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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(三九)

 いさかい、争いというのは辛いものです。そばにいるだけでピリピリして、「相手は何を考えているか。どういったら相手は自分のことを理解してくれるだろうか。」と悩むのです。

 「神様との平和」とは、いつも神様と仲良しでいるということです。仲が良ければ、お願いしやすいものです。皆さんはご主人に「今日の牧師の話は堅苦しくて肩凝っちゃった。教会から帰ったらちょっと肩もんで下さいよ。」とは、絶対言わないでしょうね。

 会衆と説教者との間には壁があるのです。牧師には、「今日は難しかったから、もう少し易しくして下さい。」とか、あるいは「今日は楽しかった。」とか「長い間の疑問が解けた。」とか、何か言ってもらいたいです。私でも、時々、家内の肩をもみます。先日も、「ああ、肩凝っちゃった。」と言うので、それじゃあ、とチョチョッとほんの一〇分位でしたが肩もみをしてあげました。私たちは仲が良ければ、争いがなければ、普通だったら頼めないことも頼めるものです。

 イエス様を通して私たちは、全てのものをお造りになった創造主の神様に、何でもお願いすることができます。たとえば、疲れた時には「神様。私は疲れました。休息を下さい。」寝る前にそうお願いします。そうすると、体の筋肉の疲れが癒されます。

 今晩、寝る前に「神様、私はもう本当に疲れました。肩は凝り、足はパンパンに張っています。水虫もかゆくて大変です。」何でもいいのです。「神様。どうか私を癒して下さい。」と祈って寝るなら、必ずそのお答えがあります。不眠症に悩む人であっても、必ずその悩みは解決します。神様はイエス様のお名前を通して、「何でも私に求めなさい。」とおっしゃるのです。

 「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい」(ヨハネ一六・二四)。「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ七・七)。これが、「神様を愛する者の特権」です。それまで逃げまどっていた者が、今度は神様に何でもお願いができ、お話ができる、これが「神様との平和」なのです。

 「義と認められる」ということは、神様の司法的な行為です。神様との正しい関係に立ち、立場が変化した「義人(ぎじん)」は、無罪と宣言され、義であることを明らかに認められた人です。
 
神様は、人類に対して神様ご自身のご性質を明らかになさいました。私たちが十字架を見上げる時に、自分の力、自分の功績(こうせき)は全くない、ということを知るのです。こうして私たちは、イエス様を通して神様との間の平和をいただき、どんなことでも神様にお願いし、嬉しい時も、悲しく辛い時も神様に訴えかけることができるのです。(つづく)

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ローマ人への手紙(三八)

 人間は自転車と同じで、止まっていると倒れてしまいますから、一生懸命こがなければいけません。多少下手でも、こいでいれば走っていきます。本当に上手になると少しぐらい止まってもじっとしていますが、たいていは止まれば倒れます。ですから、それまでは夢中になって自転車をこぐように、私は人生を走ってきました。

 でも、イエス様を心にお迎えした時に、まったくイエス様におゆだねして、通常の走り方をしないでもすむようになったのです。なぜならば、イエス様が私の罰を受けて下さったからです。そして、これまで怖(こわ)い怖いと思って神様に背を向けていた私が、今度は神様の方に向かって「神様、ありがとうございます。」という親しい交わりを与えられるようになりました。その確信となったのが、ローマ五章一、二節の聖句です。

 私達は自分の良い行ないで、一方、ユダヤ人は割礼(かつれい)を受け、律法を守るとか儀式や戒律を守ることによって神様にご褒美をいただこうとして、失敗しました。割礼を受ける者も、割礼を受けない者も、神様に受け入れていただくためには、ただ一つ、「信仰」しかありません。

 神様がご用意下さった救いの方法である、イエス・キリストを心にお迎えするという信仰によって、初めて神様に受け入れていただくことができるのです。私達は神様に「あなたは無罪放免ですよ。罪を一度も犯したことがないと同じように認めますよ。」と言われるために、何をするべきでしょうか。献金でしょうか。

 「これまで献金は一〇〇円やっていたけれど、思い切って一万円にしよう。」そうではないのです。イエス様がご覧になっていた時に、貧しいやもめがレプタ二枚をささげました。レプタは当時のお金の最小単位(一レプタ=約三九円)で、そんなわずかな献金を、恥ずかしそうにしてささげたその未亡人は神様に大変大きな祝福を頂いたのです。神様が見ていらっしゃるのは、私達の献金の額ではなく、私達の心がどれほど神様に向いているか、神様をお喜ばせするか、です。

「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」       ローマ五章一節

 夫婦が、ちょっとした争いからお互いに口もききたくない、顔も見たくない、「お前なんか出て行け!」「出て行きますよ。」と、お互いにケンカしてツノ突き合わせている時には、結婚するんじゃなかったと思うでしょう。別の女性と、あるいは別の男性と結婚すればよかったと思うのではないでしょうか。「神様との平和」、何というすばらしい安らぎに満ちた御言葉でありましょうか。(つづく)

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ローマ人への手紙(三七)

 日々の生活において、何かを恐れ、逃げるということは大変不幸な人生だろうと思います。

 小さい時から何か悪いことをすると、すぐ親や周りの人に「そんなことをするとバチが当たるよ。」と脅かされた覚えはないでしょうか。ご飯粒をお茶碗の端っこにつけたままで「ごちそうさま」と飛び出そうとすると「待ちなさい!ご飯粒をちゃんと食べなさい。そんなに粗末にするとバチが当たるよ。」と怒られたものです。

 とにかく、「罰(ばち)が当たる、バチが当たる」と言われてきました。当然これは、日本人が考える神々で、偶像の神々にバツを受けるということなのです。こうした日本人の宗教感覚がさすものは、バチが当たる怖い存在の神々、あるいは亡くなった人たちの霊です。「仏様を粗末にするとバチが当たるよ。」と言われて、仏壇に手を合わさせられる。

 いつも人間の感覚は、「恐れ」「おののき」そして「何とかして罰(ばち)があたらないように・・・。」というものです。私もいろんな形で、葬儀のお手伝いをさせて頂きますが、日本人は、この「罰(ばち)」、「汚(けが)れ」という観念からなかなか抜けられません。

 仮に、ここが六畳間の部屋だとします。そして、ここに今、息を引き取ったばかりの遺体が置かれているとします。その部屋が日本人の家庭では一番大事な居間、リビングだとすると、大抵そこには神棚があり、別室には仏壇があります。まず葬儀屋さんが来ると、「半紙はないですか。」と尋ねます。半紙をどうするのかと思って見ていると、神棚に紙を張り、神様たちがこの汚れを見ないように、というわけです。

 不思議に思うのは、汚れ汚れと言いながら人間はその汚れたものに手を合せて拝み、全く理に反することをしているのです。汚れたものを神様に見せてはいけないと言って半紙を張り、「神様、見ないでね。」とやっていて、自分達はこっちで手を合せて拝むという、こうした矛盾したものが日本人の「神」に対する考え方なのです。

 私は聖書を読んで本当に感謝したことは、こうした恐怖、不安から解放されるということでした。いつも悪いことをすると、「バチが当たる。」あるいは、「そんな人生を送っていると、何か必ず後(あと)で後悔するような罰(ばち)が来るぞ。」というようなことを言われて、まわりをキョロキョロ見回しながら、自分は本当に安全だろうかと過ごしてきたのです。そういう状態は非常に不安でした。イエス様を心にお迎えするまで、私の人生は真正面にずっと突き進んでいなければならないと考えていたのです。

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ローマ人への手紙(三六)

 「天にいらっしゃるお父様」という時、私たちをお造り下さった真(まこと)の神様を意味します。真の神様だけが本当の意味での天にいらっしゃる神様なのです。そして、父なる神様と私たちとは、親しい交わり、個人的な霊的交わりをするように造られているのです。

 イギリスでは結婚して三二年間、一言も口を利かない夫婦がいたと『ギネス・ブック』に出ているそうです。結婚してまもなく何か言い争ったらしく、三二年間も同じ家で寝泊りして、同じ物を食べながら一言も口を利かないとは、大変辛い生活だったことでしょう。

 神様の家族の一員にされた私たちは、神様と親しい交わりを与えられます。私たちにとって、神様とお話をするということが大変大事なことです。また、私たちはイエス様を通して真の神様を「私たちのお父様」と呼ぶことができるようにされたのです。

 「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」            ローマ四章七、八節

 法律を破り、神様の戒めを破った「不法者」である私たちが、イエス様の十字架上で流された血によって罪が覆われ、一回も罪を犯したことがないように認められます。神様が私たちをご覧になる時、イエス様の故に、無垢で、罪や汚れのない子供と同じように認められ、受け入れられます。何と幸いなことでしょうか。

 「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。」           ローマ五章一、二節

 結婚している皆さんは今、奥さん、あるいはご主人と仲が良いでしょうか。「いやあ、どうもね。」「まあまあ。」これではちょっと困ります。それでは、夫婦喧嘩をしたことはあるでしょうか。「ない。」と言ったらウソになるでしょう。牧師の家庭でも、物を投げたりチャンチャンバラバラはやらなかったけれども、結婚当初は夫婦喧嘩がありました。

 「自分たちは結婚したんだなあ。よかったなあ。」と思えたのは一〇年たってからで、それまでは、「鶍(いすか)の嘴(はし)」の食い違いみたいに、いつも食い違ってばかりでした。(鶍(いすか)という鳥の嘴(くちばし)は上下に交叉(こうさ)していて、食い違っています。物事がくいちがって、思うようにならないことの例えです。)お互いの気持が相通じるまでには一〇年かかりました。同じ家に住んでいて、心が通じ合わないというのは大変辛いことです。(つづく)

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ローマ人への手紙(三五)

 バプテストの有名な聖書学者だったジョン・ブローダス師は、「伝道集会を持つ時には、必ず『神様とは、いかなるお方か』ということを一週間でも二週間でも徹底的に示すように」と言ったとのことです。つまり、「God」とか「天帝」としても、「創造主」については全然、人間にはわからないということです。

 英語では、人間が作った通常の神々は小さい文字で「gods」と書き、聖書に書かれた「唯一絶対の神様」のことは大文字でGと書き、それからodと書きます。こういう風に区別はしていますが、それが文字でわかっても本当の意味で聖書の全能の神様のことは人間には理解できないのです。

 第一コリント二章一四節で「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません」と聖書は書いています。私たちが聖書の御言葉を素直に受け止め、神様から霊的な導きをいただかなければいけない理由です。

 キリストの十字架を仰ぎ見ることによって、初めて私たちは「新しく生まれる」、「新生(しんせい)」という経験をし、そして神様の聖霊の内住をいただきます。つまり、神様のことは聖霊の助けをいただかなければ人間には絶対に理解不可能なのです。漢字の問題、言葉の問題だけではなく、「霊」の問題なのです。

 人間は{Spirit (霊)/Soul(精神)/Body(肉体)}の三つの領域から成り立っています。

 日本語では「心」という表現を使って、心と霊をごちゃごちゃにして使っています。「心」というのは、人間の精神の部分で、いわゆる「Soul」の部分です。しかし、聖書で取り扱うのはsoulという「心の部分」ではなくて、人間を生かす目に見えない「霊の部分」で、しかもこの「霊」は永遠に生き続けます。神様のさばきの中に生き続けるか、それとも永遠に神様と共に生きるか、という領域であるわけです。

 肉体bodyは朽ち果てます。しかし、霊の部分はいつまでも生き続けていき、それは、私たち人間そのものの人格です。神様はユダヤ人だけの神ではなく、私たち異邦人、日本人にせよ、アメリカ人にせよ、あるいはガーナ人であるにせよ、「すべての人の神」でいらっしゃると書いてあります。

 私は若い頃、この聖句を見つけて大変喜びました。それまで「ユダヤ人の神」と思っていたその神様は、ユダヤ人だけの神様ではなくて、誰でも神様にひざをかがめ神様を呼び求めるならば、「私の神様」でいらっしゃるのだということなのです。あなたは、それを実感なさっていますか。 (つづく)

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