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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(五四)

 「みんながやっているから。」と言うことは、自分のやる事を正当化するためで、「皆が言っている」ということは、自分の意見をいかにも正しいように見せかけようとするためでしょう。

 全く別の問題なのですが・・・。「みんなが」というのは、自分の行為を正しいと認めてもらいたいためで、皆が言っているからというのは、実は自分が言っているのです。「皆が」という表現を借りて「自分」の言うことを正当化しようとしているのです。日本人独特な責任回避、また何でも他人のせいにしようとする生き方があるのでしょうか。


 こうした人間の生き方、日本人の生き方、その一番の原因は何かと言うならば、私たち日本人には「神様との平和がない」からではないでしょうか。神様との間に争い、戦いがあるために、いつも不安な心を抱えています。

 その不安は、やがて自分達は裁かれるという無意識の、潜在的な恐怖となってきます。「祟り」というのも同じような考え方で、本来、自分はそうしたくないけれども祟りがあるからしようがない、という諦めであり、誰かのせいにしてしまうのです。


 これまでそういう生活をしていらっしゃるならば、今回この聖書の学びを通して、そういうあなたの手足をがんじがらめにする鎖から断ち切られて、自由になる事ができる道を選ぼうではありませんか。

 私は厳しい父親のもとで、仏教や儒教的な教えの中に育てられましたが、その鎖を断ち切り、自分で神様を呼び求めました。

 皆さんそれぞれの人生、確かにそれは自分の人生ではありますが、神様からいただいたその命を、神様によって導かれ、どう最大限に人生を喜ぶ事ができるかということが、それぞれに与えられた鍵ではないかと思います。


 あるカウンセリングの本の宣伝文に「私はあなたを宝とし、尊い者とし、あなたを愛する」というイザヤ書四三章四節の御言葉が使われています。私たちも何年か前、この聖句をイザヤ書の連続講解説教の時に勉強しました。

 しかし、私の心の中には、カウンセリングでその聖句を使っていいのかなあ、という疑問がありました。本来、聖書で書かれているこの御言葉は、ヤコブに対して語られた言葉です。

 文語体訳では「ヤコブよ、なんじを創造せるエホバいま如此(かく)いい給(たも)う。」という言葉で始まっています。新改訳なら、「だが今、【主】はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。」(イザヤ四三章一節)となっています。これは、ヤコブとその子孫に対する神様の呼びかけなのです。(続く)

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ローマ人への手紙(五三)

 私が教会に行き出すと、父は大変反対しました。「うちは仏教の家なんだから、絶対クリスチャンになっちゃいけない。教会なんか行くな!」大変きつく教会行きを止められたのです。

 そこで私はその頃、戦争が終わってから英会話を勉強したいということで、教会へ行くとただで宣教師が英語を教えてくれるから、とそれを口実にして教会に行ったのです。

 初めは、英会話の勉強に行ったわけでしたが、やがて、その事がきっかけとなって、聖書を読み始める事となりました。

 ある日、家にいて英語の聖書を練習しながら読んでいました。全く英語の分からない父親が「お前、クリスチャンになったのか。」と言ったのです。
 「へぇっ?」こっちがびっくりしました。

 「お前の読んでいるのは、どうも耶蘇教(やそきょう)の教えらしい。」と言うわけで、「絶対、クリスチャンになっちゃいけない。うちは仏教徒なんだから、クリスチャンになっちゃいけない。」と。

 その後、私は神様を信じ、救いをいただきました。そして、もう毎日のように聖書を読みながら、また仕事を続けたわけでしたが、ある時、父親が厳しい顔をして言ったのです。

「お前、クリスチャンになったのか。」
「はい。」
「しょうがない。なったものはしょうがないけど、絶対、牧師にはなるなよ。牧師になったら日本で食べていけないから。」と。

 でも神様は日々必要な物をお与え下さり、私達は路頭に迷う事もなく毎日必要な物を神様から与えられて生活することができているのです。

 あなたの人生は、あなたのお父さん、お母さんではなくて、あなた自身で、自分でコースを決めるのです。自分でどういう人生をおくりたいのか、自分の心でしっかり祈って神様から与えられる道を進むことが大事だと思います。

 私達はよく「もう、しょうがない。親が学校へ行けと言ったから行ったんだ。親が医者になれと言ったから医者の勉強をしたんだ。学校の先生がこう言ったからそうしたんだ。」と言って、いつも誰かのせいにする国民性があるのかもしれません。
 誰かの責任にしたいのでしょう。そしてなかなか自分で選んだ道、という風にして自分でその実を刈り取ろうとしないのではないでしょうか。

 日本人の口癖の一つだと思うのですが、非常に気になる表現があります。「みんながやっている。」「皆が言っている。」という表現です。本当に「みんな」が言っているのでしょうか。本当に皆がやっているのでしょうか。ここには落とし穴があり、また心理学的に興味深い面があるようです。(続く)

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ローマ人への手紙(五二)

 何年か前に、神様からいただいている祝福を簡単なリポートにまとめて、10名程にEメールで送信しました。

 目の手術以後、自分ではEメールをしませんが、今回は本当にびっくりしました。昼間に送って翌日には私の手元に返事が来たのです。それも、アメリカからです。なかなかEメールも捨てたもんじゃないなと思いました。「いいメールでした!」

 私たちがいただいている祝福がまた別のところで祝福を呼び起こし、連鎖反応を起こしているようで本当に感謝なことです。

 その返事の中に、結婚を反対され10数年間行き来のなかったご主人の両親が、教会に来会されたという神様の大きな憐れみの証しがありました。

 神様を信じて祈る時に、私たちが刈り取るのは絶望ではなくて希望であり、豊かな祝福があるということを覚えます。


 ローマ五章は大変素晴らしい聖句がたくさん記されていて、とても短期間では学びきれないほど多くの御言葉の奥義が隠されています。
 
【神との平和を持っています】
 「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」(ローマ五・一)。

  日本に育って、生活をしていて当然日本人が小さい時から持ってきた日本人の独特な感覚と言うか、人生の捉え方というものは身に染みていることでしょう。


 私達は何か人生に悪い事が起こる、躓(つまづ)きが起こると「先祖の祟りである」と、小さい時から言われてきました。「先祖を粗末にしたからあなたにこういう祟りが来たんだ。」と。或いは不幸の経験があると、「運命だ」。このように諦めという事が強調されてきました。

 私も子供の頃から、くり返しこうした仏教的な諦めの教え、さらに人生の様々な問題に直面する時にいつも「先祖の霊を大事にしないからだ。」ということで、それこそ「恐怖観念」を植え付けられてきました。

 熱心な仏教徒であった父に対して、私はなかなか逆う事が出来ませんでしたけれども、戦争に敗けた時に、「仏教には私が頼るべき力がない。」と感じたのです。

 また、日本人が「大和魂」だとか「神道(しんとう)」、「日本は神の国である。」と考えていたことも単なる幻に過ぎなかったと思いました。

 そして私は「自分の生き方は自分で選びたい。こうした因習であるとか、或いは日本人の義理・人情の世界とか、仏教・神道の世界ではなく、自分で納得のいく生き方を求めていきたい」と決心したのです。 (続く)

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