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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(五七)

 「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。」          ローマ書五章六節

 慰めに満ちた聖句です。私たちは才能があるから救われたのでも、仕事が良くできるから救われたのでもありません。頭がいいからとか、音楽ができるから救われたのでもありません。

 聖書の記述を借りるならば、神様は、本当に無きに等しい者、塵のような者であっても、私たちを救い上げてくださったとあります。神様はその愛を注いで下さるために、私たちを引き上げて下さったのです。


 しかし、実に多くの日本人が、「もし、私が何かの宗教を選ぶとするなら、仏教かキリスト教かイスラム教かそれとも他の宗教か。まあどちらかと言うと私は、キリスト教だと思いますね。」と言います。

 これはいかにも傲慢な、人間的な考え方だと思います。キリストは「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」(ヨハネ一五・一六)と仰いました。


 「あなたは神様を礼拝するために自分の意志で来た。」と言うでしょう。しかし、あなたが神様を礼拝するようになったのは、あなたの力でも才能でもないのです。あなたが人一倍善人だから神様があなたを救ったのでもありません。

 むしろ、教会に集まっている人は、日本社会でも一番良くない人間の集まり、と書くとあなたは怒るでしょうか。私もまた、パウロと同じように「私は罪人の頭(かしら)です。」と告白して神様の御前に立ちます。

 皆さんもそれぞれが、「私は罪人の頭です。イエス様の憐みがなければ、滅びの中に滅んでいる存在です。私がまだ弱かった時に、神様を求めなかった時に、神様に逆らっている時に、あるいは耶蘇教(やそきょう)だとか、色々な悪口を言っていたような時に、私もイエス様によって救われたのです。何一つ誇るところがありません。」という思いで、パウロと同じように神様の御前に立つのではないでしょうか。


 私は生まれつきクリスチャンだ、という人は絶対にいません。親がクリスチャンだから自分もクリスチャンだ、ということは絶対にありえないことなのです。あくまでも、自分の意志で神様を求めるのです。

 ヨハネ一・一三を見ると「この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」と書かれています。ただ、神様の憐みによってイエス様を信じるようにされた(される)のです。

 私たちはクリスチャンになろうと思って一生懸命に聖書を読むでしょう。しかし、クリスチャンになろうと思っていくら聖書を勉強しても、自分の力によってクリスチャンにはなれないのです。(続く)

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ローマ人への手紙(五六)

 「神様。自分はどうしてもお客を開拓する事ができません。仕事をもっと拡張したいと思うので知恵を与えて下さい。」とあなたは祈るでしょうか。信仰を働かせる、とはこういうことなのです。

 ジョージ少年が斧を使ったように、皆さんは神様からいただいた信仰、イエス・キリストの十字架を信仰によって受け止めたならば、その信仰を働かせればよいのです。神様があなたを祝福なさろうとする事を、自分で味わってほしいのです。


 もし、皆さんと私との違いが少しでもあるならば、私は救われてから毎日毎日信仰を働かせて、信仰によって神様から祝福をいただいている点でしょう。

 信仰によって、父親が「絶対、日本では牧師になっては食べていけないぞ。」と言ったにも関わらず、私たちは食べることが出来ているのです。

 ジョージ・ミューラーという有名な孤児院の創始者がいました。彼は二千人もの孤児の世話をしました。彼は毎日祈りました。お昼ご飯が何もない、パンがない。でもジョージ・ミューラー先生は、お手伝いさんに言いました。

 「テーブルにプレートをセットして下さい。」
 「でも先生、私たちはパン1切れもないんです。」
 「いいから、セットして下さい。」

 テーブルをセットする、ということは神様が必ず与えてくださる、という信仰なのです。そしてお昼時間が来ます。向こうの方から馬車の音が聞こえ、パン屋さんがたくさんのパンを運んで来て、その食卓を満たした、と伝記に書かれています。これが信仰を働かした結果なのです。

 クリスチャン生活の成長の一つは何かというならば、どれほど皆さんが個人の生活の中で、お金、結婚、職場、健康、学習のこと、何であれ神様に与えられた信仰を働かせるか、ということです。

 そうするならば確かに神様が私を救って下さった、私と神様との間は喧嘩状態ではなくて、神様との平和があるのだ、という確信が生まれるのです。

 「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。

 そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。

 それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ五・一~五)。 (続く)

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ローマ人への手紙(五五)

 自死しようとする人や登校拒否をする人達に対して、「神様は、『あなたは宝であり尊い者であるから自分自身の人生を粗末にするな。』と語られている。」と思って使用しているのでしょうか。

 しかし、聖書の御言葉は、時には本来の性質そのものが意味する前後関係から離れて、一人歩きをすることがあります。

 まず原則的に大切なことは、「聖書の御言葉は、前後関係を全く無視して適応することは避けなければならない」ということです。

 なぜかと言うと、使徒パウロはⅠテモテ一章一五節で「私はその罪人のかしらです」と書いています。自分自身を決して宝(たから)であるとか尊いとは言わなかったからです。

 「私は本当に価値のない者である。陶器師は土をこねて器を作り、悪い物はつぶしてしまうのにも関わらず、神様はあえて私を生かして下さる。」という思いがあったのでしょう。私は罪人であり、罪人の頭であるにも関わらず、神様は私を救って下さったのだ、という表現なのです。それはローマ五章においても同じです。

 「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。」    ローマ五章六節

 私たちが尊いからイエス様が死んで下さったということよりも、私たちが弱くて何もできない時に、神様に逆らっている時に、罪深い私のためにイエス様は十字架について死んで下さった、こうして神様の愛を表わして下さったのだと書いてあるのです。

 ジョージ・ワシントンというアメリカの大統領の大変有名な逸話を覚えていらっしゃいますか。

 彼がまだ子供の頃、お父さんが斧(おの)を買ってくれて、彼はその斧でお父さんの大事にしていた桜の木を切ってしまいました。

 どの辺りまでが事実かわかりませんが、学校で習ったワシントンの逸話として覚えているでしょう。彼は、切れそうな斧をもらってすぐ「手当たりしだいに切ってみよう。」と思いました。


 神様は私たちに「あなたは私と正しい関係に立つならば、あなたの信仰によって私の十字架を受け入れ、信仰を働かせなさい。」とおっしゃるのです。ワシントンのことを忘れても結構ですが、斧は切るためにあります。

 では、信仰は何のためにあるのですか。「信仰、信仰、信仰」と念仏を唱えるようにあるのではありません。信仰は使うためにあるのです。では、どういう事に信仰を使うのでしょうか。

 皆さんが病気の時、あるいは必要に迫られた時、「神様、どうか今、家族に必要な食べ物を下さい。経済的な必要を満たして下さい。」と祈りますね。

 また受験勉強の時、「神様、この学科が不得手で集中できません。どうか助けて下さい。」と祈るでしょう。これもまた信仰の働きなのです。

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