FC2ブログ

習志野バプテスト教会の週報

「危ないこと」 (英語版BT翻訳)

「主(しゆ)の御(み)名(な)を呼(よ)び求(もと)める者(もの)は、だれでも救(すく)われる。」     ローマ人への手紙一〇章一三節
 
 私は泳ぐのが苦(にが)手(て)です。鼻に水が少しでも入ると、大変なことになってしまいます。一〇代、二〇代はじめの頃、何度か危険な目に遇(あ)いました。 中学生の頃、友人とプールに行った時のことです。泳げもしないのに、飛び込み台から深いプールへ何度も飛び込んで遊んでいました。水から浮かび上がったらすぐに壁(かべ)につかまることが出来るように、プールサイドの近くに飛び込んでいました。最後に飛び込んだとき、壁際(ぎわ)に近づきすぎて、頭を打ってしまいました。病院へ行き五針も縫(ぬ)うはめになってしまいました。今でもそのときの傷跡が顔に残っています。

 大学生のとき、水上スキーをしました。いつもライフジャケットをつけていました。ジャケットをしっかりと着ていれば、安全だと思っていたのに、いざ水中に投げ出されると、ボートがきて水から引き上げられるまで、いつもあわてふためいていました。
 「そんな危ないことをしなければいいのに。おぼれたかもしれないじゃないか。」と、思われるかもしれません。しかし、あなたがもし、「罪から救ってください」と、主の御名をまだ呼び求めていないなら、あなたもまた危ないことをしているのです。いつ病気になったり、事故に遇ったりして死んでしまうか誰にもわかりません。死んだときに天国へ行くという確信が、もしなければ、あなたは危険な状況にいるのです。

 五才のとき、祖母が海につれていってくれました。私は、浮(うき)輪(わ)をつけられて、海岸の近くで遊んでいました。海は、湾(わん)になっていて、波は穏(おだ)やかでした。ふいに岸から離れてしまい、足がつかなくなってしまいました。私はパニックになって叫びました。祖母も叫び声をあげて、ライフガードに助けを求めました。ほんの一メートルほどしか岸から離れていなかったのに、自分では全くどうすることもできないと感じたのです。

 主の御名を呼び求めるとは、「私は罪を犯しました。自分では、どうすることもできません。どうぞ救ってください」と、神様に告白することです。そのように祈りませんか。そしてキリストを救い主として受け入れませんか。「主の御名を呼び求める者は救われる」。これは神様からの約束です。決して破られることはありません。もし今日、神様を呼び求めるなら、あなたは救われます。今日決心しませんか。(カクラン宣教師)

PageTop

人生の行きつく先 (英語版BT翻訳)

 「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇一六・一一)

 私は行き先について考えるのが好きです。ティーンネージャーの頃、フィラデルフィアの長(ちよう)老(ろう)派(は)病院が、キャンディーの包みをむくヴォランティアを募集していました。私は立候補しました。そこに行くためには、フランクフォードの高(こう)架(か)鉄(てつ)道(どう)に乗らないといけませんでした。どんなものを目にするだろうと想像を膨(ふく)らませていました。

 「美しい町かしら」、「フィラデルフィアに典(てん)型(けい)的(てき)な列(れつ)になった家がたくさんあるのかしら」、「ごみや散(さん)乱(らん)物(ぶつ)、そして悪(あく)臭(しゆう)でがっかりするかしら」などと想像していました。結局、フランクフォードに行きませんでした。しかし、このことをきっかけに、行き先について関心を持つようになりました。私は面白そうな脇(わき)道(みち)や通りを見ると、好(こう)奇(き)心(しん)が働いて、その道の先には何があるのだろうと想像し始めます。

 来日後最初の二年間、日本語学校に通うため、週に五日は電車に乗りました。家に戻るとき、千葉行きの快速電車に乗りました。私が利用していた駅は、千葉駅から二つ先にあり、千葉駅で銚(ちよう)子(し)行きの電車に乗り換える必要がありました。銚子行きの電車は古く、床が古い木の電車でした。銚子まで二時間走る電車でした。私はいつも二駅目で降りたのですが、銚子はどんな所かしらと想像していました。一〇年後、銚子に行くことにしました。

 いつもの電車で、終点まで行きました。海岸沿いの岩、太平洋に面したすてきな砂浜、活気に満ちた魚市場、美しい灯(とう)台(だい)、後ろに富士山を見ながら日の入りの光景を目にしました。海を見渡せるすてきな家に住んでいるご夫婦と知り合いになりました。お二人は陶(とう)芸(げい)家(か)でした。「わたしは私」と日本語で書いてある湯飲みを使っていました。上楽(うわぐすり)をかけて、ご自分で焼いた物でした。このご夫妻に神様の愛について証することができました。銚子は私の思いをはるかに超えたすてきな所でした。それから何回も銚子に行っています。

 箴(しん)言(げん)一四・一二に「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」と記されています。キリストを救い主と知らず、信じていない人たちが行き着く所を知ると悲しくなります。彼らの進む道は広いです。しかし、混乱、孤独、そして危険な崖(がけ)で一杯な道であり、先のない行き止まりが待っている道です。彼らの行き先は、死であり、破(は)滅(めつ)です。

 クリスチャンである私たちは狭(せま)い門を通りました。この道の先には、曲がりくねっていて、困難が待っているかもしれません。しかし、行き着くところがどのような所かを知ることは素晴らしいです。私たちが進む道の終点は、想像を超えてすばらしく、主イエス様を拝する所です。これは命への道です。「正義の道にはいのちがある。その道筋には死がない」(箴言一二・二八)。      (マーサ・カクラン宣教師)

PageTop

決断するとき (英語版BT翻訳)

 「だから、神(かみ)の国(くに)とその義(ぎ)とをまず第(だい)一に求(もと)めなさい。そうすれば、それに加(くわ)えて、これらのものはすべて与(あた)えられます。」(マタイ六章三三節)

 あなたには、お気に入りの聖句がありますか。私は首記の御言葉が好きです。それは、この聖句が物事を決めるときの指(し)針(しん)を与えてくれるからです。私は、これまでの人生で幾つか大きな決断をしてきました。大学の選択、また教師としての仕事探し、そして宣教師として日本へ来ることなど、一つ一つがとても大きな決断でした。しかし、決断のすべてが、みな大きなものばかりとは限りません。日々、小さな決断や選択に迫(せま)られる時もあります。どのようにお金を使えばよいか、明日の働きをどうするかなどを決めなければならないこともあります。日曜日に教会でささげる特別賛美を選び、決めるときには事前に神様の助けを求めます。それは、私にとってとても大事なことです。

 私は、ジグソーパズルがすきです。大体一〇種類ぐらいパズルを持っています。ほんの七〇ピースほどの物もいくつかあります。それは子ども用です。また三〇〇ピース、五〇〇ピースの物もあります。よく行く銀行で、最近一〇〇〇ピースのパズルが展示されていました。ジグソーパズルは大好きですが、たびたびするわけではありません。というのは、一度始めると夢中になってしまい、あまりにも多くの時間を費(つい)やしてしまうからです。「ここにあてはまる、たった一つのピースを探すだけのつもり…。」だったのに、なんと一時間もかかってしまうのです。たくさんのピースが同じ様に見えてしまい、どのピースがぴったり当てはまるか、見分けることは容易ではありません。何度も何度も試(ため)してみなければならず、時間がかかります。

 人生は一〇〇〇ピースのジグソーパズルのようだと思います。神様はすべてをご存知で、私の人生のピースがどこにおさまるかを知っておられます。神様は私の過去をご存知です。聖書には、「母の胎内でじっとしている時から、あなたを知っている」とあります。神様は私の現在もご存知です。私が今、何を考えているか、私の必要なもの、欲しいものは何かをも知っておられます。そして、私の未来もご存知です。今から一〇年後、神様に従っているかどうか。その結果、私がどうなっているかをすべてご存知です。日々の決断は、パズルのピースのようです。神様は、それぞれのピースがどこに当てはまるかを知っておられます。ですから、神様の助けを求めるのです。神様は、私のようにあれやこれやと探しまわることはなさいません。私は大きな決断をする時も、小さなことを決める時も、神様の助けを求めます。どんなに小さなことにでも、神様は心を配(くば)り関心を持っていてくださると聖書に書いてありますから。(マーサ・カクラン宣教師)

PageTop

慌てん坊さん (英語版BT翻訳)

 私は感情的に安定している方だと思います。気分の上がり下がりはあまりなく安定しています。感情が、ジェットコースターの様に急に上がったり下がったりという状態は、あまりありません。とは言え、時々慌ててしまうことがあります。この前の日曜日、私は色いろな物を教会に持っていかなければなりませんでした。家の前に車を停め、トランクに荷物を積み込み、エンジンをかけて、教会に向かいました。

 丁度半分くらいの距離を走ったとき、自分の足に目をやった私は「まあ、大変!」と叫びました。きちんとした靴(くつ)ではなく、犬を散(さん)歩(ぽ)させるときのゴムサンダルを履(は)いていたのです。履き変えるのを忘れていました。履き古して、汚れたサンダルは、礼拝用の服、ネックレス、イヤリングにはそぐわないものでした。

 三年半前にアメリカで経験した、同じような失敗を思い出しました。それはクリスマス直前の日曜日のことでした。ひどい風邪(かぜ)をひいてしまい、熱もあったようなので、眠(ねむ)気(け)をもよおすと知りつつ、薬をのみました。それでも教会に行きたかったのです。気分はとても悪かったのですが、教会に行き、礼拝堂の二列目に座りました。礼拝が始まり、一五分ほどたってから、自分の足が目に留まりました。足を組んでいたのですが、右足を見て「変だわ。紺色の靴を履いたと思ったのに、黒い靴だわ」と思いました。そして左足を見ると、紺色の靴を履いていました。つまり、左右で異なる色の靴を履いていたのです。礼拝中はなるべく足をイスの下に隠(かく)し、礼拝が終わるとすぐに、一目散(いちもくさん)に車に向かいました。

 聖書の中に、素晴らしい聖句があります。私に似て慌てん坊な方、そして、生活の中に安定が欲しいと思っている人にぴったりな聖句です。この聖句は、神様のお約束と変わることのない神様の誠実さについて教えています。「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側に入るのです」(ヘブル六・一九)。

 人生には嵐(あらし)も困難もあります。感情の浮き沈みがあまりない人であっても、しっかりとした変わることのない、心の拠(よ)り所が必要です。大きくて、揺(ゆ)れの少ない船でさえ、時には錨(いかり)が必要になるのです。あなたの人生にも、確かな錨が必要です。神様のお言葉はあなたに落ちつきと安定を与えることができると、神様は御約束くださっているのです。聖書を読んだことがありますか。聖書に記されている神様のお約束を知っていますか。どんなことがあっても、あなたを支える、人生の錨を持っていますか。(カクラン宣教師)

PageTop