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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(三四)

 『イエスの愛は海のごと いかなる罪も のみて汝を 清くなし、受け入れたもう。来よ。来よ。疲れたる者。 イェスは愛の手をば伸ぶ。疾く、イェスに来よ。』              (総合聖歌四〇九番三節)

 文語体で書かれているので分かりにくいかも知れませんが、「イエス様の愛は海のように、どのような罪も飲み干して下さり、あなたを清め、受け入れて下さる。来なさい。来なさい。疲れている者よ。イエス様は愛の御手をのべて、あなたを迎えます。早くイエス様のもとにいらっしゃい」という意味の賛美です。

 私たちは、これまで、特に初心者向けの「聖書の中心的な救い」についての学びをしてきました。聖書の骨格的な勉強でもあります。ある人は、指輪を手にとって、指輪の上の宝石、それがローマ人への手紙であると表現しました。聖書の中でイエス・キリストの救いそのものを明確に述べ伝える使徒(しと)パウロの書いた書簡です。

 「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあるのではないでしょうか。そうです。異邦人の神でもあります。」ローマ三・二九

 「 神が唯一なら、そうです。神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです。」ローマ三・三〇

 私たちは、聖書のことをよく知らない時に、どうしてもキリスト教というのは今日のイスラエル、ユダヤ人の宗教だと考えてしまいがちです。この日本において、聖書が翻訳されたときに、日本人が使っていた「神」という言葉をこのように聖書に使ったのは間違いであった、という学者やクリスチャンが多くいます。

 しかし、聖書を抜きにして、人間には創造主である神様のことを表現できません。昔、日本人は国を治(おさ)める人々を「上」という字を書いて、それに敬語の「お」をつけて「おかみ」と言ったとか。「お上の言うことだからしょうがない、お上の言うことだったら間違いないだろう。」ということで、いつも上にたつ者を「おかみ」と称したそうです。

 そして、聖書を翻訳する時に、「旧約の天帝」「天の帝」という言葉を使うか、それとも「示偏(しめすへん)(=礻(しめす))に申す(=電(いなずま))」と書いて「神」をあらわすか、論じられたとのことです。

 稲光り(=稲妻、電(いなずま))というのは不思議な力を持つと思われていたので、「神」という言葉を使ったと言われています。聖書を日本で子供たちに教える時、「God」の翻訳に「神」という言葉を使うな、という人達が現在もいるようです。

 いずれにせよ、世界中どこに行っても、「神様」という概念は一つの言葉であらわすことは不可能に近いことなのです。 (つづく)

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ローマ人への手紙(三三)

 「贖(あがな)い」、「救い」とは、カバーすることです。「カペナウム」は、その言葉のなごり(・・・)です。ナホムという人の所へ無実の罪で逃げ込む人は、神様がその人を覆(おお)ってくださる、カバーしてくださる、ということです。「カバー・ナホム」がカペナウムという地名になりました。

 旧約時代、仮にあなたが誤って人を殺してしまったり、正当防衛であったにもかかわらず、あなたが捕らわれようとするならば、「逃(のが)れの町」に行けばよかったのです。大祭司(だいさいし)が替(か)わる(死ぬ)までそこに滞在し、あとは無罪放免となったのです。

 過越しの祭(まつり)の時には、イスラエルの人たちは子羊の血をとって、ドア(出入り口)のかもい(・・・)に塗りました。その血塗られたドアを見る時に、神様の御使いたちがその家を裁かず通り過ぎて行った「過越しの祭」と同じなのです。イエス・キリストの十字架を自分のためであったと信じる人は、神様の裁きが来る時に過ぎ越していただける、そして、神様は「わが愛する子よ。」と呼んでくださるのです。

 こんな素晴らしい経験を私たちはお金で買うことはできません。ただ、神様の御前にひれ伏し、「罪深い私を救ってください。罪を赦してください。」とお願いするだけで、生涯あなたの宝となっていくのです。

 ローマ三章二三節に、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」と記されています。ここには、日本人もロシア人もアメリカ人もイギリス人も全く区別がありません。すべての人、一人残らず、人間は誰もが神様の御前に不義を働き、罪を犯してきました。そのために、神様の御栄光、すなわち聖さ、正しさ、正義、完全、あるいは慈愛深さ、愛というものをまったく持ち合わせていません。罪の中にある人間は自己中心的であり、罪に汚れ、頭の中で考えることすべて、罪汚れで満ち満ちています。

 私が伝道者になったばかりの時、同僚の牧師の子が幼稚園でお買い物ごっこに使うおもちゃのお金を持ってきてお兄ちゃんに言いました。「角のタバコ屋さんのおばあちゃん、目が悪いでしょう。今度このお金を持っていって、だまそうよ」。その牧師はびっくりしました。わずか四歳の子供が、おもちゃのお金で目の悪い人を騙そうと発想するとは・・・。

 その子はキリスト教の幼稚園に行っていたのです。まさに人間は罪の子である、ということを目のあたりにしました。教育で人間を変えることはできないことを心にとめましょう。警察官が酒に酔って自動車の事故をおこすことも同類でしょうね。「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです」(ローマ三・二四)。    (つづく)

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ローマ人への手紙(三二)

 私たちは、何年、何十年と信仰生活を続けても、自分自身で正しい、義となることはできません。神様に受け入れられる義となることはできないのです。ここが間違いやすいところです。「私は信仰歴四、五〇年ですから救われた時より、はるかに義が私のものになりました。」と言うのはとんでもないことで、一生かかっても自分自身では義を得られません。

 あくまでも、それはイエス様から頂くところの義であって、自分の性質の変化や努力の結果ではないのです。「その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです」(Ⅱぺテロ一・四)。

 信仰生活ですばらしいことは、日、年を追って、イエス様のご性質を頂き、毎日、心の中に霊的な変化が与えられるということです。皆さんが、お風呂に入って体をこすると出る垢(あか)は死んだ細胞です。人間の体の細胞は毎日、新陳代謝(しんちんたいしゃ)をしています。古くなって死んだ細胞が垢となって落ちていくのです。それ以上に私たちの心の中、神様を礼拝するために与えられた霊は、日々新しく変えられていくのです。また、肉体が食べ物を必要とするように、霊の人格は神様のお言葉である聖書、霊のまことの乳を慕い求めます。

 聖書を読む度に、私達は自分自身が神様に近づけられ、毎日汚(けが)れが洗い流されていきます。そして、新しく変えられていきます。イエス様を信じる人は、一〇年前、昨年、あるいは今年の初めとは決して同じではないのです。新陳代謝をし、絶えず成長していきます。

 「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」       Ⅱコリント五章二一節

 Ⅱコリント五・二一を見ると、神様は「罪を知らない方」、すなわち、イエス・キリストを私たちの代わりに罪として下さり、私が抱えている罪(つみ)、汚(けが)れをイエス様が身代わりとなって受けて下さった、とあります。そして、イエス・キリストの中にある私を神様がご覧になる時、「私はあなたを赦(ゆる)す、あなたが全く汚れがないと同じような状態として認める。」と言ってくださり、無罪放免とされます。

 もう過去の罪に怯(おび)えて、誰かに後ろ指さされるのをびくびくする必要はなくなったのです。子供時代の友達の誰かが、「お前の悪いことを全部知っているぞ。」と言っても大丈夫です。イエス様を信じる時に、神様によって罪、汚れは全部洗い流されるからです。

イエス様は、私の罪の数々を数えて、「お前はこういう悪い人間だ。」とはおっしゃいません。イエス様を心の中にお迎えし、イエス様の十字架の血潮(ちしお)によってすっぽりと、完全にカバーされ、覆(おお)い隠(かく)される、これが贖(あがな)いの教理(きょうり)なのです。(つづく)

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ローマ人への手紙(三一)

「律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。」ローマ一〇・四

 イエス・キリストは、ご自分を信じるすべての人達のために、旧約聖書の律法、神様の掟、律法の終わりとなって下さいました。

 さらに、新約聖書ピリピ三・九をみると、「キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです」とあります。

 私たちは、自分自身の生活の中では、何一つ正しいと思われるものはありません。神様がご覧になる時に、汚れに満ちているということです。民族博物館や、韓国の民族館などに行くと、昔、女性が使っていた手鏡、女性が姿を映してお化粧するための鏡が並んでいます。これらを見ると大変分厚い銅板で、銀色に鈍い光を放っています。あれでよく顔が見えたな、と思うような薄暗い表面しかない銅板、それで化粧をしたのです。

 それで髪を整え、時には川の淵で女性は髪の毛をとかしました。髪の毛を洗ったり、とかしたりする姿が漢字の「女」という字になります。今の発達した鏡をみると非常にきれいで、お風呂場の蒸気があっても、蒸気がパーッと消えてしまうくらい立派な鏡です。なまじ、こんなにきれいな鏡を買うんじゃなかったと思うほどです。

 私も白内障が少し出ているので、もうじき手術をしなければならないと言われました。今、境界にあるそうで、聖路加国際病院の眼科の先生に「最近、夜、車を運転すると一つのライトが五、六個に見えてきれいです」と言うと、「それこそ白内障です」と言われました。

 光が乱反射して一つのライトが無数に見える白内障の症状が出ます。私たちは、自分が美しいと思っていても、光がよく反射する鏡の前に立つと、こんな所ににきびがあった、しみがあった、そばかすやしわがあったと、やたらに見えてきます。年をとったら銅板を使った方が良いのかもしれません。銅板の方が小じわだとかしみを見ないで、「いつも美しい」と思えるかもしれませんから。

 「義」を考える時、私たちは罪そのものを忘れることができません。正しいものがあればその反対の極に悪いもの、罪があります。神様は、神様がご用意してくださった義の贈り物を人間に与えようと約束なさっています。誰でもイエス・キリストを信じる者には神の義を与えると約束してくださいました。そして、「義」というものを自分の持ち物として神様から頂くのです。              (つづく)

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