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習志野バプテスト教会の週報

ローマ人への手紙(七三)

 洞爺丸が沈没するときに、多くの人たちが我先にボートに逃げようとしましたが、リーパー宣教師はそばにいた人に「私は死んでも行く所があります。

 私の行く所は決まっています。私の代わりにボートに乗ってください。」と言って船と一緒に沈んでいったというのです。後に助かった人がこのことを報告しました。

 一人の宣教師が一人の日本人の命を救ったというのなら、まして、イエス・キリスト、罪汚れのないお方があなたのために死んでくださったという、命の恩人であるイエス様に自分のすべてを捧げる気持ちにならないでしょうか。


 イエス様は、私たちを滅びから救ってくださるだけではありません。船が難破して溺れそうになった人を助け上げた救助船がするように、彼を海から引き上げただけではなく、暖かな衣服と温かな飲み物と寝る場所を与えないはずがあるでしょうか。

 もし皆さんが仕事で挫折する時、あるいは病気で意気消沈する時、心が砕かれた時、心にこの「まして」を思ってほしいのです。


 イエス様は私が永遠の滅びを刈り取ろうとする二千年も前に、命を捨ててくださり、よみがえってくださいました。まして、私が今また奈落の底に落ちようとする時に、神様が救ってくださらないことがあるでしょうか、絶対にありません、ということなのです。


 「まして」ということは、神様が真実な、アーメンな方であるから、ましてその御約束を守らないはずがあろうかと自分自身に問いかける訳です。神様は私を滅びの中から救ってくださいました。そして「私を信じる者は、死んでも生きるのです。」とおっしゃったとするなら、ただ心の悩み、苦しみを聞いてくださるだけでなく、私が食べ物に困っている時に、人間の体を維持するための食べ物を下さらないはずがありましょうか。


 私たちは心の中に迷いが出ると神様から離れてしまいます。その時に思い起こしてほしいのです。「私はイエス様を信じた。そしてこれまで教会生活をしてきた。神様は私に信仰の喜びを与えてくださった。にも関わらず、私は神様から段々心が遠のいてきた。

 けれども一度私を滅びから救い上げてくださったお方は、私が神様のもとに戻ることを喜ばれないはずはない。私が、『神様、助けてください』と叫ぶのに、助けてくださらないはずがあろうか。」と自問自答するのです。その時に大事なことは「まして」ということです。


 聖書の中で使徒パウロが使った大事な言葉が二つあると思います。一つはローマ書三章にある「しかし」。もう一つが今、勉強している「まして」です。(続)

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ローマ人への手紙(七二)

 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」         ローマ人への手紙五章八節


 私たちは、神様が私たちを愛してくださっているという確かな証拠を見ることができます。それは神様が最も大きな犠牲を払い、御子イエスを十字架につけて私たちの罪の身代わりとして下さったということです。

 旧約聖書のイザヤ書五三章六節には「 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」と書かれています。人間は自分勝手な道を歩いているのです。

 にも関わらず、神様は私たちを救うために御子イエスをこの世にお遣わしになり、十字架を背負わせて下さったのです。その結果、私たちは、十字架につけられたイエス様を仰ぎ見る時に、一度も罪を犯したことがないのと同じように扱われるというのです。決して私たちは聖人君子になるわけではありません。

 人生の様々なところで私たちは間違いを犯(おか)します。けれども神様は私たちの罪汚れに対し、「またやった。またやった。」と罪を追いかけ回すお方ではなくして、イエス様の十字架をご覧になって赦してくださるのです。

 イエス様が十字架上で流してくださった血潮によって、私たちが神様の前において正しい者とみなされ、神様の家族の一員として、神様の子供として扱われるのです。まして、イエス・キリストによって神の怒(いか)りから救われないはずがあろうか、ということです。私たちは、イエス・キリストの十字架の死によって神様がどんなに私たちを愛してくださるかを知ることができます。


 私が高校生のとき、NHKのラジオ英会話の勉強をしていました。その時、日本中のあちらこちらでラジオの聴取者の会ができて、一番多い時期は北から南まで一六〇〇ほどの英会話のサークルができました。後に私はそれらのサークルをリードすることになりました。東京の小松川高校で千数百人を集めて私は聴取者の会を開きました。


 当時、宣教師であれば良いクリスチャンであると思っていたので、わからないままGHQのトップに会いに行ったり、宣教師がいる所はYMCAと思い、行ってお願いしました。その時、快く引き受けてくださったGHQの民間情報局長は女性でした。

 YMCAからは宣教師のリーパー夫人が派遣されて来てくださいました。女学校を借りて英語の指導をお願いしました。二、三年たって北海道と青森を結ぶ青函連絡船洞爺丸が沈没しました。新聞に大きく出た記事にリーパーという宣教師が亡くなったということで、私はあのリーパー夫人のご主人だなと思いました。確かにそうでした。(続く)

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ローマ人への手紙(七一)

 「まして」という言葉を好んで使った伝道者は使徒パウロでした。ローマ五章九、一〇、一五、一七、二〇節と続きます。その他では、Ⅰコリント一二章に一ヶ所、Ⅱコリント三章九、一一節、そしてピリピ二章、ピレモン一六節、また学者によってはヘブル(パウロが書いたといわれる)九章、一二章とあります。


 新約聖書の中で「まして」という言葉は、一二回出てきますが、その中の五回がローマ人への手紙です。この他には出てきません。しかも、「まして」という言葉がローマ五章の中に頻繁に出てくるということは、どんなにパウロが神様の恵みと憐れみを強調したかったのかが分かります。

 これからの生涯でつまずいた時に、あるいは疑いを持つ時に、様々な悲しみを抱える時に、この言葉を想い起こしてほしいです。「まして」、必ず皆さんの日々の生活の中に大きな力となぐさめ、励ましをもたらして下さると思います。


 ローマ五章八節を見ていくと、「私たちがまだ罪人であったとき」とあります。

 私たちはそれこそ世の中の罪汚れにどっぷりと浸って、〝箸にも棒にもかからない〟ような、もう、めちゃくちゃな生活でどうしようもなく、救いようがない、ヤクザで、だらしなく、怠け者で、神様に逆らってばかりいた罪多き者です。

 すなわち、どこから見ても私たちは正しくないのです。


 戦後、日本に来た宣教師が、よく漢字を分解して絵を描きました。「罪」という字は四の下に非と書く。「非」は「あらず」で普段のことではありません。

 人間は、前から見ても後ろから見ても左から見ても右から見ても、良いことがないというのが罪です。四つの面から見て良いことが非ずということです、と。「非常」というのは普通の時ではないこと、「非」というのはNO(ノー)です。


 イザヤの表現を借りるなら、「罪」というのは神様が私たちをご覧になる時に、足の裏から頭の天辺に至るまで腫れ物とウミで一杯だという状態をさし、汚れに満ちた存在です。

 そんな罪人である私たちのためにイエス・キリストは死んでくださったのです。そして神様は、私たちに対する愛をあらわしてくださいました。


 これから結婚する方は、相手の男性あるいは女性に「もし、あなたが私を愛するなら、その証拠を見せてください。」という言葉を使うことがあるかもしれません。

 大体、日本人は愛情表現が不得手、非常に苦手です。「家内は私が愛していることは分っています。そんなことは言わなくても分っているんです。」と。でも、奥様は言ってもらいたいのではないでしょうか。 (続く)

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