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習志野バプテスト教会の週報

努力しても何の役にも立たないこと(翻訳)

 「…見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント四・一八b)

 私(わたし)は最近、婦人のバイブル・クラスで「私たちのすばらしい神様の特(とく)徴(ちよう)を考え、それらを心に留めましょう」と励ましています。寺、神社、金銀石あるいは木でできた偶(ぐう)像(ぞう)の神々に囲まれていると、私たちがお仕えしている神様が唯(ゆい)一(いつ)の神であられることを忘れてしまいやすいのです。私は、婦人のバイブル・クラスで、イザヤ四四章から、神々の像を造る人々の愚(おろ)かさについて、神様がおっしゃっていることを分かち合いました。偶像についてのイザヤ書の説明にもありますが、ある偶像は細(さい)部(ぶ)にわたるまで美しく、巧(たく)みに制作されています。イザヤ四四章に最初に登場する人は、像を作り終えるまでは飲食を忘れて、制作に没(ぼつ)頭(とう)して、懸(けん)命(めい)に働いたとあります。日本人が尊(とうと)ぶ特質です。そのようにして完成したものに、日本人は大きな価値を見出します。しかし、神様は、それらは何の役にも立たないと言われました。

 イザヤ四四章に登場する別の人は、木を手に取り、四つのことをしました。その順番に注目してください。最初に、その木を薪(まき)として火をおこし、体を温めました。次に、その火を使って食事をつくり、パンを焼きました。最後に、残った木を使って、像を刻み、像の前にひれ伏し、礼拝し、「私を救ってください。あなたは私の神だから」と祈りました。彼は、自分の必要を満たすために色々な事をし、最後に、偶像の神をつくりました。彼は、自らの行動に何の違(い)和(わ)感(かん)も持ちませんでした。「彼は何の知識も理解力も持たず、彼の心は欺(あざむ)かれている」と神様は言われます。

 私たちの神様は永遠のお方であり、何でもおできになり、どこにでも存在なさり、変わることがなく、何でもご存知で、きよく、ただしく、そして愛に満ちたお方であることをよく考えましょう。日本には木でつくられた偶像が多くあります。風雨にさらされると捻(ねじ)れ、腐(くさ)り、色あせ、表面がざらざらになる木でできた偶像の神の特徴を真の神様の特徴と比較してみましょう。目はなく、耳はなく、木の中にいる小さな虫に穴をあけられてしまう偶像の神です。最後には、初めに薪として使われたように、火の中で燃やされてしまいます。偶像をつくる人たちの努力に対して、「何の役にも立たない」と神様が言われたのは不(ふ)思(し)議(ぎ)ではありません。

 「…わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。」(イザヤ四四・八)   (マーサ・カクラン宣教師)

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私達と共にいてくださるキリスト(翻訳)

 「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(Ⅰペテロ一・八)

 「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜び」について考えると、いつも心が躍(おど)ります。このような喜びは、何らかの外的要(よう)因(いん)によってもたらされる感情や心の持ちようではありません。この気持ちは、イエス・キリストから与えられるものであり、心の中から絶えず溢(あふ)れ出てくるものです。イエス・キリストが私たちの心の中にいらっしゃる時にのみ与えられるものです。

 日本では、元旦はとても重要な祝日です。この日の早朝、私の家の近くにある神社で鐘(かね)が四〇回なります。仏教の寺と神道の神社の鐘には、複雑な模様があります。鐘の外側は、美しい模様に鋳(ちゆう)造(ぞう)されていますが、鐘の内側には何の模様もありません。鐘の脇(わき)には、丸太がロープで吊(つる)されています。僧侶はロープを引いて、鐘に向けて丸太を打ち、悲しみに満ちた残響を引き起こします。新年が始まるというよい知らせを伝える代わりに、キリストを信じていない人々と宗教の虚(むな)しさと希望のなさを要約している音を響かせています。その音を聞いていると、憂(ゆう)鬱(うつ)な気持ちになるので、大(おお)晦(みそ)日(か)の晩は、深夜一二時前に寝るようにしています。

 寺や神社の鐘とは対照に、教会の尖(せん)塔(とう)から聞こえる鐘の音は喜びに溢れているように思います。鐘の中にある音を響かす部分によって、鐘は、積極的で、励ましと希望に満ち、気持ちを高め、言葉に尽くすことのできない喜びに満ちた音色をとどろかせます。心の中にキリストを持つ者の気持ちであり、とてもすばらしいために言葉では表現ができない喜びです。
 イエス・キリストが共にいてくださるので、イエス様との正しい関係を維(い)持(じ)するなら、喜びは日毎に新しく与えられます。
 イエス・キリストが共にいてくださるので、私たちの周りにいる人々を勇気づけ、励まし、そして彼らに仕えることができるように、溢れるばかりに喜びが与えられます。

 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」 ヨハネ一五・一一 (マーサ・カクラン宣教師)

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聖書の預言 (新英語版Bタイム翻訳)

 一九九六年はどんな年になるのでしょうか。一九九五年は、日本にとって大変な年でした。第一に、神戸で大きな地震がありました。第二に、地下鉄サリン事件がありました。個人的な災難、愛する人の死、失職、持ち物を全て焼き尽くす火災などにあった方も多くいらっしゃるでしょう。新しい年は希望をもたらします。

 新年はクリスチャンにも希望を与えます。イエス・キリストは、再び地上に戻ってこられると御約束になりました。ですから、私達は一九九六年に、主イエス様は再臨なさるかもしれないと期待しているのです。 もしかしたら、あなたは、イエス・キリストが天から再び地上に戻ってこられることを疑っているかもしれません。一九九六年という数字を考えてみましょう。どこから始まったのでしょうか。イエス様がこの地上でお生まれになってから一九九六年という意味です。西暦は世界中で用いられています。AD一九九六年はキリスト紀元一九九六年を意味し、イエス・キリストが地上にお生まれになった事実を思い出させます。

 イエス様のお誕生について、旧約聖書に預言されていたことをご存知ですか。ベツレヘムという小さな町でお生まれになることさえ預言されていたのです。イエス様のお誕生に関する全ての預言は成就しました。新年は西暦一九九六年であると言う時に、イエス様のお誕生についての預言が成就したことを覚えるのです。

 イエス様のお誕生についての預言が全て成就したのなら、イエス様が再臨なさるという預言も全て成就するはずです。しかし、多くの人は信じません。イエス様が再臨なさることを神様はご存知です。「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」(Ⅱペテロ三・三~四)。再臨について疑う人がいても、神様は驚かれません。疑う人がいることを神様はご存知でした。

 「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(Ⅱペテロ三・九)。主イエス様がまだ再臨なさっていない理由です。神様はだれ一人も、死んで地獄に行くことをお望みではないのです。全ての人が悔い改めて、神様に罪の赦しを乞い、救いを求めてほしいと願っていらっしゃるのです。あなたが罪を悔い改め、神様に救いを求めることを、神様は待っておられます。一九九六年があなたにとって素晴らしい年となりますように。願わくは、あなたがキリストを救い主として心にお迎えする年となり、キリストの再臨の年となりますように。(一九九六年記、マーサ・カクラン宣教師)

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御言葉によって支配され、影響されよう

 教会創立五五周年の今年は、今日を含め五二回日曜日があります。教会員が成長し、求道者が罪に気づいて救い主イエス様を心にお迎え出来るように、み言葉のご用にあたる牧師、伝道者のためにお祈りください。

 元旦礼拝では詩篇一篇から黙想しました。

1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。 2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。 3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。 4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。 5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。 6 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。

 「幸いなことよ」の英語は、祝福された人です。自分が人生の中心にある人は、欲望に支配されます。悪いことと分かっていても、欲望に勝てません。一~三節に記されている人の人生の中心は、自分ではなく、主なる神様です。欲望に支配されるのではなく、主の御言葉に支配されています。その人のリーダー(導き手)は、主なる神様ですので、義の道に導かれます。本当に幸いな人は、神様に祝福された人です。

 主なる神様の御言葉を信じる人は、幸いです。主の御言葉の素晴らしさを味わっている人は、どんな状況に置かれていても、平安、希望、喜びに溢れています。そして、もっと、神様の御言葉の素晴らしさを知りたい、神様に喜ばれるものになりたい、と願っています。それで、時間を見つけては、神様の教えを暗誦し、黙想し、実行しようとします。

 そのような人は、主なる神様としっかりとつながっているので、栄養をたっぷりと与えられます。周りの人々の祝福となります。そして、時がくると豊かな実を結びます。実を結ぶまで、忍耐が必要です。神様を信頼することを学びましょう。常識では考えられないことでも、状況からは不可能に見えても、希望の光が見えない時でも、神様を信頼することを学びましょう。

 神様の御前における悪者は、邪悪な行為をする人だけではありません。自分を神とし、主なる神様の助けはいらないと言っている人も悪者です。高い道徳規準と倫理観をもって生きている「よい人」の方が、頑(かたく)なに神様の助けを拒(きよ)絶(ぜつ)するかもしれません。その人は、神様がいらっしゃる天国には入れません。私たちも以前は神様を拒絶していた者です。伝道しましょう。

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