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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(二二)

 使徒パウロはローマ人への手紙二章において、神様の律法を持つ者も持たない者も各々(おのおの)の尺度(しやくど)によって神様に裁かれると書いています。すべての人は皆、等しく神様から遠く離れた状態にあり、神様を敬っていないことに対する神様の怒りと裁きがくだると書かれています。神様のお造りになった素晴しい世界、広大な宇宙の中にあって、あらゆるものを造られた神様が存在するであろうと考えるのは当然のことです。 

 日本では進化論を唱えたダーウィンという生物学者はよく知られています。しかし、日本の学校においては彼が最後にイエス・キリストを求めたということは教えられていません。進化論を教えた彼が死の床で「神様、私はとんでもない大きな過ちをしました」と進化論を書いたことの誤りを認め、「どうか私をゆるしてください」という最後の叫びの声を上げたことは教えられていないのです。NHKのテレビ番組はすべて進化論の影響にどっぷりとつかっているものばかりではありませんか。

 人間は神様を畏(おそ)れ敬うことをせず、考え方は空しいことばかりで、その結果、心は闇の中にあります。現在、日本で青少年犯罪が問題にされていますが、その根底にあるものは「神様を畏(おそ)れ敬う思いがないこと」にあります。小さい時、兄弟喧嘩(きようだいげんか)をすると、親は、兄や姉が悪いとしかります。子どもなりに、どちらが正しいか聞かないことに反発するでしょう。やがて大きくなるにしたがって、自分の思いが正当化されることを求めていきます。本来正しいものを求めようとする思いは、神様の下さった良心の働きからくるものです。

 しかし、人間は罪の世界に住んでいるため、どうしても自己主張が強くなり、プライド・誇り・高ぶりが強くなります。真の神様を礼拝するよりも、目に見える形、動物や人間の姿を形どった偶像を拝むようになります。こういうことは人間の歴史においてどんな未開地であっても行われてきました。人間は力や、いつまでも続く永遠のものを持ちたい、と願います。

 中国においては昔から不老不死の薬、年をとらず、死なないために漢方薬を研究し、発達させてきました。日本では、大名が金(きん)や銀を求め、それをお茶にまぜて飲み、かえって水銀中毒となり早死にしました。長く生きたいと思った者が金属をどんどん体に入れたため早死にをしたのです。また、未開の人種、かつて台湾や東南アジアにも多くいた人食い人種も「霊・魂の力」を自分がもち、長生きしたいと思いました。日本人もよく「ついていた」と言う言葉を使います。

 獣の霊がのり移って、人一倍の力を与える、というのがついているという意味です。どれほど私達が自分以外のものの力を持ちたいと願っているかが分かります。(続く)

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輝かしい未来へ(三)

 使(し)徒(と)パウロは、前のものに向(む)かって前(ぜん)進(しん)しようと言いました。教会が先のものに向かって手を伸(の)ばし、その目的に達しようとするのでなければ、その教会は、それで終わりです。去(きよ)年(ねん)、皆さんが持っていた宣教のヴィジョンは来(らい)年(ねん)には通(つう)用(よう)しないのです。来年は更に大きなヴィジョンになっていなければなりません。去年、最(さい)善(ぜん)だと思っていた救(きゆう)霊(れい)の働(はたら)きも、もっと大きな広い世界で、救霊をしなければならないのです。皆さん、新しい夢(ゆめ)を持(も)たなければなりません。新しい計画を建てなければなりません。しかも、それらは過(か)去(こ)の経(けい)験(けん)よりも大きなものでなければなりません。

ですから、使徒パウロは目(め)当(あ)てに向かって進みなさい、ゴールに向かって、背(せ)を伸(の)ばし、突(つ)っ走(はし)ろうではないか、と言ったのです。なぜなら、常に前(ぜん)進(しん)する信者に豊(ゆた)かな祝福が与えられるからです。

 主イエス様がお迎(むか)えに来(き)てくださるその日を目当てに進もうではありませんか。ただ漫然(まんぜん)と未来に目を注(そそ)ぐのではなく、未来に目を注ぎつつ、なお今、この地上における日々の働きにも励(はげ)もうではありませんか。

 皆さんが、習志野バプテスト教会を通して働いているその影(えい)響(きよう)力(りよく)は、皆さんの想(そう)像(ぞう)をはるかに越(こ)えて、遠(とお)くまで及(およ)んでいるのです。天に携(たずさ)えあげられる時に、私たちがこの地上でなした数(かず)々(かず)の証(あかし)が、どんなに大きな働きとなっていたかを見ることができるはずです。

 どうか、あなたの最(さい)善(ぜん)を神様に献(ささ)げてください。過(か)去(こ)に、神様がどれほど大きな御(み)業(わざ)をなしてくださったかを思い起(お)こしましょう。そして、忠(ちゆう)実(じつ)な僕(しもべ)であり続(つづ)けようではありませんか。ここにいらっしゃるお一(ひと)人(り)お一人が、今(いま)、新(あら)たな決(けつ)意(い)を持(も)つときではないでしょうか。私たちが、神様に新しい献(けん)身(しん)をする時(とき)だと思います。皆さんの家(か)庭(てい)を、皆さんご自(じ)身(しん)を、そして皆さんの教会を、神様に献(ささ)げようではありませんか。 (教会創立二五周年記念集会にてインネス博士を通していただいたメッセージ終わり。)

 私たちが聖(せい)霊(れい)に満(み)たされ、聖霊の導(みちび)きに従(したが)うとき、イエス・キリストの復(ふつ)活(かつ)の証(しよう)人(にん)として用(もち)いられます。「…聖霊があなたがたの上に臨(のぞ)まれるとき、あなたがたは力(ちから)を受(う)けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果(は)てにまで、わたしの証(しよう)人(にん)となります」(使徒一・八)。私たちが聖(せい)霊(れい)に満(み)たされて証(あかし)を続(つづ)けていくならば、教会は必(かなら)ず祝(しゆく)福(ふく)されます。「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全(ぜん)地(ち)にわたり築(きず)き上げられて平(へい)安(あん)を保(たも)ち、主(しゆ)を恐(おそ)れかしこみ、聖霊に励(はげ)まされて前(ぜん)進(しん)し続(つづ)けたので、信者の数(かず)がふえて行った」(使徒九・三一)。

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ローマ人への手紙(二〇)

 「というのは、不義によって真理を阻(はば)んでいる人々のあらゆる不敬虔(ふけいけん)と不義に対して、神の怒りが天から啓示(けいじ)されているからです。」   ローマ一章一八節

 クリスチャンではない日本人は「キリスト教は愛の宗教である」と言い、クリスチャンも愛を強調します。なのにどうして神様の怒りや神の裁きを語るのか、と疑問に感じるのは自然といえるかもしれません。多くの人は、何でも受け入れるのが愛だと考えるようです。

 私たちはもう少し「愛とは何か、神様の怒りとは何か」を聖書を通して考えてみる必要があります。

 日本人に「どういう信仰を選ぶか」と質問すると「もし信じるならばキリスト教が良い。でも厳しいから、なんでもOKという仏教がよい」との答えが本音(ほんね)のようです。日本人は「仏教徒」が多いです。仏教はもともと無神論であり、神はいないと考えます。無神論とあきらめを強調します。仏教は「何でも良いからいらっしゃい」と暖かく包み、観音様は愛の女神と強調する人もいます。

 一方、日本には歴史の中で「キリスト教徒迫害」という事実があります。飛騨(ひだ)高山(たかやま)には隠(かく)れキリシタンの墓があります。隠れキリシタンは日本の幕府がキリストを信じる人々を迫害したため、天井裏に信じる書物を隠したり、墓石の上には観音様を書いて、そのおでこに十字架、地面の下の方にマリア何々と、洗礼名を書いた墓石もあります。実際そこに行ってみて、日本の民族的な歴史、血みどろの戦いがあったことを知り、身の引き締まる思いがしました。

 「愛」はすべて何でもよいというものではありません。仮に母親が自分の赤ちゃんを盗まれた時、むこうで世話をしてくれるからいいわと考えるでしょうか。

 半狂乱になり、子どもを探し、自分が血を流す事があっても、いとわないでしょう。愛は愛する者を失うことをおそれるし、奪い返そうと戦うものです。もし、学校で「親をうやまわなくてもよい。自分の好き勝手なことをして生きてよい」と教えられたら、私たちはその学校から子どもを連れ戻すに違いないです。愛は愛するものを守ろうとし、間違ったものから奪い返そうとします。

 神様は何でもかんでも罰を与え、さばきを与えるお方では決してありません。神様の真理の言葉を曲げ、神様以外の物に自分達の人生をゆだねようとすることに対して、怒りをお持ちになるのです。全て邪(よこしま)な事をしようとするもの、まがった事をやる者達に対して神の怒りがあらわされるのです。(続く)

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ローマ人への手紙(十九)

 「というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。神について知りうることは、彼らの間で明らかです。

 神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。」ローマ一・一八~二三

 皆さんは、東京の象徴である東京タワーに一度は登った事があるでしょう。日本人は、一度は富士山に登るべきだが、二度登るのはバカだと言います。富士山は汚く、ごみだらけで、石ころがゴロゴロしているからです。五合目からは歩きにくく、上の方には木も緑もなく美しくありません。東京タワーと富士山の共通点は天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)を祭(まつ)るということでしょう。人間は高い所に社(やしろ)や、お参(まい)りをする所を造るのが好きです。高いほど天に近いからです。創世記にはバベルの塔を造って神の祭りをしようとしたことが記されています。人間が神の高さにまで到達しようとしたのです。

 世界で最先端をゆく文明国で、建物を建てる技に優れた日本の一番高い所には神々を祭るという信仰が未(いま)だにあるとは、大変不思議なことです。アメリカの調査では「あなたは神を信じますか」との質問にアメリカ人の九〇%の人が「はい」と答え、日本においても六〇%の人が「神を信じる」と答えたとのことです。

 日本人の場合、クリスチャンが信じる神様ではなく、仏様、亡くなった人など、色々な神々を信じています。自分達の知らない霊の世界、また世界の創造主の存在について考える事は重要なことですが、めんどうくさがって、あるいは恐れて、勉強しようとしない人が大変多いです。アメリカの有名な統計会社によれば、科学者の三五%が聖書の創世記の記述を信じると答えています。また、アメリカの科学者達の三分の一以上が創造主である神様を信じていると、『タイム』という雑誌に紹介されました。

 ところで私達は日常生活において本当に神様を信じているでしょうか。あやふやな考えで神様を信じていないでしょうか。日曜日だけ、困ったときだけの「かみさま」に変形していないでしょうか。あなたの信仰生活を観察したら、本当の神様がわかるでしょうか。(続く)

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