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習志野バプテスト教会の週報

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キャンプの学びから(まことの礼拝)

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」ヨハネ四・二三、二四

神様は何を欲し、何を求めておられるでしょうか。世界とそれに満ちるものは神様のものです(詩篇五〇・一二)。礼拝はお受けになる神様のためであるよりも、捧げる私たちのためです。私たちは造られた者ですから、創造主の前に適切な態度が求められます。神様を礼拝するには、神様に喜ばれる方法で礼拝をしなければなりません。霊とまことによって神様を礼拝する者を、神様は求めていらっしゃいます。「まこと」は「誠」でしょうか、「真」でしょうか。神様がお求めになる礼拝について考えてみましょう。

一、霊によって礼拝しなければなりません。
ア、霊的に生きていなければなりません。
 ご聖霊(せいれい)によって新しく生まれなければ、霊的に死んだものであり、霊であられる神様を礼拝することはできません。参考聖句は、ヨハネ三・三、五、七、Ⅱコリント五・一七、エペソ二・一~五です。
イ、外面(がいめん)よりも、内面(ないめん)のほうが大切です。
 ルカ一八・一〇~一四をご覧(らん)下さい。神様は私た  ちの内側をご覧になります。神様に喜ばれる礼拝  者は、ご聖霊によって新生(しんせい)しただけではなく、ご  聖霊に満たされている人です。
ウ、自分の考えや感覚ではなく、神様の御霊(みたま)に従って礼拝しなければなりません。参照聖句は、ピリピ三・三、Iコリント一四・三三。真の礼拝者は、ご聖霊に導かれることを願い求める人です。

二、真理(まこと)によって礼拝しなければなりません。
 ア、真理を知らなければなりません(ヨハネ四・二 二)。サマリヤ人たちはユダヤ人たちと同じ間違 いをおかしました(ローマ一〇・二)。聖書を通 して、真理がわかります(ローマ一〇・一七、ヨ ハネ一七・一七)。教会もクリスチャンも聖書を 大切にすべきです。
イ、真理を愛さなければなりません。
キリスト教の特徴(とくちよう)は説教(せつきよう)です。説教を通して神様を礼拝します。神様が私たちにお話しになる方法は説教です。あなたが礼拝に来た目的は、本当の神様に会うためですか、神様と交わるためですか、神様の御言葉を伺い、従うためですか。
ウ、真理を示さなければなりません。
 まことによって礼拝するためには、真理を知り、愛するだけではなく、真理を示さなければなりません。旧約聖書の幕屋、神殿は真理を示しました。私たちが礼拝のために選ぶ音楽や礼拝のスタイルは、私たちの神様について何を示していますか。
レビ記一〇・一~三をご覧ください。
最後に、ルカ一〇・三八~四二をご覧ください。
      (お話・マイク・マクゴーワン宣教師)

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ローマ人への手紙(十四)

 「福音(ふくいん)には神の義が啓示(けいじ)されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」  ローマ一章一七節

 「義人は信仰によって生きる」と使徒パウロは言いました。この大変有名な、キリスト教信仰の中心といえる言葉は、旧約聖書に記されています。ある教会は、クリスチャンにとって、新約聖書だけが信仰の基盤であると言っています。しかし、そうでしょうか。

 旧約聖書の最初の書である創世記から新約聖書の最後の黙示録にいたるまで、すべてが神様の霊感をいただいた書物です。新約聖書だけではイエス様の生涯とみわざを理解することはできません。また、旧約聖書だけでは、いまだにメシアの到来(とうらい)を待ち望む状態にあるといえます。旧約聖書のすべての預言は主イエス・キリストの生涯とみわざを表わします。旧約聖書と新約聖書を切り離して別々に考えることは、聖書の基本的な教えから、外れていることになります。旧約、新約両方を合わせた六六巻の聖書が、クリスチャンの信仰生活の土台です。

「わたしの義人は信仰によって生きる」(ヘブル一〇・三八)。

 創世記の中に、信仰の父と呼ばれるアブラハムの生涯をみることができます。彼ははじめから「アブラハム」という名前ではなく、最初は「アブラム」という名前でした。彼は異邦人の地に住み、父親は偶像崇拝の信者でした。神様はそのような中から、このアブラハムをご自身がお示しになる約束の地に導かれました。神様を信じる者たちは、信仰によって生き、信仰によって神の御前で正しいものとされることを私たちは学びます。

 「というのは、不義によって真理を阻(はば)んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです」(ローマ一・一八)。

 この一七、一八節は密接な関わりがあります。神様に喜ばれる人生が一七節に記され、神様から罰を受けなければならない人については一八節に記されています。神様に義と認められた人と、罪の中に生き続け、罪を赦されずに生涯を終える人とのきわだった対比です。

 神様は人間が救われる道をご用意くださいました。荒れすさんだ心で、堕落(だらく)しきった生活をおくっている人間のために、神様の側で、神の厳しい裁きから逃れる道を備えてくださったのです。イエス様がこの世に遣(つか)わされたのは、そのためでした。人間の情感は、手の施(ほどこ)しようがない状態で、望みのない姿です。また、神様の恵みなくして一日たりとも生きることのできない状況にあります。(続く)

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ローマ人への手紙(十三)

 「私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです」 ローマ一章一四節~一五節

輸血(ゆけつ)をしなければ死んでしまう患者(かんじや)がいて、献血(けんけつ)された血をその患者に運ばなければならない責任を持っているのが、私たちクリスチャンです。

輸血用の血を運ぶために、医療用の緊急(きんきゆう)自動車があります。ドアに赤い十字のマークが入った車です。輸血には一刻(いつこく)を争(あらそ)うことがあります。輸血を待っている患者に「私たちは疲れているので、昼寝をしてから行きます」とは言えません。手術で大量の出血をしている患者は、今すぐ輸血が必要です。その輸血用の血液を運ぶのが私であり、クリスチャン一人一人だということを覚えましょう。そうすれば、〝私はすべての人に対して負い目がある〟というパウロの言葉の意味がわかってくるでしょう。

 神様はすでに、イエス・キリストの十字架を通して、私たちに救いの道をお示しくださいました。私たちはそのイエス・キリストの血によって罪の力から解き放たれたのです。今度は私が、あなたが、キリストの血を必要とする人のところにそれを携え持って行かなければならないのです。

「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報(むく)いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです」               Ⅱコリント五・一〇

「というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と」           Ⅱコリント五・一

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました」Ⅱコリント五・一七、一八

 年長者も若者も幼い子どもも、全ての人間は、神様のさばきの座の前に立たなければならない時が来ます。使徒パウロはこのコリントの地域にいたクリスチャンたちに書きました。

「イエス・キリストの愛が私に迫ってきている。私はその愛で押しつぶされそうである。早くイエス様のこの愛を人々に伝えなければならない。自分は新しく創造られたものであり、神と人間との和解の使者、大使、メッセンジャーである」と。
 福音宣教は一刻をあらそう働きなのです。(続く)

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