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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(六八)

 結婚した夫婦は、婚姻届を市役所へ持って行きます。

 婚姻届を出しても、二人が一緒に生活する意思がないならば、夫婦とは言えないでしょう(例外は別として)。
 夫婦という形で性的に結ばれた時に初めて本当の意味で一つにされます。人は、父母を離れて、男と女が結ばれ一体となるとイエス様が仰せになりました(参照マタイ一九・三~六、テトス二・四~五)。


 「一つになる」。男女それぞれ違った身体であるけれども一緒のペースでこの結婚の喜びを味わった時に、本当に一つになった喜びが沸いてくるでしょう。
 婚姻届を出したという事実以外に、本当に自分達は一つの身体にされたのだという喜びがあり、結婚は婚姻届という「事実」と同時に「喜ぶ」という「感情」が深まります。したがって、結婚していても喜びのない夫婦ならば、むしろ重荷という状態かもしれません。
 クリスチャンはイエス様を信じて神様の裁きから逃れることができるという、聖書の戸籍謄本をいただくのです。
 毎日祈り、神様を仰(あお)ぎ見て、「神様がこんなに大きな祝福を下さったので嬉しい。」という喜びの感情が、信仰生活に表れます。「事実」は聖書のお言葉です。
 罪が赦され、神様が祈りに答えて下さり、生きて働いておられるということを実際の生活で感じ、あふれ出てくる喜びが「感情」です。


 イギリスのブラッケントレイツという所に、ウィリアム・ビクソンという人がいました。ある日、彼が住んでいるアパートのすぐ近くで火災が起きました。
 そのアパートには一人のお婆さんと孤児となった孫が住んでいました。お婆さんは色んな人に助けられて、火の中から逃れることができました。
 しかし、家の中には孫がまだいたのです。火の勢いはどんどん強くなっていきます。そんな中、ビクソンさんが建物の鉄の樋を伝って二階にいたその男の子を助け出したのです。


 しばらくして、このお婆さんが亡くなりました。孤児となった男の子を、誰がこれから世話するかが裁判所で審議されました。
 その町で養子にしたいという希望者が二人いました。一人は「息子を亡くしたので、この子をもらいたい」と言いました。ビクソンさんも同じように息子を亡くしたのですが、黙って裁判官の前に自分の手を差し出しました。
 何一つ彼は言う必要がなかったのです。火事の中で死にそうだったその子を助け出すために、彼は両手にものすごい火傷をおいました。彼はこの子に身をもって愛を示したのでした。

 イエス様はご自分の命を十字架におつけになり、神様の愛を私たちにお示し下さいました。これほどの愛に、さらにしるしを求める必要があるでしょうか。
 「神様との平和」。それは私たちがなお罪人であった時にキリストが私達のために死んで下さったことにより、神様は私たちに対する愛を表わして下さったのです。(続く)

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ローマ人への手紙(六七)

 イエス様を信じようとする時、いろいろな思いが交錯します。
 「もし自分が今、イエス様を信じてクリスチャンになったら、友達関係がなくなってしまうかもしれない。ダンスも、お酒もたばこも、何もかも駄目かもしれない。」という恐怖感が襲ってきます。
 そして、「自分には、とてもついていけない。」と思ってしまうのです。しかし、その戦いがある時に、「心配はいりません。貴方の力ではなく、私が貴方と共に戦います。」と、神様は私達の心に働いて下さいます。


 「神様との平和」をいただき、どんなに難(むずか)しい時にも神様が私と一緒に立っていて下さり、私と一緒に戦って下さるという信仰の歩みの祝福。イエス様は「私の軛(くびき)は軽い」とおっしゃいました。「軛」というのは牛二頭をたてて土地を耕す時に、首につける道具です。
 軛は、力の強い方がぐんぐん土を掘り起こして進むので、力の弱い方はただくっついていけばよい、と言われます。イエス様がその軛を負って下さる故に、私は力が弱いけれど、イエス様に歩調(ほちょう)を合わせて進めばよいのです。そのことを理解するのに信仰生活の中で私は数年かかりました。


 それまでは、牧会(ぼっかい)や勉強、聖書を読む、祈る、ということを「自分の力」でやってみましたが、挫折(ざせつ)や失敗ばかりで、とても信仰生活を全うできないと思いました。
 そういう肩肘を張った信仰生活から、裃(かみしも)を脱ぐことがポイントでした。ちょうど家に帰って洋服を脱いで、入浴して「あーあ、さっぱりした。」というのと同じです。神様の御前に「自分」という殻(から)を捨てて、素直に神様に従っていけるようになりました。


 神様は私たちの外側も内側もすべてご存知のお方です。人間には他人の外側しかわからず、心の中にどういう汚い思いが渦巻いているかはわかりません。「すると、主は彼に言われた。『なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています。』」(ルカ一一・三九)。


 旧約聖書の第一サムエル一六・七には「人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」と書かれています。人は外の形を見、神様は人の内側をご覧になります。私達は、イエス様にいつも自分自身を素直にさらけ出し、飾ることは必要ありません。自分のあるがままの姿で神様に従う時に、本当の意味で、良心の咎めから解放され、また神様が私の罪汚れを赦して下さるという、その事実に根ざした立場の変化、神様の子供とされるという、「立場の変化」を与えられるのです。


 では、信仰は事実という「理性」であって感情は全くないのでしょうか。ある人達は非常に熱心ですが、「その熱心さが知識に裏づけされていない。」とパウロは指摘しました。クリスチャンは「感情」をいつも殺して抑圧しなければいけないのでしょうか。そうではありません。(続く)

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