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習志野バプテスト教会の週報

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偉大なデザイナー(英語BT翻訳)

 「初(はじ)めに、神(かみ)が天(てん)と地(ち)を創(そう)造(ぞう)した。」 創世記一章一節

あなたは、聖書の最初の御(み)言(こと)葉(ば)を知っていますか。それは、創世記一章一節で、首記の御言葉です。この御言葉は、神の存在(そんざい)を証明(しょうめい)しようと試(こころ)みていません。神の実(じつ)在(ざい)を議(ぎ)論(ろん)するためでもありません。神様が天地を創造された事実を述べているだけです。人々は、単純明快(たんじゅんめいかい)なこの事実を信じようとしません。聖書がはっきりと述べている事実を信じる代わりに、神の存在を証明するか、否定しようとします。

私は聖書を信じます。真(まこと)の、生きておられる神様はお一人しかいなく、万(ばん)物(ぶつ)の創造主でいらっしゃると私は信じます。神様の御言葉に記されているならば、私にとってそれで十分です。神様がお造りになった世界を見ると、神様のお言葉は本当だという確信が与えられます。

新聞に服(ふく)飾(しょく)デザイナーについての記事が、シリーズで掲載(けいさい)されています。ハナエ・モリのデザインがパリで絶賛(ぜっさん)、と記(しる)されていました。また、いくつもの賞を得たアマチュアのデザイナーが、ファッションショーのためにニューヨークに行く、という記事も読みました。美しい服はすべて、誰かによってデザインされています。それらは独(ひと)りでに誕(たん)生(じよう)しません。ハナエ・モリはインスピレーションを得て、デザインを徹底的(てっていてき)に考え、一つ一つの細部を検討し、最終的に、美しい服飾図を描きます。偶(ぐう)然(ぜん)には出来ません。すべてが注意深く計画され、完成したのです。

あなたはどんなにすばらしくデザインされているか考えたことがありますか。耳が肘(ひじ)の上にあったならばどうでしょう。目と口が逆の場所にあったなら、鼻が頭の上にあったなら、親指か小指がなかったなら、どうでしょうか。随分(ずいぶん)と不自由でしょう。体のすべては、詳細(しょうさい)に、注意深く計画されています。私たちの体は偶然に出来たものではありません。神様は天地を、そして私達人間をデザインなさり、お造(つく)りになりました。

詩篇一四篇一節には、「愚(おろ)か者は心の中で、『神はいない』と言っている」とあります。 あなたも心の中で「神はいない」と言っていましたか。あなたはハナエ・モリを偉大な服飾デザイナーと認めるでしょう。天地とあなたをこのようにすばらしくデザインなさった神様を、偉大なデザイナーとして認めませんか。 (マーサ・カクラン宣教師)

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現会堂献堂記念日⑤(二〇〇〇年五月二〇日)

 神様は、教会にとっても、牧師家族にとっても最善な道をお開きくださったのです。私達が他の住まいに移動していたら、B(バプテスト)ホームとその家賃の合計は新バプテストホームの家賃と同等かそれ以上になったはずです。アパートの更新料と駐車場代も必要でした。

新バプテストホームの家賃が通常よりも安いために、大家さんがローンを組む銀行から、教会がこの家を長期間借りる念書が必要と言われました。相場よりも安いとは言っても、十三万円の家賃は大変です。神様の大きな祝福を数えずに、家賃の大変さだけを見ることがないように注意しなければなりません。神様は、ご自分に仕える献身者のために、アパートよりも快適ですばらしい住居をお与えくださいました。また、教会の働きと経済にとってもベストな道をお備えくださったのです。バプテストホームを借りている故に、六台は駐車できる場所を三万円で借りられているのです。他の駐車場のおおよそ半分の金額です。

 現在の流山伝道所を借りる時も、神様のすばらしい御業(みわざ)がなされました。神様の御(み)心(こころ)が示されるまでは、どうしたら良いのか分からず、苦しい時が続きました。神様の御心が分かりませんでしたので、青島伝道師夫妻は結婚後も、伝道師が住んでいたアパートで新婚生活を始めました。アパートの更新時期が近づいてきました。伝道所に伝道師夫妻が住むのは理想ですが、伝道師家族が住め、かつ、これまで以上に広い集会所となる物件が予算内で見つかるか分かりませんでした。しかも、伝道所が移るならば、カクラン宣教師の住居をどうするかも、大切な課題でした。カクラン宣教師も家賃に払える金額は決まっていました。これまでの伝道所の家賃は予算以上でしたが婦人集会所として半額を教会が負担しました。

 伝道所に集っている方々が続けて来られる場所、新しい方が来やすい場所、という条件まで加えると、「そんな物件はない」ように見えました。初石駅の近くにあった三階建ての物件は、「こんな立派な建物は家賃が高いだろう」と候補にあがっていませんでした。「聞くのはただだから、聞くだけ聞いてみたら」という家内(かない)の一言から、話が一気に進んで行きました。大(おお)家(や)さんの奥様が婦人集会にお見えになったことがあり、カクラン先生と面識(めんしき)があったのです。他にも借りたいという人がいたのに、私たちに貸してくださったのです。家賃を下げてくださり、しかも、「小さい子がいるから」とのことで、大家さんの負担で手直しを色々としてくださいました。更(さら)に、これまでの伝道所の家賃が下げてもらえ、カクラン先生は引越をしないですんだのです。神様の御名(みな)を崇(あが)め、賛美しましょう。

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現会堂献堂記念日④(二〇〇〇年五月二〇日)

 一九九九年、新会堂建築で一番忙しい時に、佐倉市の知人から留守番を兼ねて家に住んで欲しいとの依頼を受けました。当時借りていたアパートの更新を丁度すませた時でした。最初お断りをしたのですが、最終的に引き受けて、引越をしました。数ヶ月後、佐倉市の税金と国民健康保険料が習志野の時よりも高いことがわかり、そこには住めなくなりました。

 アパートの更新料を払った直後に佐倉に移動したのに、また新しくアパートをかりて、敷金や礼金を払うのは、教会に大きな負担をかけます。どうすべきか祈っていました。最終的に導かれたのが、バプテスト・ホームでした。新会堂も完成し、集会所として使用していたバプテスト・ホームがあいていたのです。教会は、敷金も私たちの住居費も別途に払う必要がなく、教会にも近く、ベストだと思いました。

宿泊したことがある方はご存じですが、ホームは「野生の王国」で、ヤモリ、羽あり、大きなクモ、蛭(ひる)やナメクジが生き生きと生活していました。家内は「出来ればホームには住みたくない」と前から言っていましたが、状況からするとホームに住まさせていただくこと以外に道はありませんでした。なぜ一番忙しい時に、佐倉に引越をし、さらに短期間の内にまた引越をしなければならないのか分かりませんでした。しかし、神様はその時からこのバプテストホームの場所に住むように、私たちを導いてくださっていたことが今になるとよく分かります。このような状況がなければ、私たちはバプテスト・ホームに住むことはなかったと思います。

この会堂の建築と同時期に、Bホーム周辺の多くの家も解体されました。少し低い位置にあるBホームに雨水が流れてきて、床下の湿度(しつど)が高くなり、かびだらけになりました。流しの下とタンスのなかには、何もいれられなくなりました。二〇〇二年の夏期キャンプ以後、気管支(きかんし)がやられ、耳鼻科に通いましたが、回復しませんでした。畳(たたみ)の隙間(すきま)から床下のカビが風にのって寝室に入っていたのです。

神様に、住まいのことを祈っていました。教会のお隣の方は、「将来私たちの一方が死んだら、教会で家を借りてほしい」と言っておられました。しかし、お隣のご夫婦は家を売り、引っ越されました。健康面で限界に近いことから、神様の御心を祈り求めていました。ある台風で、物置が浸水し、カビが更に増えました。大家さんは、私たちが、カビで数ヶ月も体調が悪いことを知り、心配してくださいました。すぐに建替えをお考えくださったのです。(続く)

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現会堂献堂記念日③(二千年五月二〇日)

 一九六五年一一月二三日、現在の会堂がある場所に会堂を献堂。新会堂の横にあった集会所(一九六三年一一月二三日に献堂)を、牧師ご家族が住めるように改造。途中から業者に依頼し、一九六六年一月に工事終了。一月末、丸山先生ご家族が教会敷地内に移動。

 一九六七年一一月、三澤隆男先生の按手礼(海神伝道)。一九七一年二月、齋藤雄典先生の按手礼(沖縄伝道)。習志野の地から、福音が広がっていった。  神様は、当教会の伝道も豊かに祝福してくださり、日曜学校および礼拝のために、増改築を何度も行ってく。一九七三年五月、二階を増築(一五坪)。一九七七年八月、一階ベビー・ルーム増築。

 米軍基地内にあった将校の宿舎を半分切り取って、建てたこの場所での最初の集会所(一九六六年から牧師家族の住まいとして利用)を一九八二年に取り壊し、教育館および牧師館を建築。同年八月に献堂。現在の会堂とつながっている教育館・牧師館は三五年目になる。きれいに使っているので、そんなに経っているように見えないが、水回りなどをはじめ、補修が必要な箇所が出てもおかしくない。教育館・牧師館を献堂した翌年(一九八三年)から、新会堂建築のための信仰約束献金を始めた。

 一九六五年一一月二三日に献堂した会堂(旧会堂)は、一九八五年六月、入り口その他の増改築を行った。

 一九八八年二月より、新しい会堂(現会堂)のために具体的に検討開始。①現在の場所か、②他の場所に移るか、③牧師館を他の場所に求め、現在の土地を広く使って会堂を建てるか、は大きな決断であった。現会堂が出来上がるまでのことは、『献堂のしおり』(二〇〇〇年五月)にまとめられている。神様の大きな御業(みわざ)の軌跡(きせき)である。一部を記せば、二〇〇~二五〇人収容の礼拝堂を可能にする設計者、手抜きを一切(いっさい)許さないクリスチャンの現場監督、教会の必要を理解した音響工事者、費用削減のために材料を米国から輸入する業者など、必要な人々を神様はお与えくださった。

 一九八三年から新会堂のために信仰約束献金を始めていたが、必要額は大きく、資金不足であった。しかし、ビルディング・バスケット、教会債の発行、有志による備品献品と作成によって、すべての必要が満たされた。教会債の返済も、大変な時期が続いたが、すべて約束の期限内に返済が終わった。二〇〇〇年二月二七日(日)の関係業者をお招きしての感謝礼拝と感謝会、同年五月二〇日(土)の献堂式、二一日(日)の献堂記念コンサートは、教会員それぞれにとって大きな喜びの日であった。

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