FC2ブログ

習志野バプテスト教会の週報

イエス・キリストの救い

 〝「キリスト・イエスは、罪人(つみびと)を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値(あたい)するものです。私はその罪人のかしらです。 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛(かん)容(よう)を示してくださったからです。〟 Ⅰテモテ一章一五、一六節

 「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者」(テモテ前書一・一三)であり、罪人のかしら(第一級の重罪を犯した者)であった、とパウロは告白しています。イエス様は、罪人を救うためにこの世に来られた、とは驚くべきことです。私たち罪人にとってはこれ以上にない幸いな知らせです。罪が赦(ゆる)されるために必要なことは、まず、自分の罪を正直に認め、自分自身では罪の問題を どうすることも出来ないことを認めることです。次に、神様の憐れみにより頼み、神様がお与えくださる救いの方法に従うことです。すなわち、私たちのために苦しみをお受けくださり、十字架の上で死んでくださったイエス・キリストを「私の救い主」と信じることです。

 聖書は神様の御言葉です。この聖書が、〝「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。〟と記しています。信じ、受け入れましょう。神様は、憐れみに富んだお方ですから、罪を悔い改める者に対して「あなたの罪は重すぎるので、救えません」とはおっしゃいません。「こんな大きな罪を犯した自分は、救われるはずがない。罪がゆるされるはずがない」と絶(ぜつ)望(ぼう)しているならば、パウロのことを考えてみましょう。イエス様は、クリスチャンを縛(しば)り、暴力を加え、激しく迫害をしたパウロをもお救いくださいました。パウロは「罪人のかしらである私が救われたのだから、救われることができない人は、いない」と証しています。イエス様ご自身が、そのことの証明としてパウロを「見本」になさったのです。

 イエス様の十字架上での身代わりの死を信じる者は、神様を無視する高(こう)慢(まん)で自己中心の罪の性質、およびこれまでの全ての罪を赦されます。罪を完全にお赦しくださる神様は、キリストを信じる者をご自分の子どもとしてくださり、永遠の生命と一切の霊的祝福をお与えくださいます。イエス・キリストをあなたの救い主と信じませんか。すでに救われているならば、このすばらしい福(ふく)音(いん)を出来るだけ多くの人に証しましょう。あなたにとって一番大切な人が救われますようにお祈りしています。証のために互いに祈りあいましょう。

PageTop

味わい、見つめよ(英語版BT翻訳)

 「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」 詩篇三四篇八節

 子供のころ、私の父はとても厳(げん)格(かく)でした。私は家で出された食事はどれも食べなければならなかったし、よその家にお邪(じや)魔(ま)した時でもそうでした。ある時、私の家族は農場に友人を訪ねました。そこの夫人は料理が得意ではなかったのです。夕食時にその方が長時間かけて調理したミートローフが出ました。焼きすぎて、乾燥しているようでしたが、私はそれを食べました。後日、父は私に、「マーサ、鼻がひきつっていたのを見たよ。本当はあのミートローフを食べたくなかったのであろう。でも、お前はいい子だったね、それを食べたのだから」と言いました。

 私は約四一年前に日本へ来て、多くの新しい味や香りに慣(な)れなければなりませんでした。初めて漬(つけ)物(もの)の匂(にお)いを嗅(か)いだとき、その匂いは強(きよう)烈(れつ)で、「どうしたらこんなものを食べられるの?」と思ったものです。今ではそれは良い匂いとなり、よく食べます。今でも「あなたはお寿司が好きですか」とよく聞かれます。「ええ」と答えると、驚かれます。また、「こんにゃくは好きですか」ともたずねられます。私は来日したばかりの頃、習志野バプテスト教会で初めてこんにゃくを食べました。それは奇(き)妙(みよう)な色で、食感も味も奇妙でした。しかし今ではこんにゃくはおでんやすき焼きなど日本料理の中で、好きな食材の一つとなりました。それから、「納(なつ)豆(とう)は好きですか」とも聞かれます。いいえ、好きではありませんが、食べたことはあります。見た目も匂いも苦手です。でも、食べようとはしました。少なくとも好き嫌(きら)いに関係なく、私は新しいものを食べようとしています。

 あなたは「主のすばらしさを味わい、見つめ」ましたか。聖書は難(むずか)しすぎてとても理解できないと考えているかもしれません。または、唯(ゆい)一(いつ)の本当の神様なんていないと考えているのではないでしょうか。もしくは、罪から救われるためにキリストは必要ないと考えているかもしれません。あなたは聖書を読もうとしたことがありますか。本当の神様について学ぼうとしたことがありますか。十字架の上でのキリストの死は自分のためであったということについて、学ぼうとしたことがありますか。聖書を読み始めること、そして習志野バプテスト教会に来ることによって、あなたが主のすばらしさを味わい、主を見つめることを期(き)待(たい)しています。主は素晴らしいお方ですから、あなたががっかりなさることは決してないと信じています。 (マーサ・カクラン宣教師)

PageTop

人生のリフォーム(英語版BT翻訳)

 アン・カイザーという女性が書いた面(おも)白(しろ)い記事をご紹介したいと思います。

  告白するが、我が家の大掃除は上手くいっていない。季節が変わろうとしているが、夫と共有している納(なん)戸(ど)を片づけようという思いすらわいてこない。昨年の春は色々な行事があり、その結果、想像もしないような結末が待っていた。夫のルイはなかなか物を捨てない。彼の着古したシャツやズボンを見て、「新しいの買ったら」と言っても、彼の答は「まだ着れるよ」なのだ。納戸を片付けながら、捨てる物、バザーに出すものと分けていた。夫のものもいくつかバザーに出すことにした。これで、夫のものも少し処分できたと思った。私が彼のものをバザーに出したことに、夫は気がついていない様子だ。数週間後、夫は、掘り出し物市に行こうと言った。私は雑貨コーナーを見ていたら、夫はにこにこしながら私の所に来た。何か買い物をしたようだ。夫は満足げに「エミー、見て。僕にぴったりのサイズのズボンを二本も見つけたよ」と言った。バッグの中をのぞき込み、私は大笑い。もう、お分かりであろう。夫は気がついていないが、これまで自分がはいていたズボンを買ったのであった。

 この記事は、納戸を片付けようとしたのに上手くいかなかったという面白い記事でした。しかし、キリストを救い主として信じることなしに、自らの人生をきれいにしようとするなら、大変なことになり、面白い話しではありません。英語では、自分を変(へん)革(かく)しようとする人を意味するのに、いくつかの表現があります。 「Clean up his act」(自分の行為をきれいにする)とか、「Turn over a new leaf」(新しいページをめくる)あるいは、「Pull himself up by his own bootstraps」(ブーツを履(は)くときにつまむ部分をもって自分を引き上げる)のように言います。

 自分の罪を処分できる人はいません。自分の心を自分できれいにすることはできません。イエス・キリストは、マタイ一二・四三~四五において、神様の助けなしに自分を変えようとした人についてお話になりました。その人に起こったことを見てみましょう。

 「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜(さが)しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」

 あなたはいかがですか。キリストをあなたの救い主として信じることなしに、自分の人生をきれいにしようとしていませんか。イエス・キリストを救い主として信じる必要がありませんか。(カクラン宣教師)

PageTop

「助けてください!」(英語版BT翻訳)

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」         ローマ人への手紙 一〇章一三節

 前回と同じ御言葉からお話したいと思います。聖書は、すべての人が罪を犯(おか)した、と教えています。すべての人は自分自身の罪から、そして罪の罰(ばつ)から救われるためにイエス・キリストを必要としています。問題は、人は傲(ごう)慢(まん)であり、罪が赦(ゆる)されるための行為を自分自身ですることができると考えていることです。多くの善い行いをする人もいれば、多額のお金を寄付する人もいます。しかし、だれも自分自身を救うことはできないと気付いて、救い主イエス・キリストの名を呼び求める時にのみ、救いは実現するのです。

 二年前アメリカにいた時、私は初めてスキーに行きました。一〇〇キロもの体重があるように見えるスキーウェアを借りたのでした! 初めは、誰かの助けなしではスキーの板をつけることさえできない状況でした。午前中はずっと「初心者用のゲレンデ」で練習し、そしてついに転ぶことなしにゆっくりと滑(すべ)ることができるようになったのです。

 友人たちは「ランチの後、中級コースに行こう」と言いました。私はそのレベルの傾斜なら滑ることができるだろうと考えましたが、リフトで頂上に上がった後、恐怖をおぼえました。丘というよりも崖(がけ)のように見えたのです!しかし、丘を滑って下りるしかありません。私は何度も何度も転びました。転ぶたびに何とかしてまた立ち上がりました。

 でも、ついに下り坂で転んでしまいました。スキーの板は雪の中にささって、外れませんでした。私の足はスキーの板につながったまま、「X」の字と同じ状態で宙に浮いていました。何度か起き上がろうとしたのですが、動くことができません。私は何もできずに、ただ誰かが私を助けに来てくれるのを待つしかありませんでした。ついに、男性がひとり、そばに来て、「助けましょうか」と言ってくれました。私は「はい、どうぞ助けてください。」とお願いしました。彼は私のスキー板を外して、起き上がるのを手伝ってくれました。私は何もすることができなかったので、その方が助けに来てくれたのがとても嬉しかったです。

 イエス・キリストはあなたを助けに来られています。お金もよい行いも、あなたを罪から救い出すことができないことを認めませんか。「私をお救いください」と、今日、救い主イエス・キリストのお名前を呼び求めませんか。     (マーサ・カクラン宣教師)
◎ 暗誦聖句  ダニエル書一章八節前半

PageTop