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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(六六)

 しかし、人を殺してしまった時は、人間に対しても償うことはできません。

 「神様。私はこういう罪を犯しました。私はもはや、あの人の命を地上に戻すことはできません。しかし、私自身のこれからの生涯を神様ご自身のためにお使い下さい。」と神様にお祈りをして、自分自身を生きたきよい供(そな)え物として捧げていくことしかできません。その故に、使徒パウロは「時を贖う」という言葉を使ったのです。


 罪の時代において成し得なかったことを、これから生きる時に、「神様、それをもって贖わせて下さい。」と言いました。人はいくら働いても、いくら神様にお金を積んでも、命を贖うことはできません。あまりにも命の代価が高いからです。


 神様は、イエス様を通して神様との平和を与えて下さるのです。そして私たちは毎日、神様の裁きを恐れることなく、神様の祝福を喜ぶことができるのです。


 夫婦喧嘩をした時、お互いにブスっとして、黙々と箸を動かして食べて、「お茶!みそ汁!」。食べ終わったらパッと立ち上がって出て行ってしまう・・・。こんなおいしくない食事はないですね。私も何度か経験しました。そして、やはり喧嘩をして食べるのは良くないな、と思います。


 神様は私たちが弱いことをご存知であり、罪を赦して下さいます。罪を赦された私達は、二度と同じ過ちをしたくないという気持ちを持つでしょう。イエス様を信じる信仰者と、信仰をもっていない人との違いが出てきます。信仰をもっていない人は、酒に溺(おぼ)れて、悪いことをしでかしてしまいます。失敗をすると「もう私は二度と再びお酒を口にしない。」と言いますが、その誓いはすぐ崩(くず)れてしまいます。


 もうすでに亡くなった一番上の兄が若い頃、正月に半紙(はんし)に墨で「これから禁酒」と書いて床の間に貼りました。が、あくる日には、もう飲んでいて、三日目に自分で床の間に貼った紙を破いて捨てていました。

 私たちは弱い者です。クリスチャンの場合には、神様に誓(ちか)うことはしませんが「神様どうか私を毎日毎日、一歩ずつ高みに引き上げて下さい。」と祈って生きます。

 神様との平和を頂くことによって、私たちは救いの確証を頂くことができます。それは確かな事実です。イエス様を信じようか信じまいかと迷っている間、心が不安だったでしょう。

 教会では礼拝の中で「イエス様を今日心にお迎えしたら、どうぞ手をあげて下さい。」という招きの時がよくあります。心の中で「あっ、今日は信じよう。」と思うけれども、牧師と目が合うと、ぱっと手を下げてしまうことが若い頃には何度かありました。
 そしてとうとう、「もうこれ以上抵抗しきれない。」と手を挙げ、前に出て、祈ったのです。ですから、皆さんが招きの時に、ためらうのはよくわかります。 (続く)

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ローマ人への手紙(六五)

 日本人の間で「自分がイエスを信じてやったのだ。」という生き方をする人がたまにいますが、実はまだまだ序の口であって、本当の信仰は神様に自分自身を含めて全てを明け渡すことなのです。そこにこそ、良心の咎めを感じないで毎日平安に過ごすことのできる秘訣があるのです。


 また、イエス様を信じる人は神様によって裁かれ、「恐ろしい地獄におちる」ということがありません。ということは、その「神様との平和」を与えられ、神様の裁きを恐れずに生きるということです(ルカ二三・三九~四三)。

 勿論、それは人殺しをしたり、強盗をしたりという「犯罪」のことを言っているわけではありません。信仰のない友達の誘いに乗って、思いがけず誘惑に負けてしまったということがあるかもしれないし、あるいは自分自身の生活の中で怒って物を壊してしまったり、誰かを傷つけてしまうことがあるかもしれません。

 でも、聖書に戻ってほしいのです。神様はいつも私たちの病や私たちの傷を癒す力をもって、待っていて下さるのです。そして神様に「神様、ごめんなさい」と謝るならばその瞬間、罪を赦して下さるのです。

 「ああ、そうか。では、何か悪いことをしてもいいのだな。謝ればいいのだな。」と言って悪いことをする人は、愚かな人で、その人は本当の意味で神様の赦しをいただくことはできません。

 皆さんは小さい時から、今に至るまでに一度だけではなく何度か物を壊したり、あるいは誰かに怒られたという経験があるでしょう。「私はそういう事が一度もありません。優等生です。」という人がいるでしょうか。


 人間は草のような存在、弱い存在です。間違いを犯しやすい者です。ここが問題なのであり、一番肝心なところです。

 神様は、私たちが草のような、風にそよぐ葦のような弱い存在であることをご存知でいらっしゃいます。
 人間は罪に負けやすい存在だと神様はご存知で、私たちがイエス様を信じるという時に、たとえ過去に犯した人殺しの罪や、泥棒の罪、人と争いをした罪、人を騙した罪があっても、イエス様を信じた瞬間に過去の罪はすべて赦されるのです。
 無罪放免なのです。「じゃあイエス様を信じる前にできるだけ借金をして踏み倒そう。」これまた愚かなことです。

 人間対人間の関係でそういう間違いは、イエス様を信じる時、私たちは全てを償う責任があります。神様に対して償うことはできませんが、人間対人間にある問題は、できる限り自分で償う必要があるのです。 (続く)
◎暗誦聖句 箴言一六章二〇節前半(表題下聖句)

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ローマ人への手紙(六四)

 「神様との平和」それはまず自分自身の心の中に良心の呵責、咎めを持たないことがあげられています。

 イエス様を信じていながら、私たちが隠れて何か良くないことをやるとう時には、当然良心の咎めを感じます。


 私は若い頃、教会に通っていましたが、本当の意味での救いの喜びを経験できず、いわば戒律主義、律法主義の時代を経験しました。
 その時代には、一方では神様を見上げながら、そしてもう片方では自分の努力によって信仰生活を全うしなくてはいけない、と間違った考え方をしていました。罪を犯すと、何とかそれを隠そうとして、よけい良心の咎めを覚えたものでした。

 そうした生活の中にあって、とうとう日々の生活が自分の力では信仰を全う出来ない、という絶望状態に入ってしまったのでした。

 そして私の力でも私の努力でもなく、全く神様に明け渡した時、初めて心の底から魂の自由を味わうことができるようになったのです。


 皆さんもよくご存知のハドソン・テーラーという中国伝道をした宣教師も、実は同じ経験をしました。クリスチャンのカウンセリングをアメリカで教えていただいたチャールズ・ソロモン博士も、(私も後で知ったことですが)同じような経験をしたことがテキストに書いてあります。多くの人たちが経験する、一般的な「新生」であることがわかります。

 使徒パウロは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」とガラテヤ書二章二〇節で書いています。

 「今生きているのは私自身ではなくて、イエス・キリストの命(いのち)が私という身体を通して働いて下さる。生きているのは私自身ではなくして神様の命が私を通して働かれるのだ。」という、その信仰の確信に至るまで、私は随分長い間さまよい、また心の戦いを経験したのです。


 若い皆さんも教会出席、礼拝、什一献金、祈り、そして聖書を読むこととか、いろいろな形で「自分は、こうしなければいけない、ああしなければいけない。」という義務感でやっていると当然挫折がきます。

 張り詰めた琴(こと)の糸が、ぷつんと切れるようにです。皆さんはその努力の結果、絶望すると思います。実は、本当の意味での信仰生活とはその「絶望」から始まるのです。

 「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません」(詩篇五一・一七)。神様が喜ばれるのは、私たちの「砕かれた霊魂」なのです。(続く)
◎ 暗誦聖句 ヤコブ一章二五節 (表題下聖句)

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ローマ人への手紙(六三)

 私達は、この地上に生きている間、生涯様々な誘惑に出会い、あるいは、日々の生活の中で戦いを経験しています。


 自分では正しいと思っていても、神様が御覧になる時に良くないことであるかもしれません。

 私達は信仰生活を歩んでいくうちに段々、自分の手で神様に喜ばれる「義」を積んでいこうとしてしまいます。そういう落とし穴があるのですね。


 「偉大な魂は、単純な魂である。」と言う伝道者がいました。

 偉大な人物、偉大な信仰の人というのは、非常に単純な信仰の持ち主であると言われています。そのことを覚えていただければと思います。

 「単純な信仰」とは、イエス様が私の罪を背負って、身代わりとして、十字架について死んで下さったことを信じることです。


 モーセは荒野で蛇を挙げました(ヨハネ三章一四~一五節)。

 毒蛇に噛まれた人々は毒蛇の姿をした青銅の蛇を見つめた時、瞬間的に癒されました。同じように私達はイエス様の十字架を仰ぎ見る時に罪を赦されるのです。


 「じゃあ、これから、いくら罪を犯しても構わないな。」と言って、またこの世に出て行って、面白半分にあるいは自分のしたい放題に罪を重ねることは、愚かな事です。本当の意味で「救いのない人」と言わなくてはなりません。


 「それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか」(ローマ六・一~二)。


 これはヨハネの書いた「ヨハネの手紙第一」を見ていくとわかります。

 イエス様を信じる人は、毎日、毎日、現在進行形でイエス様を信じ、そして神様に従っていこうとします。

 ただ一度だけ信じて、「あとはもうおしまい。」ということではありません。

 私達はイエス様の十字架を仰ぎ望むことによって、神様との平和を持つようにされるのです。


 ローマ一章においては、神の怒りが異邦人(いほうじん)にも及び、また二章においてはユダヤ人もまた神の怒りのもとに置かれているということが書かれています。

 しかし、五章において使徒パウロは一転して、ユダヤ人もギリシャ人も全(すべ)ての人間はイエス・キリストを通して神との平和をいただくことが出来ると書きました。


「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」(ローマ五・一)。(続く)

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