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習志野バプテスト教会の週報

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ローマ人への手紙(二五)

 「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」
ロマ書三章二三~二四節

 自分が、よい行いや多額の献金をしたからというのでも、ボランティア活動をしたからでもない。神様の一方的な哀れみの中に、イエス・キリストが私たちの罪、汚れを背負って十字架にかかられ身代わりとして死んで下さったのである。

 私達があるがままで、イエス様にすがり、イエス様を心にお迎えするならば、神様は私達に「新しい良心」、「新しい尺度」を与えて下さる。神様は新しい規律で私たちの心をご支配下さり、神様の喜ばれる人生を歩む事ができる様にして下さるということである。
本来私は十字架につけられて死ななければいけない悪い人間、罪深い人間であるにも関わらず、「かわいそうな人間だ。私は彼を救い上げよう」という、神様の哀れみにより救われ、罪、汚れを洗い清めていただいたのである。神様の愛である。愛とは、何でもかんでも良いですよというのではない。

 自分達が「神様ごめんなさい」とあやまる時、神さまの愛と赦(ゆる)しが与えられるのである。愛するということは、赦しも入るのである。愛は余分なものを排斥する。牧師宅の犬はこのよい例であろう。飼い主とその家族以外には猛烈にほえ、他の人の言うことを聞かない。本来おとなしいはずのシェットランド・シープドックだが牧師夫妻と松山夫妻の四人のいうことしか聞かないのだ。四人には忠実に従うが他人は一切うけつけないのである。

 以前、牧師がタイ国を訪問した時、五分で行ける所にタクシーで一時間もかかった上、大金を支払わされた。タイで伝道している宣教師に話すと、東京でも同じだという答えが返ってきた。東京でも外国人が乗ったら大抵、一方通行だ、なんだかんだといって遠回りをされる、と。宣教師が言うには、当時のタイには字の読めない人たち、自分の名前も書けない人たちが多くいた。しかし、そういう人たちの中に行って「人間は皆、罪人です。神さまから遠く離れている罪人です。」と言うと、「そうです。よくわかります。私たちは罪人です。」と答えたというのだ。一番仏教の強い国、タイの人達でさえ罪とは何かをよくわかっている。この人達に必要なのは、正しい礼拝の対象、創造主なる神様である。(続く)

 ◎ 暗誦聖句 ローマ人への手紙四章二五節B

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ローマ人への手紙(二四)

 「次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。』『彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。』『彼らの唇の下にはまむしの毒がある。』『彼らの口は、呪いと苦みに満ちている。』『彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。 彼らは平和の道を知らない。』『彼らの目の前には、神に対する恐れがない。』」 ローマ三・一〇~一八
 三章九節以下、人間は罪の性質を持つことが記され、一〇節には「義人はいない。一人もいない」とあります。私達は罪の性質をもっており、人間の舌は邪(よこしま)な思いで満ちていると教えています。

 「彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。」「彼らの唇の下にはまむしの毒がある」(ローマ三・一三)。人間は罪の性質のままでは、その喉(のど)は開いた墓の様です。神様が私達の口をごらんになると、死んだ墓の様であると仰せになります。墓の中には腐敗したものがあります。私たちは罪の性質のまま口を開くと汚いもの、人を汚すもの、皆が嫌がるものが出てきます。人間の言葉は汚れたものです。あなたの口は開いた墓であるといわれています。

 また、舌には謀(たばか)りがあり、悪い計画(けいかく)があります。口唇(くちびる)の内(うち)には蝮(まむし)の毒(どく)があるのです。沖縄には蝮が多く、久米(くめ)島(じま)にも多くの蝮がいます。以前はトイレが外にあったため、汚物を食べに来るねずみを取るためにトイレに多くいたらしいです。蝮の毒、それほど怖いものがあなたの舌にあるというのです。どんなに人間が私は悪いことを一切口にしないと言っても、人間の罪の心から出てくる言葉は人を傷つけるものがあります。蝮の毒は怖いものです。

 一五~一八節は、人間の足は血を流すことに早く、平和を口にしても人殺しを平気でやってしまうと言うのです。

 「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。

 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません」(ローマ三・二一~二二)。

 二一節には聖書の中で最も重要な言葉の一つ「しかし」という言葉が出てきます。これまでに言ってきたことを完全にひっくりかえす言葉です。神様は私たちそれぞれに対して厳しい裁きをされます。「しかし」「でも」、神様は私たちに救われる道をお与えくださったというのです。神様は、イエス・キリストを信じる凡ての人を義として下さり、厳しい裁きからお救い下さいます。神様がお与え下さる救いには差別はないのです。(続く)

◎ 暗誦聖句 ローマ人への手紙四章二五節B

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ローマ人への手紙(二三)

人間は永遠の命と強い力を求めながら、それらをお与え下さる神様に従おうとしません。神様は、神様に従う人達には永遠の命をお与え下さると約束してくださっています。親を敬うことなく親を殺したり粗末にする子供に対して裁きが来るように、神様をないがしろにする人間に対しても厳しい裁きがあるということがローマ人への手紙一~二章に述べられています。

 「それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼(かつれい)に何の益があるのですか。あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委(ゆだ)ねられました。では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。

 『それゆえ、あなたが告げるとき、あなたは正しくあられ、さばくとき、勝利を得られます』と書いてあるとおりです。では、もし私たちの不義が神の義を明らかにするのなら、私たちはどのように言うべきでしょうか。私は人間的な言い方をしますが、御怒りを下す神は不義なのでしょうか。決してそんなことはありません。もしそうなら、神はどのようにして世界をさばかれるのですか。では、もし私の偽りによって神の真理がますます明らかにされて、神の栄光となるのなら、どうして私はなおも罪人としてさばかれるのですか。『善をもたらすために悪を行おう』ということになりませんか。

 私たちがそう言っていると、ある者たちから中傷されています。そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです」ローマ三・一~九

 ユダヤ人は、「自分達は神様から律法を与えられている」と豪語(ごうご)していました。社会生活の中で神様の前に聖別された者であるという契約のしるしとして「割礼」を受けていました。「割礼」というものは信仰があってはじめて意味があるのですが、信仰がなければ何の意味もないものです。

 新約時代になると、割礼は信仰のあかしではなくなりました。体にではなく、心に割礼を受けよ、というのです。「心の割礼」とは、罪の世界から神様によってきよめ分(わか)たれ、分離をさせられることです。罪の状態は、ユダヤ人も全(すべ)ての外国人も同じです。神様を認めていない不信仰、不従順の罪の故に神様は裁きをお命じになりました。神様の律法、旧約聖書のおきてを持つ者も持たない者も等しく神様の前に口を塞(ふさ)がなくてはならない、というのが三章一九節です。

 「なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。」ローマ三・二〇(続く)

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