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習志野バプテスト教会の週報

完全な変化(英語バイブルタイム翻訳)

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人(ひと)は新(あたら)しく造(つく)られた者(もの)です。古(ふる)いものは過(す)ぎ去(さ)って、見(み)よ、すべてが新しくなりました。」  Ⅱコリント五章一七節

 人生を最初から完全にやり直したい、と思ったことがありますか。友人に言った不親切な言葉を取り消したい、と思ったことがありますか。ある罪(つみ)を無かったことにしたい、会社を変更したい、大学で別の専門を勉強したい、と思ったことがあることでしょう。ある場合は、最初からやり直すことができます。私は五歳からピアノを弾(ひ)きはじめました。一〇歳のとき、ピアノの先生が変わりました。新しい先生は、「私の弾き方は正しくない」と言い、もう一度最初から正しい弾き方を練習させました。私の趣味はクロス・スティッチです。手(しゅ)芸(げい)の一種です。何度も間違え、糸を全部引き出し、最初からやり直す必要がありました。私は高校から大学時代、静かで、内気(うちき)な性格でした。小学校の教師になった時に、私は変わりました。私のことを知る人がいない新しい土地に移動したので、私は意識的(いしきてき)に人々の所に行って話をするようにしました。私は教会と学校で活動的になりました。人生の再出発を果たし、ノースカロライナ州ゴールズボロには、私が静かで内気な女性と思う人はいませんでした。私達はピアノや手芸をやり直すことができます。新しい場所で再出発することができます。しかし、私達の罪はどうでしょうか。消し去ることができますか。私達の力で、罪を取(と)り除(のぞ)くことができるでしょうか。

私は、一人の少年について話を聞きました。彼は農場に住んでいて、非常にいたずら好きでした。少年が悪いことをする度(たび)に、彼の父親は納屋(なや)の戸に釘(くぎ)を打ち込(こ)みました。ある日、父親は、「このドアの釘を見なさい。おまえは悪い事を沢山(たくさん)してきた。お父さんは、お前がよい子になれるかどうかを見ているよ。お前がよいことをする度に、私はこの釘を抜(ぬ)いていく」と言いました。ずっと後になってから、父親は息子を呼び、「ほら、すべての釘はなくなった。お前はよいことをするようになった」と言いました。息子は釘がすべてなくなって嬉(うれ)しかったけれど、ドアの近くに行くと、釘の穴はまだ残っていました。釘の穴(あな)は、少年が過去に悪い事をしていたことを証しています。少年がどれほどよい事をしても、穴は残っていました。

よい事をすることによって、自分の力で罪を取り除くことはできません。しかし、神様は私達の罪が完全に赦(ゆる)されるようにご計画され、十字架上のイエス・キリストの死によって罪の贖(あがな)いを実現されました。首記の聖句をもう一度読みましょう。あなたは罪からの救い主としてキリストを受け入れましたか。(マーサ・カクラン宣教師)

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イエス・キリストの愛

「イエス・キリストの愛(あい)の広(ひろ)さ、長(なが)さ、高(たか)さ、深(ふか)さがどれほどであるかを理(り)解(かい)する力(ちから)を持(も)つようになり、人知(じんち)をはるかに越(こ)えたキリストの愛を知(し)ることができるように」とパウロはエペソの信者のために祈った(エペソ三・一八、一九)。キリストの愛を、私たちはどれほど理解しているだろうか。私たちは、キリストの愛の広さを知るために祈る必要がある。

 パウロは「キリストの愛が私たちを取(と)り囲(かこ)んでいる」(Ⅱコリント五・一四)と記している。キリストの愛を知ったパウロは、「もはや自(じ)分(ぶん)のためにではなく、自分のために死(し)んでよみがえられた方(かた)のために生(い)き(る)」と決心した(Ⅱコリント五・一二)。私たちはどうであろう。パウロと同程度までにイエス様の愛を知ることが出来ないとしても、イエス・キリストの愛を今よりもよく知ることができるなら、私たちの人生は必ず変わる。

 「人知をはるかに越えた」ことを簡単に理解することはできない。父なる神様の御(み)前(まえ)にひざまずき、御霊(みたま)の助けによって、神様の大きな愛を理解できるように祈ろう。「…彼(かれ)は、私たちのそむきの罪(つみ)のために刺(さ)し通(とお)され、私たちの咎(とが)のために砕(くだ)かれた。彼への懲(こ)らしめが私たちに平(へい)安(あん)をもたらし、彼の打(う)ち傷(きず)によって、私たちはいやされた」(イザヤ五三・五)を黙(もく)想(そう)しよう。自分のことばかり考える心の醜(みにく)い者であり、様(さま)々(ざま)な罪に汚れた私のために、イエス様はどうして死んでくださったのだろう。「イエスなんて知らないし、信じない」と言ってイエス様を侮辱(ぶじょく)し、拒絶(きょぜつ)していた私のために、どうして身代わりとなって十字架の上で死んでくださったのだろう。イエス様の一方的な愛がその答えである。

〝信(しん)仰(こう)の創(そう)始(し)者(しや)であり、完(かん)成(せい)者(しや)であるイエスから目(め)を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍(しの)び、神の御(み)座(ざ)の右に着(ちやく)座(ざ)されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反(はん)抗(こう)を忍ばれた方のことを考えなさい。それはあなたがたの心が元気を失い、疲(つか)れ果(は)ててしまわないためです。〟ヘブル一二・二、三

 誰かにつけられた傷と自分自身の罪のためにつけてしまった傷を見つめるのをやめよう。心が疲(つか)れ果(は)ててしまい、悲しみと後悔(こうかい)だけの人生になってしまう。私たちの全ての罪を負って、十字架の上に死んでくださったイエス様の傷を見つめよう。イエス様の愛は永(えい)遠(えん)に変わることがない(ヘブル一二・八)。そして、復活なさり、神の御座の右に着座された、勝利の主イエス・キリストを見つめよう。

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イエス・キリストの福音②

〝「キリスト・イエスは、罪人(つみびと)を救(すく)うためにこの世(よ)に来(こ)られた。」ということばは、まことであり、そのまま受(う)け入(い)れるに値(あたい)するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後(こんご)彼を信(しん)じて永遠(えいえん)のいのちを得(え)ようとしている人々の見本(みほん)にしようと、まず私に対(たい)してこの上ない寛容(かんよう)を示(しめ)してくださったからです。〟 Ⅰテモテ一章一五、一六節

 「私は以前(いぜん)は、神をけがす者(もの)、迫害(はくがい)する者、暴力(ぼうりょく)をふるう者」(Ⅰテモテ一・一三)であり、罪人のかしら(第一級の重罪(じゅうざい)を犯(おか)した者)でした、とパウロは告白(こくはく)している。イエス様は、罪人を救うためにこの世に来られた、とは驚くべきことであり、私たち罪人にとってはこれ以上にない幸(さいわ)いな知らせである。首(しゅ)記の聖句は、罪が赦(ゆる)されるために必要なことは以下のことであると教える。

一、自分の罪を正直に認め、自分自身では罪の問題をどうすることも出来ないことを認(みと)めること。
二、神様の憐(あわ)れみにより頼(たの)み、神様がお与えくださった救いの方法に従(したが)うこと。すなわち、私たちのために苦(くる)しみをお受けくださり、十字架の上で死んで下さったイエス・キリストを「私の救い主(ぬし)」と信じること。

 聖書は神様のお言葉である。この聖書が、〝「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです〟と記しているのだ。受け入れよう。神様は、憐れみに富んだお方でいらっしゃり、罪を悔(く)い改(あらた)める者に対しては「あなたの罪は重すぎて救えません」とはおっしゃらない。「こんな大きな罪を犯した自分は、救われるはずがない。罪がゆるされるはずがない」と絶望(ぜつぼう)している人がいるならば、パウロの救いを考えよう。クリスチャンを縛(しば)り、暴力を加えるほどの激しい迫害をしたパウロであったが、イエス・キリストは彼をもお救いくださった。パウロは「罪人のかしらである私が救われたのだから、救われることができない人は、いない」と証(あかし)している。イエス様ご自身が、そのことの証明としてパウロを「見本」になさったのだ。

 イエス様の十字架上での身代わりの死を信じる者は、神様を無視して自分を神としてきた罪、及びこれまでの全ての罪を赦される。罪を完全にお赦しくださる神様は、キリストを信じる者をご自分の子どもとしてくださり、永遠の生命(いのち)と一切の霊的(れいてき)祝福をお与えくださる。イエス・キリストをあなたの救い主と信じよう。

 クリスチャンはこのすばらしい福音を出来るだけ多くの人に証しよう。今週、あなたにとって一番大切な人の救いのために特に祈り、証が出来るように祈ろう。

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イエス・キリストの福音

イエス・キリストは世(よ)の救(すく)い主(ぬし)です。万(ばん)物(ぶつ)を造(つく)られたお方です(コロサイ一・一六)。人生の目当てがこのお方にあるなら、あなたの人生は必ず祝福されます。主(しゆ)イエス様は知恵と愛と力に満ちたお方です。私にとっての最善をご存(ぞん)知(じ)であり、それを願ってくださり、必要な力、助け、導きをお与えくださいます。

 聖書は神様からのお手紙です。聖書を初めて読んだのは、高校三年の時、米国テネシー州のホーム・ステイ先で個人伝道を受けた時です。「義(ぎ)人(じん)はいない。ひとりもいない。・・・すべての人は、罪(つみ)を犯(おか)したので、神からの栄(えい)誉(よ)を受けることができ(ない)」という神様のお言葉が私の心に迫(せま)ってきました。それまで私は、私に命をお与えくださった神様を知らず、私が神様との親しい関係を求めることをずっと待っていてくださった神様の愛を知らずに、自分を神として生きてきたのです。これは最も大きな罪です。当然、自分の満足のために、醜(みにく)いこと、汚(きたな)いこともしました。聖書は、「罪から来る報(ほう)酬(しゆう)は死です」と記しています。いつか自分も死ななければならない理由がわかりました。神様に背(せ)を向けて生きてきた私は、自分の罪のために死ななければならなかったのです。自分の真の姿と自分が置かれている状況が分かりました。

 感謝なことに、先の聖句にはそれぞれ続きがあったのです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵(めぐ)みにより、キリスト・イエスによる贖(あがな)いのゆえに、価(あたい)なしに義と認められるのです」(ローマ三・二三、二四)。
 「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜(たま)物(もの)は、私たちの主キリスト・イエスにある永(えい)遠(えん)のいのちです」(ローマ六・二三)。
 神様は、私の真の姿と同時に、その惨(みじめ)めな状態、恐ろしく危険な状態からの救出の道をお教えくださいました。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ五・八)。「神は、実(じつ)に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御(み)子(こ)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ三・一六)。
 私は、「こんな罪深い私を愛してくださるのですか。イエス様の十字架の死は私の罪のためであったことを信じ、イエス様を救い主として信じるだけで、罪が赦(ゆる)されて、天国へ行けるのですか」と驚きました。信じられないようなすばらしい知らせです。しかし、神様のお約束に間違いはないと信じ、私はその日、イエス・キリストを私の救い主として信じました。罪の中に死んでいた者が、イエス様と共に生きる者になったのです。イエス・キリストの福音以上にすばらしい「良い知らせ」はありません。

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