びょういん)に行くのを先延ばしします。体重(たいじゅう)が随分(ずいぶん)と増(ふ)えるまで、運動(うんどう)も先延ばしにしてしまいます。時々、この英語バイブル・タイムの準備(じゅんび)も、しめ切り前夜(ぜんや)まで先延ばしにしてしまいます。最後の瞬間(しゅんかん)まで何もせずにいて、トラブルに陥(おちい)ります。お客さんがいらっしゃる直前(ちょくぜん)に掃除をすると、片付けで疲れてしまい、お客様と親しく交わることができません。バイブル・タイムの場合も、しめ切り間際(まぎわ)まで先延ばしにすると、あせってしまい、よいアイデヤがでてきません。そのために、パニックになってしまいます。物事を先延ばしにしても、良い事は何もありません。ぎりぎりまで何もしないことは、良い結果をもたらしません。先延ばしは、私にとって、トラブルの原因(げんいん)になっています。

物事を先延ばしにしたり、最後の瞬間まで何もしないでいることに対して、聖書は繰り返し警告(けいこく)をしています。首記(しゅき)の聖句はその一つです。

毎朝、私は浴室(よくしつ)で化粧(けしょう)をします。お湯(ゆ)を使うと、湯気(ゆげ)が霧(きり)のように出て鏡(かがみ)につきます。鏡は曇(くも)って、顔(かお)がよく見えません。窓(まど)を開けると、湯気は消(き)えます。すぐに、消えてしまう」のです。神様は、私たちの人生はこの湯気のように短い、とおっしゃいます。私たちは、いつ自分の人生が終(お)わるのか分かりません。明日(あす)のいのちの保証(ほしょう)はないのです。私たちは、命(いのち)がある今、今日(きょう)という日にするべき事があります。神様の救いの賜物(たまもの)を受け入れる必要があります。私たちは、イエス・キリストを救い主として信じる必要があります。私たちは、罪(つみ)の赦(ゆる)しと救いのために、神様にお願いする必要があります。明日では遅すぎるかもしれません。「神様は言われます。『わたしは、恵(めぐ)みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確(たし)かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント六・二)。

 イエス・キリストを救い主として信じ、受け入れる事を、明日まで先延ばしにしないでください。明日という日は来ないかもしれないのです。今日、イエス様を信じてください。(マーサ・カクラン宣教師)

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日米で正反対のもの(英語BT翻訳)

「神はこのように、人(ひと)をご自身(じしん)のかたちに創(そう)造(ぞう)された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」  創世記一章二七節
 私は一八年間日本に住んでいます。日本に来てすぐ、日本とアメリカでは多くの点でやり方が正反対だと気付きました。例(たと)えば、日本では道路の左側を車は走ります。ハンドルは車の右側にあります。アメリカでは、道路の右側を走り、ハンドルは車の左側にあります。日本で「白黒テレビ」と言いますが、アメリカでは「黒白テレビ」です。日本で「あっちこっち」と言いますが、アメリカでは「こっちあっち」です。日本では、伝統的な縦(たて)書きでは、右から左に読みます。アメリカでは、横書きで、左から右です。

 指(ゆび)を使って、数(かず)を数(かぞ)える方法も日米では反対です。アメリカでは手のひらを結(むす)んだ状態で始めて、指を一本づつ開いてゆきます。日本では手のひらを開いた状態で始めて、指一本づつ折(お)っていきます。アメリカでは食事の前に果物(くだもの)を食べますが、日本では食後に果物を食べます。日米では、これらのすべてが正反対になっています。日本人とアメリカ人の方法、流儀(りゅうぎ)はある部分で正反対です。しかし、それはそれで良いのです。異なる文化を持つことは悪いことではありません。読む方向の違いや、話し方、食べ方などが国によって違うことは、何も問題ではありません。

しかし、問題となる一つのことに気付きました。その点に関しては、適切な方法が一つしかないので、逆に置き換えてはならないのです。日本に来て、人間が造った木、石、銀、あるいは金の神々を多く見ました。人間は真(まこと)の神を造(つく)ることはできません。真の神様が人間をお造りになったと聖書は記しています。神様があなたを造られたのです。創世記一章二七節の御(み)言葉の通りです。神様が私たちをお造りになったのですから、私たちにどのように生きるべきかを命ずる権利をお持ちです。また、私たちに礼拝の仕方を命ずる権利をも神様はお持ちです。私たちをお造りくださった神様のご命令に従うべきです。私たちは被造物であり、創造主ではありません。

神様の御言葉である聖書は、世界中のすべての人にとって唯一(ゆいいつ)の権威です。アメリカ人と日本人の文化には、互いに正反対の部分があります。しかし、アメリカ人も、日本人も、聖書の権威(けんい)に逆らう文化を持つことはできません。

あなたは唯一、真の神様を信じていますか。あなたは神様の御言葉に従っていますか。それとも神様の御言葉に逆らう生活をしていますか。(カクラン宣教師)

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ドアが閉まる(英語バイブルT翻訳)

「わたしは門(もん)です(英語ではドアー)」(ヨハネ一〇・九)。「主(しゅ)を求(もと)めよ。お会(あ)いできる間(ま)に。近(ちか)くにおられるうちに、呼(よ)び求めよ」(イザヤ五五・六)。 

約四年半前、二人の友人と東京に行きました。友人たちは宣教師として日本に来たばかりで、日本語はほとんど話すことができませんでした。東京についても全く知りませんでした。私たちは総武線で東京駅まで行きました。そこから、地下鉄の丸の内線で銀座に行きました。キリスト教書店と大きな玩具(がんぐ)店に行きました。ウェンディーズで昼食をとり、もう少し買い物をして、丸の内線で東京に戻りました。私は時刻表(じこくひょう)を見ました。総武線の電車が間もなく出発することが分かりました。三時三八分発の電車でした。私たちは最初のエスカレーターを下(くだ)って行きました。二番目のエスカレーターを降(お)りると同時(どうじ)に、発車(はっしゃ)のブザー音が聞こえました。私は「走って!」と叫(さけ)びました。私はこれまでにも東京で電車に乗(の)ったことがあったので、電車に飛び乗ることができました。しかし、友人たちは電車に乗れませんでした。電車に飛び乗る前に、ドアは閉まってしまいました。ドアをはさんで、私も友人たちも、呆(ぼう)然(ぜん)と立っていました。私は電車から降りることができず、彼らは電車に乗ることができませんでした。彼らは日本語を話せず、目的の駅名も分からないだろうと思い、私は非常に心配しました。どうしたらよいのか分からず、呆然としているなか、電車がホームを出発していきました。

イエス・キリストは「私は門です」と言われました。イエス・キリストは命(いのち)への入(い)り口であり、天国への入り口です。イエス様は幸福(こうふく)と満足(まんぞく)への入り口でもあります。これらの扉(とびら)は、今、あなたに開かれています。しかし、いつか必ず閉まります。あなたは死んだあとに、イエス・キリストを救(すく)い主(ぬし)として信じることは出来ません。あなたがこの地上の命を終えるとき、この救いのドアは閉じられてしまいます。

もう一つの聖句には、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」とあります。あなたが真剣(しんけん)に主を求めるならば、あなたは今日にでも主にお会いすることができます。主はあなたの近くにおられ、あなたを全ての罪(つみ)から救いたいと願っておられます。

手遅(ておく)れになる前に、あなたもイエス・キリストを求めませんか。イエス・キリストをあなたの救い主として信じ、受け入れませんか。扉はいつか必ず閉まります。その前に、イエス様を信じませんか。
          (マーサ・カクラン宣教師)

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