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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(三〇)

 マイ・カーの部品を売っているところや、スーパーでもスピード・オーバーをチェックするレーダーを売っていますね。昔はネズミ捕りと言っていました。スピードをオーバーしているとお巡りさんにとめられて、「ちょっとこちらへ。免許証を拝見。」となります。

 私も一回やられました。私が捕まったのは、一六号線で流山に行こうとして米本団地の坂の付近で、大型トラックに追いたてられてスピードを出したところでした。ひどい運転手だと思いました。私たちに無理やりスピードを出させるために彼はすぐ後について追いたてて、ニタッと笑って走り去ったのですから。

 あのスピード違反に捕まらないためのネズミ捕り防止機器があるのですね。運転席の前に置いておいてレーダーが反応したときスピードを落とすというものです。牧師でも、つい赤信号で走ってしまったり、スピード・オーバーをしたりすることがあります。警官でも酒を飲んで捕まったり、まさに罪の性質が宿っているのです。 

 日ごろおとなしい女性であっても、一旦車に乗ってハンドルを持つと、えっと驚くような運転をすることがありますね。普段はお淑やかでおとなしい人が、ハンドルを握ると、「バカモノ」とか大声で言って他の車を追い抜いたりします。恐ろしいな、と思います。これもまた、人間の心の罪の表れです。

 どんなに法律で、やってはいけないと言われても、私たちは、やってしまうことがあるのではないでしょうか。皆さんも若い頃、規則を破ったり、親の言いつけを守らなかったりしたことはないでしょうか。

 親のいいつけを守っていることを自慢する人はかえって怖いです。ある日、突然きれてナイフを持って振り回し、「人を殺してみたかった。」などというのがTVで放映されます。やはり、これまた人間の心の中に潜(ひそ)む罪(つみ)なのです。そういう意味で、法律は人間を救いません。 (注)きれて=制御(コントロール)ができなくなること。

 そこで、神様は超法規的に救いの方法をお与えになりました。それがローマ三・二一からの「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました」ということです。全く罪けがれのないイエス様のお姿のなかに私たちは神様の義を見ることができます。また神様の完全な神格はイエス様においてはっきりと現されたのです。


 さらに、人間が理想とする生き方、その理想像がイエス様の生涯の中に表されています。そして、私たちの人生のめあて、私達がどのような時にどのように行動したらよいかというパターン・型は、イエス様のなさった御業、言動の中に見ることができるのです。
                   (つづく)

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ローマ人への手紙(二九)

 「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。」             ローマ三章二一節

 義なる神様のご性格とは何でしょうか。それは、第一に義そのもの、正義、あるいは裁判における正しい裁き、そして完全さ、神様ご自身が持っていらっしゃる正義と正しい裁きをなさるということです。同時に、神様ご自身が全く一点の翳りも無く、罪けがれも無いお方だということを表します。

 そして、この全能の神様の汚れなき義の前に立つ私たち人間は、全く汚れたものです。例えれば、自動車のエンジンルームを開けて油を拭いたボロボロの汚い布のようなものです。それを旧約聖書の預言者イザヤは、人間の義はぼろ布のようであると言っています。

 「バチが当たるような生活は絶対にしていないし、正しい生活をしてきた」と言っても、神様が私たちの生活をご覧になる時、それは汚れてどうしようもないものであるということです。ウェディング・ドレスの白は汚れがない純白であることを表します。まだ一度も使ったことのない白いハンカチと、二、三回使って漂白剤で洗濯したハンカチと比べてみれば、どちらが白いでしょうか。

 私たちが、どんなに白いと自慢しても、やはり生活の垢、ほこりなどハンカチの中に染みついています。人間には正しい行いと思えるものであっても、神様の純白な義の前に立たされるとき、それは汚れに満ちた状態です。使徒パウロは、ローマ書一章・二章において、神様から旧約聖書の律法を与えられたユダヤ民族にしても、何一つ誇るところが無いと言っているのです。

 彼らは神様の律法を破り、そして又、モーセを通して与えられた十戒を完全に守ることさえできませんでした。ましてや、神様のお言葉を知らないユダヤ人以外の異邦人は、誰一人として神の前に正しいとか、義とされる人はいないのです。全ての人間は神様の御目にあって汚れに満ちた存在です。

 「義人はいない。一人もいない」(ローマ三・一〇)と聖書に書かれているとおりです。こんな状態の人間に対して神様は超法規的な救いの方法をお与えくださったのです。
                   (つづく)

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ローマ人への手紙(二八)

 「ローマ人への手紙」の三大テーマの「義」という言葉が意味するところは、イエス・キリストを信じるならば、私たちは神様によってまだ一度も罪を犯したことがないと同じように認められるということです。信仰によって義と認められることから「信仰義認(ぎにん)」という言葉ができています。

 義認の次に、イエス様を信じる人たちが、日々の生活の中で聖書を読み、黙想し、それを日々の生活に当てはめていき、知らず知らずのうちに神様の御前にあって生活が変えられていき、神様に喜ばれるものに変わっていきます。日毎に古い生活から離れて、新しい、清められた生活に進んでいくのが「清く変えられる」ということで、聖書の聖という字に化粧の化で「聖化(せいか)」と言います。

 ローマ書の三大テーマの第一は「義認」、義と認められることです。第二は「聖化」、清く変えられるということです。罪人がイエス様を仰ぎ望むことによって、一日一日先に進んで、イエス様の「きよさ」に似るように変えられていくということです。第三は、やがて天においてイエス様と同じような栄光の姿に変えられることです。「栄化(えいか)」と言います。

 まず、義認について考えてみましょう。

 「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖(あがな)いを通して、価なしに義と認められるからです」(ローマ三・二一~二四)。

 神様の義とは何を意味するのでしょうか。日本人は昔から義という言葉が大変好きな民族です。群馬県の人は、国定忠治という有名な人物の物語りを聞いてきたことと思います。なぜ国定忠治は有名であり、日本人に愛されてきたのでしょうか。それは義という一つの言葉にあります。国定忠治に使われた義は、勿論、聖書が教える義とは月とスッポンのような違いがあります。似て非なるものというか、似ているようで本質的に違うものです。

 義という言葉は、日本人は小さい時から聞かされてきたのでなじみのある言葉です。しかし、「神様は義なるお方」と聖書がいう時には、天地万物をお創りになった創造主なる真の神様が持っていらっしゃる神ご自身の性格的な義という意味を持つのです。それ故、人間が自分が正しいとか、私は義を重んじるとかいう義とは雲泥の差があります。全てのものをお創りになった創造主である神様の本質が、神は義なるお方であるということなのです。  
                   (つづく)

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ローマ人への手紙(二七)

現在、聖書の基本的な教理、中心的な聖書の教えとその骨組みを学ぶために週報で、「ローマ人への手紙」の勉強をしています。最近、よく小泉内閣が「骨太の改革」と言いますが、実は、「ローマ人への手紙」は聖書の中で「骨太のキリスト教」、真理の核心になる部分です。

 「ローマ人への手紙」は、特にローマに住んでいたローマの軍人や市民を念頭に書かれました。彼らは、実利主義者で、今すぐ役にたつ、勉強したらすぐに役に立つという(文化的)な背景をもっていました。言ってみればインスタント食品をレンジで温めればすぐ食べられるというような考え方をしていた民族であったようです。

 使徒パウロは、ローマ人達に本当の聖書の教え、基本的な神様の救いとはどういうものかを手短にその骨格を紹介しようと「ローマ人への手紙」を書いたのです。

 「ローマ人への手紙」の中には三つの大きなテーマがあります。第一は義、正義の義です。羊という字の下に我と書きます。昔、中国で、猟師が山に狩りに行き、獲物を撃って捕らえようとした時、羊が飛び出してきてその動物を助けたということから、羊は(自分が犠牲となって他を救う)ということで義の文字ができたといいます。これは浪花節(なにわぶし)の一節ですが、羊は確かにそのようなもののようです。

 羊の下に大きいと書くとどうでしょうか。やせ細った羊より、太った羊のほうが美味(美しい)という字になります。漢字にはそれなりの意味があるのですね。

 これをクリスチャンの立場から考えてみましょう。バプテスマのヨハネはイエス様を指さして「見よ。これぞ世の罪を除く神の子羊」と言いました。神様がご用意くださった羊、子羊であるイエス・キリストという意味です。

 イエス様は、ご自分の命を十字架において人類救済のために犠牲として死んでくださいました。そういう意味からみるならば、まさに義という文字は、クリスチャンにとってかけがえのない、素晴らしい文字ではないでしょうか。イエス様の救いをこれほど端的に表す文字はありません。羊、すなわち神様がご用意くださった羊はイエス様です。

 旧約聖書のイザヤ書五三章六節に、「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った」とあります。神様はこの迷った羊のためにイエス様がご自分の命を犠牲にして、羊を神のもとに連れ帰るという教えです。二重、三重の意味で、私たちは聖書の教え、イエス・キリストの十字架上の身代わりの死を深く考えなければならないでしょう。(つづく)

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