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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(五一)

 「『これらの日の後に、わたしが彼らと結ぶ契約はこうである。ー主のことばー わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにこれを書き記す』と言った後で、『わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない』 と言われるからです。」
ヘブル一〇・一六~一七

 あなたをこの地上に生かして下さり、あなたを造(つく)り、日々支えて下さっている神様が、「これから決してあなたの罪けがれを、思い出すことはしない。あなたを義と認めている。だから生涯イエス・キリストの十字架のところに立ちなさい。イエス・キリストと共に人生を歩んで行きなさい。神と共に生きていくなら、わたしはあなたを私の愛する子どもとして、家族の一員として支え導く、栄光の望みをもって進んで行きなさい。」とおっしゃるのです。

 「見よ、その時代が来るー【主】のことばー。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだー【主】のことばー。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
エレミヤ三一・三一、三四

 「神様との平和」。それは良心の呵責(かしゃく)、良心(りょうしん)の咎(とが)めから解放されることであり、神様の裁(さば)きから解放されることです。自由にこの地上の生涯を喜ぶことであり、誰からも後ろ指(ゆび)を指されることなく、本当に神様の子どもとして堂々と、自分の道を邁進(まいしん)できる生涯(しょうがい)なのです。

 どうしても抜け出すことができない悪い習慣を持つ方(かた)がいるかもしれません。また、捨てることができない娯楽があるかもしれません。しかし、イエス・キリストを見上(みあ)げることによって、一つ一つ、惜しむことなく捨てることができるようにされるのです。

 私たちは弱く、時(とき)には倒(たお)れ、つまずき、神様から目をそらしがちです。しかし、神様は聖書の約束通りに、私たち一人一人を励(はげ)まし、たとえ七回転(ころ)んでも八回立ち上がることができるように支えて下さいます。確かな御言葉の上に人生の土台を築いてゆきましょう。

 「正しい人は七度(たび)倒れても、また起き上がり、悪(あ)しき者はわざわいでつまずくからだ。」箴言二四・一六
(続く)

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ローマ人への手紙(五〇)

 最近の糖尿病のビデオを見ると、糖尿病食ほど素晴らしい食事はないと医者が言います。実際に自分でやってみて、なるほど健康に効果があると思います。

 私たちが人生の様々な苦しみ、苦い経験をする時は、言わば糖尿病の宣告を受けるのと同じかもしれません。

「あー、これまで楽しんでいたあれやこれや、お酒も飲めなくなるし、タバコも吸えなくなる。ダンスにも行けなくなる。あれもいけない、これもいけない。そんな窮屈な生活は嫌だなあ。」と。ところが、神様の下さる霊のまことの乳である神様の御言葉(みことば)を慕い求めていくと、これまで自分が飢え渇くように求めていたものが欲しくなくなってくるのです。不思議だなぁと思います。

 一ヶ月位そういう食事をしていると、それまで欲しくて欲しくてたまらなかったものが、もういらなくなるのです。たとえばチョコレートなど。

 神様の下さる霊のまことの乳を慕い求めていくなら、私たちは太り過ぎず、栄養過多になり過ぎず、しかも健康体でいることができるのです。本当に不思議なことだ。私たちは、追いかけてくるという神の呪い、裁きを恐れることがなくなるのです。

 本当に神様は私の罪・けがれを赦(ゆる)して下さり、いつでも神様に向かって、声を上げるならば神様と親しい交わりが出来るのです。神様と私とは、敵の関係ではなく親子の関係になるということが分かってきます。

 ある方をカウンセリングした時のことは、今でも印象深く残っています。彼は「私は戦争中、中国で、何も悪いことをしていない村人が逃げ惑うのを、自分の手で殺しました。そのことを知られたくないと思って、神はいない、神はいない、と思っていたのです。自分の罪をいつも隠そうとして、神はいないと言って神を認めようとしなかったのです。」と言ったのです。

 その日、私は聖書を通してイザヤ書の中から〝たとえその罪が緋(ひ)のように紅くても雪のように白くされる。〟ということをお話ししました。この人は、その聖句を通して、本当にイエス様の前にひざまずいて、救い主と信じました。神様は、私たちが罪を言いあらわすならばその罪を赦して下さり、東が西と絶対交わることがないように罪を遠くにして下さるのです。

 「 東が西から遠く離れているように主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される」 詩篇一〇三・一二
                    (続く)

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ローマ人への手紙(四九)

 仮に皆さんが学校で表彰されるとして、校長先生が表彰状を持ち、教頭先生が脇でプレゼントを持って「○○さん、前に来てください。」と言われると、あなたは堂々と前へ進んで行くのではないでしょうか。

 恥ずかしがって頭に何かかぶって行く必要はありません。私たちはイエス様を信じることによって、もう罪を隠そうとする必要がないのです。神様の御前に顔を真っ直ぐに向けて、立つことができます。何故なら、神様は私たちの罪汚れを一切思い出すことはしないとおっしゃるからです。

 「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」(ヘブル一〇・一七)。イエス様を信じることによって、私たちは、神様の前に、一度も罪を犯したことがないと認められるのです。

 「信仰による義認(ぎにん)」「神との平和」そして「恵みの御座(みざ)に近づく」ことができます。さらに、〈神の栄光を望む〉ということです。この世の中の願い、望みは罪の世界の快楽ですが、クリスチャンにとっての希望とは「栄光の望み」です。

 全能の神様=主イエス・キリストの御前(みまえ)に私たちは一つの家族として、豊かな祝福にあずかることができるのです。永遠の喜びが待ち受けています。

 皆さんは、何かの持病を持っていらっしゃいますか。五〇~六〇才になると何らかの病気を持つようになるそうです。今、日本で大変大きな問題となっているのが、小学生をはじめペットに至るまで、糖尿病が大変多いということです。ペットが食べ過ぎで太っているなら、糖尿病になっているかもしれません。

 私たちも随分前から糖尿病の予備軍だと言われていました。私が前立腺がんで入院した時、糖尿病の検査に引っかかり、一週間余り糖尿病食を食べましたが、不味かったです。パンが一切れ、バターが少し、野菜の煮っころがしが少々。おまけに味気もなく、こんなもので命が保てるのか、と思うくらい粗末でした。

 最近の糖尿病食は驚くぐらい豪華になって、目先も変わっていて三〇品目位揃っているとか。見た目もきれいだし充分満足できるように作られていて、随分成長したなあと思えるそうです。

 糖尿病になると、よく「玉ねぎを食べなさい」と言われます。玉ねぎは犬や猫には絶対与えてはいけない、血液を溶かすから、と言われます。しかし、人間にとっては玉ねぎは大変健康に良く、特に糖尿病には良いそうです。玉ねぎは食べた後ににおいが出るし、お腹がゴロゴロすることがあり、嫌いな人達もいるようですね。糖尿病食を続けていくと段々わかってくるのですが、体が軽くなります。動きがべったんべったんからスゥーと歩けるようになり、坂道を歩く時にハァハァとやっていたのが息切れしなくなるのです。糖尿病食は馬鹿にできないな、と思った次第です。(続く)

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ローマ人への手紙(四八)

旧約聖書を見ると、イスラエル三代目の王様ソロモンはたくさんの側妻を抱えました。

これは日本でもありますが、周辺の国々と領土争いをしないようにと政略結婚をし、その結果、いろいろな出身地の女性の偶像や神々をソロモンは迎えてしまったのです。

神様はソロモンに知恵を与えて下さいました。けれども、ソロモンの不信仰と不従順の罪の故に、ソロモンの死後イスラエルは二つに分裂したのです。

一方はイスラエル王国で、ヤロブアムがリードをとり、一方はユダ王国として、レハブアムがリードをとりました。

イスラエル王国、サマリヤ地方のヤロブアムはイスラエルの人々がエルサレムに礼拝に行ったのでは彼らの心は自分から離れてしまうと考えて、イスラエル王国内に偶像崇拝の場所を作ったのです。その時、神様は一人の預言者をお遣わしになり、ヤロブアムの罪を指摘させた時に、ヤロブアムは大変怒りました。

しかし、神様は彼の手を引っ込めることができないようになさったため、ヤロブアムは預言者にこう言いました。
「どうか、あなたの神、【主】にお願いして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手は元に戻るでしょう。」(Ⅰ列王一三・六)。「あなたの神様にお願いして、私の手を元に戻して下さい。」という意味です。

私達は人生の問題があると、教会に来て牧師あるいは、宣教師、信仰の先輩に「どうぞ私のために祈って下さい。」と言います。しかし、聖書の約束は、マリヤや牧師や宣教師を通さずに、あなたが直接父なる神様にお願いすることができるとあります。牧会をしていると時々「先生。私のためにこういうことを祈って下さい。」と言われ、その時すぐ祈らないと、むかっときて後で私のことを非難する人たちがいます。

・・・しかし、祈りというのは誰かに強制されてするものではないと思うのです。私はその人の話を聞いている時、すでに祈りを始めます。口に出さなくても神様に祈りながらお話を聞いているのです。人間は弱いので、特別に牧師がひざまずいて手を置いて祈らなければ祈ってくれないと思うかも知れません。

しかし、そうではないのです。私たちは中間に仲介役のマリヤや牧師を必要としません。直接、父なる神様にお願いし、お
話ができるのです。これが信仰により、今立つところの恵みに入ることができる、ということなのです。

皆さんが、目を閉じて「神様、父なる神様。」とお祈りすると、神様は「わかっている。あなたの言いたいことを言いなさい。」と、私たちが言葉を発する前に聞いて下さるのです。
「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。」
イザヤ六五・二四

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ローマ人への手紙(四七)

 チャールズ・ソロモン博士は、有名な飛行機会社のカウンセラーをなさっていました。けれども、この先生自身が、心理学でカウンセリングを勉強したのにノイローゼになってしまいました。

 人間が作ったカウンセリングでは人を救うことはできないと、その後、先生は一生懸命にローマ書を勉強したそうです。人間は聖書の御言葉によってカウンセリングを受けなければならない、ということに気がついたと言われました。

 ソロモン先生と私とは非常に似た経歴をたどっていました。人間が作り出した心理学や精神分析、哲学、あるいは様々な人間の知恵による産物は、決して人間を救う力はない、と分りました。「いつも、誰かに見られている。いつか自分に裁きが来るぞ」という恐怖感は、例えようのない恐ろしい状況でした。心に安らぎがないのです。

 いつか裁きが来るという不安がありました。こうして逃げまどっている時に、神様は聖書の御言葉を通して、私の罪・汚れも、「イエス・キリストを信じるならば赦(ゆる)される」という約束をお示し下さったのです。

 若い頃、私もお酒を飲む席に連なったり、親戚の者に教わってダンスや麻雀をやったり、いろいろな遊びをやらされました。(自分からそれをやるということは、あまりなかったのですが)。

 世間一般の人と同じにやってみるかということで、誘われて入ったのです。しかし、決して心に安らぎはなく、いつも神様を恐れ、いつか自分の全(すべ)てが明らかになってしまう、いつか自分の正体がばれるぞという不安がありました。それを隠そう、隠そうとしている時は、不安と恐れだけで、安心感はありませんでした。

 私は神様に全てを明け渡し、「神様。あなたは私の欠点も、こうした心の中の欲望も、全てご存知です。もう神様に逆らうことをやめます。どうかイエス・キリストの十字架の血によって、洗い清めて下さい。私の力と努力では、神様の愛と恵みを受ける資格がありません。まったくお手あげです。神様に完全に降伏します。」とお祈りをしました。その時に、怒涛のような波に流された思いがしたのです。

 そして、静かな神様の赦しの御声(みこえ)を伺ったのです。その時から私の人生は変わりました。私は今、神様の赦しをいただいて、この聖書を学び、自分の人生を築いてゆくのだ、ということを決心したのです。それまで、あれこれ捜し求めて人生の土台を築こうとしていたのですが、最後は神様の御約束の言葉以外に立つべきところがないとわかったのです。それ以来、もう五〇年を越えましたが、本当に神様により頼んで良かったなあと思っています。

 「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
              ローマ五・八(続く)

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